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雨上がりの湿気で、蒸し暑さが増す地下街。
「すみません。お待たせしてしまって」
地下鉄の改札口の手前で待つ私のもとへ、今泉さんが息を切らして駆け寄る。
食事の約束をしたあと、道路脇に駐車していた営業車を置くため、今泉さんは一度会社へ戻ったのだ。
会社からずっと走って来たのだろうか……
額にかかる黒髪が汗で微かに濡れているのが分かる。
私はバッグから淡いピンク色のハンカチを取り出した。
「いえ。お仕事は大丈夫ですか?」
「はい。もう片付きました」
「そうですか。お疲れさまでした」
額の汗を手の甲で拭おうとする彼にハンカチを差し出し、柔らかく微笑む。
「えっ! そんな綺麗なハンカチを汚してしまっては。自分のがあり……あ、あれ?」
今泉さんはスーツのポケットを探った手を引き抜き、照れ笑いを浮かべた。
「営業車の中に忘れて来たみたいです……ハンカチ」
「気になさらず使ってください。ハンカチなら、まだ二枚ありますから」
「えっ。 全部で三枚? いつもそんなに持ち歩いているんですか?」
「普段も二枚は持っていますが、雨の日は特に予備を何枚かバッグに入れるのが習慣なんです」
「どうぞ」とハンカチを差し出し、ニッコリと笑う。
「なるほど……。亜紀さんの性格が表れていますね。ありがとうございます。では、遠慮なくお借りします」
今泉さんは口元に笑みを浮かべると、ハンカチを額に軽く押し当てて汗を拭いた。
「あの……どこで食事を? 電車で行くんですよね」
「はい二駅行った所に、お薦めの店があるんですよ。和食中心ですが……何か食べられないものはありますか?」
今泉さんのお薦めのお店……。
咄嗟に自分の服へ視線を落とす。
「いえ、食べられないものは特にありません。和食は大好きなんですが……」
気まずい思いに、口をもごつかせる。
「……どうしました?」
今泉さんは首を傾げ、私の表情を窺った。
「私、こんな普段着で……。雨にも濡れて、綺麗な格好とは言えないので……」
苦笑いを浮かべながら、必死に言葉を探した。
今泉さんは、一瞬ふっと和やかに微笑んだあと、
「大丈夫ですよ。こぢんまりした普通の居酒屋です。刺身がすごく美味しいんですよ。それに、そこの女将さんが作る煮物も最高なんです。僕の方こそ、お洒落な店じゃなくて申し訳ない気持ちになってきちゃったな」
今泉さんは鼻先を軽く指で擦りながら、目尻を下げて笑った。
「いえ、そんな。お刺身も煮物も大好きです。どちらかと言うと、シャンパンやワインよりも焼酎や冷酒の方が好きなんです」
はにかみながら、ぽつりと声を零した。
「冷酒かぁ、いいですねぇ。では、冷酒を飲みながら刺身をつまんで、故郷話といきますか」
今泉さんはスーツの内ポケットから定期券を取り出し、満面の笑みで声を弾ませた。
胸のドキドキが止まらない……
彼を見つめると、自然と笑みがこぼれる。
「はいっ!」
私はくすぐったい胸の鼓動を感じながら、前を歩く彼に少しだけ身を寄せ、笑顔を返した。
***
「亜紀さん、三十三歳なのかぁ。そっか、俺と一回り違うってことかぁ」
今泉さんは私が注いだ冷酒を飲み干すと、しみじみとため息をついた。
今泉さんのお薦めというこの店は、駅前のビルの間にひっそりと建っていた。
剥き出しになった無垢の木の柱や梁が、安らぎと木の温もりを感じさせる。
こぢんまりとした普通の居酒屋というよりも……お洒落な料亭といった雰囲気だ。
「亜紀さんからしたら、オヤジだよなぁ、俺」
いつの間にか「僕」から「俺」に変わっていた今泉さんは、ブリ大根を箸でつまみながら、「はははっ!」と声を上げて笑った。
「全然オヤジなんて感じませんけど。男性として、とても魅力的な年齢だと思います」
飲み干された今泉さんの小さなグラスに冷酒を注ぎ、ニッコリと笑った。
正直言うと……
おじ様好きの麗香と違い、今までこれほど年齢の離れた男性に惹かれたことはない。
なのに……
今泉さんだけは……。
見た目が年齢より若く見えるから?
漂う雰囲気が好みだから?
明るい場所で間近に見る彼の顔。
はっきりとした二重瞼。
光の加減だろうか……薄茶色の綺麗な瞳。
年齢など関係なく……
どうしようもなく、惹かれる。
「あの……今泉さん、……ご結婚は……」
指輪のない左手の薬指へ視線を移し、遠慮がちに小声で尋ねた。
「えっ? ごめん、何?」
女将さんから寄せ豆腐の器を受け取った今泉さんは、聞き取りづらかったのだろう。微笑みながら聞き返した。
「あの、ご結婚は? 指輪をされていないので……あ、失礼にあたったらすみません」
私は慌てて言葉を止める。
今泉さんは私の顔を見てふっと小さく微笑むと、
「いえいえ。僕には子どもが二人います。上の息子が二十歳で、下の息子は十七歳です。指輪はかなり前に変形してしまったので、自宅に保管してあります」
笑顔でそう答え、豆腐の入った皿をテーブルに置いた。
「あ、そうなんですね。そんな大きなお子さんがいらっしゃるようには見えませんね」
私はすぐに笑顔を作り、無意識に湧き起こる複雑な感情を振り払うように小皿へ手を伸ばした。
「亜紀さんは結婚して何年?」
今泉さんも手を伸ばし、私のグラスに冷酒を注ぐ。
「もうすぐ五年になります」
「五年かぁ。亜紀さんは夢に向かって走り続け、ご主人さんも忙しく頑張っているみたいだから……
二人だけの、いつまでも恋人のような夫婦関係も良いのかもしれないね」
五年も経ち、いまだに子どもがいないことには触れてはいけないと気遣っているのだろうか……
今泉さんはそう言って、穏やかな笑みを向けた。
……恋人のような夫婦関係?
私たちが?
「私たちの場合は、それとは違うと思います。あの……結婚したら、妻は女ではなくなってしまうんでしょうか……」
手にした小皿をゆっくりとテーブルに置いた瞬間、心の奥底でずっと燻り続けていた悲痛な思いが、声となって漏れ出した。
「え……?」
今泉さんは驚いたように眉を上げた。
コメント
1件
うわあ、第33話……いよいよ二人の距離がぐっと縮まった感じがした。亜紀さんが勇気出して聞いた「ご結婚は?」の問いと、その後の複雑な胸の内がすごくリアルで切なかった。ハンカチのエピソードから冷酒を酌み交わすまで、自然な流れが心地いい。今泉さんの人柄もにじみ出てて、惹かれる気持ちがよくわかるよ。続きがめちゃくちゃ気になる!