ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(英語: John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズにおいてボーカル・ギターなどを担当しレノン=マッカートニー名義で作詞作曲をした。ビートルズ解散後はソロで、主にオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。シンシア・レノンとの間に生まれた長男ジュリアン・レノンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーン・レノンがいる。ジョン・レノン
1964年撮影
基本情報
出生名
ジョン・ウィンストン・レノン
別名
ジョニー・シルヴァーロング・ジョン・シルヴァー
生誕
1940年10月9日
出身地
イングランド マージーサイドリヴァプール
死没
1980年12月8日(40歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
学歴
リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業
ジャンル
ロックポップロックンロール実験音楽
職業
シンガーソングライターギタリスト
担当楽器
ボーカルギターハーモニカ鍵盤楽器
活動期間
1957年 - 1975年
1980年
レーベル
EMIパーロフォンアップルゲフィンポリドール
共同作業者
クオリーメン
ビートルズ
プラスティック・オノ・バンド
公式サイト
ジョン・レノン 公式サイトジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年)出生名はジョン・ウィンストン・レノン。ヨーコとの結婚に際しジョン・ウィンストン・オノ・レノンに改名。MBE・大英帝国第5級勲位を1965年に受賞したが、のちに英国のベトナム戦争支持を理由に返上した。ビートルズを立ち上げたリーダーであるほか、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した。1970年のビートルズ解散後はアメリカをおもな活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止したあと1980年に活動を再開するも、同年12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男に撃たれ、30分後に死亡が宣告された。『ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「愛こそはすべて」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ジョンとヨーコのバラード」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」を発表した。また、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「労働階級の英雄」「女は世界の奴隷か!」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「ジェラス・ガイ」「マインド・ゲームス」「真夜中を突っ走れ」「インスタント・カーマ」「平和を我等に」「マザー」「夢の夢」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などを発表した。カバー曲の「スタンド・バイ・ミー」「ビーバップ・ア・ルーラ」も出している。
コメント
8件
うわ、なんかすげ〜