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#ヒューマンドラマ
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縫季が視線を向けると、息を切らせた青年が駆け寄ってくる。
年は帝辛より少し上に見える。書吏の衣を纏い、袖口には乾きかけた泥が跳ね、踵も濡れている。走ってきた証拠が、あちこちに残っていた。
(……見覚えがある)
内庫司で見かけた、走り書吏だ。王太子府と医官府をつなぐ役で、書状も薬材も運んでいる。
「殿下、また勝手に抜け出して! 護衛もつけずに市場なんて、危ないじゃないですか」
青年は帝辛の前で立ち止まり、大げさに肩を竦めた。
帝辛は呆れたように笑う。
「清朗、護衛がいると、民が緊張する」
「それはそうですけど……せめて一声かけてくださいよ。探しましたよ」
「すまぬ。だが、そなたはすぐに見つけるだろう」
「当たり前です。殿下が民のところへ行くのは、いつものことですから」
清朗はそう言って、にっと笑った。
帝辛も笑う。
その笑顔は、先ほどの「民への微笑」ではない。
友を前にした、年相応の、無邪気な笑みだった。
「そなた、相変わらず口が悪いな」
「殿下には、俺くらい口が悪い奴が必要なんです。
でないと、真面目すぎて倒れますから」
「……まったく、敵わないな」
帝辛は困ったように、だが柔らかく口元を緩める。
公の場では決して見せない、素の笑みだった。
縫季は、その瞬間を見逃さなかった。
――その笑顔が、視界を歪ませた。
縫季の掌が、わずかに冷えた。
殷の線が、滲んだ。
――黒い香の海。
喉に絡む、甘くて苦い匂い。
玉座の影で、同じ目が震えていた。
笑おうとして、できずに、唇だけが歪む。
泣く声すら出せず、ただ『命令』を飲み込んでいた。
『……民を、犠牲にせよ』
涙が、一筋だけ頬を伝う。
その涙を、黒い影が嗤っている――
縫季は掌を握りしめた。線が、離れる。
「……こんな風に、笑うのか」
縫季の喉が、小さく鳴った。
過去に見た帝辛は、涙を流していた。
黒い影に操られ、民を苦しめる決定を強いられ、表情を失っていた。
だが今、目の前の帝辛は、明るい。
縫季は視線を外した。指先が、帳の端を強く押さえる。
――違う。これは任務だ。歪みを修正するために来た。
それだけのはずだった。
だが――
(……この人を、救えないのか)
その想いが、縫季の胸に芽を出し始めていた。
そんな縫季の動揺を知ってか知らずか、帝辛はふと、柱の影に立つ縫季の姿に気づいた。
視線が交差する。
縫季は息を呑んだ。
帝辛の眼差しに敵意はない。
だが、どこか測るような静けさがある。
まるで、こう問いかけているかのように。
《お前は、何者だ》
《何を見に来た》
帝辛は縫季に向かって軽く頷き、それから清朗の肩を軽く叩いた。
「行くぞ。まだ仕事がある」
「はい。……やれやれ、たまには仕事の方から逃げてくれませんかね」
帝辛はもう一度だけ、縫季を見た。
そして、静かに言った。
「そこの官吏。後で少し、茶でも飲まないか?」
縫季の心拍が、跳ねた。
(……俺を、呼んでいるのか?)
周囲を見回すが、帝辛の視線は確かに縫季を捉えている。
「……承知いたしました」
帝辛は満足げに頷き、それから清朗に向き直った。
「清朗、茶の用意を頼む。客人だ」
「え、誰ですか?」
清朗が周囲を見回すと、帝辛は柱の影を顎で示した。
「あそこの新入りだ。……名は、後で聞く」
清朗が縫季を見て、ぱっと顔を明るくした。
「ああ、監査吏の。分かりました、準備しときます!」
そう言って清朗は手を振り、軽やかに駆けていった。
帝辛はその背中を見送り、それからもう一度、縫季を見た。
視線が交差する。
帝辛の目は、何かを確かめるように、縫季を測っていた。
そして何も言わず、王太子府の奥へと歩いていった。
その背中は揺るぎない。だが、縫季を試すような余韻を残していた。
縫季はその背を見送り、小さく息を吐いた。
(……何を、確かめようとしている)
胸に残ったのは、敬意と、畏怖。
帝辛はただの若き王太子ではない。
『人を見る力』を持っている。
そしてその力は、縫季の想定を超えていた。
縫季は柱の影から離れ、配給の場を後にした。
任務は、まだ始まったばかりだ。歪みの正体を掴むまで、観察を続ける。
だが――
(あの眼差し……)
(涙を流していた、あの帝辛の姿とはまるで違う)
縫季は視線を落とした。
今は感傷に浸っている場合ではない。任務を遂行する。それだけだ。
――帝辛の笑みが残る胸の奥を、気づかないふりで通り過ぎた。
コメント
1件
第4話、読み終わりました。帝辛の「素の笑顔」、すごく印象的でした。清朗とのやりとりで見せる年相応の無邪気な笑みと、縫季の記憶にある黒い影の中で涙を流す姿との対比が胸に刺さります。「笑おうとして、できずに、唇だけが歪む」――その一文で、過去の帝辛の痛みが一気に立ち上がってくるようでした。そして視線が交差したあの瞬間。帝辛の「測るような静けさ」に縫季が気づくラスト、次の展開が気になりすぎます。丁寧な心理描写、じっくり味わいました。続きも楽しみにしていますね🌷