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#ワンナイトラブ
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1 氷の秘書と、悪魔の提案
「……以上が、明日の経営会議の最終資料です。ご確認いただけますか、青桐社長」
都心の一等地、地上四十五階に位置するCEOルーム。
静寂が支配するその空間に、私の声だけが硬質に響いた。
無機質なデスクに向かい、一点の曇りもない動作でタブレットを差し出す。
タイトなスーツの皺一つ、一糸乱れぬ夜会巻きの毛先一本に至るまで
私は「完璧」であることを自分に強いてきた。
知的なシルバーフレームの眼鏡の奥で、感情を排した瞳が主を映し出す。
社内での私の通り名は「氷の女」、あるいは「シゴデキの鉄面皮」。
恐れられ、遠巻きにされ、けれど秘書としての手腕だけは崇められる。
それが、氷室志乃という女の作り上げた仮面だった。
デスクの主──青桐不動産の若きトップ、青桐京介は
差し出した資料に視線を落とすと、不敵に口角を上げた。
「完璧だ。……相変わらず、君の仕事には隙がないな。氷室」
「恐縮です。それが秘書の務めですので」
感情を殺して事務的に答える。
けれど、私の胸の内は、今にも張り裂けそうな焦燥感で焼け付くようだった。
数時間前、スマホに届いた母からのメールが頭を離れない。
『おばあちゃんの容体が急変した…最後に志乃の花嫁姿見たかったとかも言い出して…』
二十九歳、独身。
恋人どころか、最後に男の手を握ったのがいつだったかも思い出せない。
二十代のすべてを青桐不動産に、そして目の前のこの男のサポートに捧げてきた私にとって
祖母の「最後の願い」は、世界で最も攻略困難なミッションだった。
「……さっきの、容体が急変した話か?」
不意に、低く艶のある声が私の思考を強制終了させた。
見上げると、京介様が書類を置き、組んだ脚の上に肘をついてこちらを凝視していた。
彫刻のように整った顔立ちに、一切の妥協を許さない冷徹なまでの経営手腕。
全社員の羨望を集めるこの男は、人の心の機微を恐ろしいほど鋭く見抜く。
「いえ。私事でございますので。失礼いたします」
これ以上踏み込まれては、この鉄面皮が崩れてしまう。私は逃げるように踵を返した。
「待て」
退出しようとした私の背中に、重く冷ややかな命令が突き刺さる。
「君に、折り入って相談がある。……いや、これは『商談』と言うべきか」
椅子の軋む音が聞こえ、京介様がゆっくりと立ち上がる気配がした。
背後から近づいてくる足音に合わせて、私の心臓が警鐘を鳴らす。
至近距離に立ち止まった彼から、高級なシトラスと微かな煙草が混じった香りが漂ってきた。
脳の奥を痺れさせるようなその香りに、背筋を微かな戦慄が走る。
「俺は、今度の株主総会までに『身を固めた誠実な男』というブランドを手に入れる必要がある。次期会長の座を揺るぎないものにするために。……一方で、君は今、喉から手が出るほど『夫』という存在を欲しているのではないか?」
心臓が跳ねた。
肩が小さく震えるのを、自分でも止められない。
なぜ。なぜ、私の窮地をこの人は知っている?
「氷室。俺の妻になれ」
「……はい?」
あまりの言葉に、私は秘書としての仮面を忘れて振り返った。
鼻先、わずか数センチの距離に、京介様の顔があった。
彼は逃げ場を奪うように私を壁際へと追い詰めると
長い指先で私の眼鏡のブリッジをゆっくりとなぞった。
獲物を追い詰めた肉食獣のような瞳が、私の視線を逃さない。
「これはビジネスだ。報酬は望むだけ用意しよう。おばあ様の最善の医療環境も、望み通りの式も、すべて青桐の名の下に。ただし──」
京介様の強靭な腕が、私の腰を強引に引き寄せた。
タイトなスーツ越しに、彼の厚い胸板が私の胸に押し当てられる。
逃げようとしても、その体温に絡め取られて動けない。
「表では完璧な夫婦を演じきってもらう。そして二人きりの時は──夫を拒まない『義務』を全うしてもらう」
「それは…っ」
「……わかっているな? 公私ともに、俺のすべてを受け入れてもらうということだ」
耳元で囁かれた熱い吐息に、思考が真っ白に染まっていく。
眼鏡の奥で、私の瞳が激しく揺れた。
これは、崖っぷちの私に差し伸べられた救済の手なのか。
それとも、二度と戻れない底なしの沼への招待状なのか。
「……返事は?」
逃がさない。そう言わんばかりに腰に回された腕に力がこもる。
私は、喉まで出かかった拒絶の言葉を、静かに飲み込んだ。
こうして、偽りの結婚という名の甘く危険な契約が結ばれた。