コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜明け。青白い光。
パソコンの光が、目の奥を刺す。
チャートは見慣れた動きなのに、今日は「違う匂い」がする。
昨日仕入れた古酒を飲み過ぎたせいかもしれない。
「なぁ育代、今月からマンションの返済額が少し増えるが、心配いらん。俺が動かしてる資金がもうすぐ倍になる。」
最初はそれで済む。
でもその「匂い」が一度気になった瞬間、
仕事のすべてが「雑味」に思えてくる。
取引は連敗。
焦りではなく、気味の悪さが残る。
彼は自分の世界の「新酒」を失った。
マウスのクリックも、キーボードの音も、
まるで狂った杜氏のように味がズレ始める。
──理恵の「ジムノペティ」が、リビングから聴こえてくる。
静かな旋律に合わせて、チャートが滑り落ちる。
辰彦の指は止まらない。
……そして終わる。
震える指。流れる汗。止まらぬ電話。
部下の林の悲痛な叫び。
モニター越しに響く、山下の怒号。
たった一日で会社の資金が、何億も飛んだ。
理恵の音を、奇跡だと信じてしまう。
もう才能とか努力じゃない。
理恵の音が、「世界と繋がる唯一の音」に聞こえてくる。
家事の途中で、料理の音・時計の音・雨の音、
全部が理恵の曲に聞こえていく。
生活音が「旋律」になる。
やがて育代は気づく。
「理恵が弾いていない時でも、音が聞こえる」。
リビングのピアノの前に座り、
理恵の弾き方を思い出しながら、
誰もいない鍵盤にそっと手を置く。
……音が鳴る。
そして微笑む。
「理恵……あなた、やっぱり特別だわ……」
……………………………………………………
「静けさとは、何もないことじゃない。
音が消えたあとに残る“記憶”のことだ。」
― 坂本龍一(インタビュー『音のゆくえ』より)
……………………………………………………