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紅茶が美味しい。
氷精『チルノ』の手による冷たく溶けにくい氷の入ったアイスティーを一口堪能して、九代目阿礼乙女の『稗田阿求』はしみじみと思った。
幻想郷縁起を書き綴ることに短い人生の大半を捧ぐこの身といえど、のんびりとお茶を楽しむぐらいの時間はあってしかるべきだ。
阿求は風通しの良い座敷に座り、ちゃぶ台について夏の日差しが降り注ぐ庭を眺めていた。
目の前にある書き物の手が先ほどからずっと止まっているのだがそれはさておく。
「健やかにー♪ 伸びやかにー♪」
庭先では庭師の少女が緑色の裾を翻し、踊るように如雨露で打ち水をしていた。
涼やかに風鈴が鳴って、座敷を風が吹き抜ける。打ち水の冷気を含んだ風が気持ちがいい。
からん、とグラスの氷が音を立てた。
午後の心地よいひととき、午睡にはいい風情だった。
ゆっくりのんびりとアイスティーを干すうちに、阿求の意識はうつらうつらと薄らみ始めた。
「幻想郷縁起も一度編纂終わったし、ちょっと昼寝するぐらいいいんじゃないかなぁ」と思う。
編纂終わってなくても昼寝してたけど。
涼風が吹き、心地よく身体を撫でた。
……そうですね、ちょっとぐらいこの風情に身を任せても……。
結論は出た。
阿求は空になったグラスと筆記用具を余所へ避けるとちゃぶ台に突っ伏し、目を閉じる。
みぃんみぃんと遠くから聴こえる蝉の声を耳に、阿求はゆるゆる微睡みに融けていった。
…………。
「なあ稗田の。霧の湖の『大妖精』は載ってないのか? あと黒い『リリーホワイト』」
載ってないです~、黒いホワイトって矛盾してますよー、と阿求は微睡みの中で答えた。
「なんだそうか。紅魔館地下大図書館の『小悪魔』についても載ってないのか?」
図書館に小悪魔なんて居ましたっけ~、と寝惚けた声で阿求は答えた。
「なんだぁ? 抜けが多いぜ。サボりか?」
「ちがうぅ~……」
ちゃぶ台に突っ伏していた身体を起こし、阿求はもそもそと顔を擦った。
「じゃなんなんだ?」
融けゆく阿求に問いかけを連発して微睡みから引き上げたのは、黒白の二色のエプロンドレスめいた衣服と言葉遣いが特徴的な普通の魔法使い『霧雨魔理沙』である。
彼女は幻想郷縁起を読みに稗田家にやってきて、阿求の座敷でページを捲っていた。
余りにも静かで気配さえも感じさせなかったのと、午後の風情がことのほか心地よかったので阿求は魔理沙の存在をすっかり忘れていたのだった。
阿求はしぱしぱと目を瞬き、そこの座卓の日陰で涼んでいる稗田さんちの黒猫さんのように欠伸をした。
「眠……」
「夜寝られなくなるぜ」
「私はたくさん眠れる人だから平気です」
もう一つ欠伸をして、眠そうな顔で「で、なんでしたっけ」と阿求。
「幻想郷縁起に大妖精と『リリーブラック』、紅魔館地下大図書館の小悪魔が載ってないことについて」
「目立たない妖怪の類は記してませんから」
ふわぁ、と阿求は欠伸を重ねた。夕べはきちんと寝たんだけどなあ、と思う。
「目立たないことはないぜ。大妖精はよく『チルノ』とつるんでるのを見るし、小悪魔は紅魔館の連中がオールキャストで並べば大体いるぜ。たまにいないが」
得意げに魔理沙は言う。どうやら幻想郷縁起の穴を見つけたのが楽しいらしい。
そしてリリーブラックは目立たないらしい。
んむ、と阿求は詰まる。
「パチュリーの項にも記述がないしな。紅魔館の図書館、パチュリー、小悪魔はセットだぜ?」
「そうなんですか?」
「図書館に行く。パチュリーと話す。小悪魔が茶を出す。ほらな。セットだぜ?」
「セットなのかなぁ……」
寝ぼけ眼を擦る。頭がまだちょっと胡乱だ。
「とにかく載ってないことにゃ変わりないぜ」
ニヤニヤと笑んで魔理沙は言った。
阿求としてはちょっと面白くない。
とはいえ不手際が見つけられたのは事実だ、これは次の編纂で修正しなければならないだろう。
「わかりました。では次の編纂のときに霧の湖の大妖精と紅魔館地下図書館の小悪魔について書きます」
リリーブラックは書かれないらしい。
「……でも困りましたね」
「何がだ?」
「私は、その大妖精も小悪魔も見たことがありません」
「みたいだな」
「見ないことには文はともかく絵が描けません。……いえ、文も怪しいですね。情報が全然なくて纏める以前の問題です」
「まず情報収集からってことか」
「そうなります」
手間のかかる作業手順だが、それ故に阿求の胸へ込み上げてくるものがあった。
それはだらけていた心身を突き動かす思い。
使命感だ。
転生という理から外れる道を選んでも幻想郷縁起を編纂し続けると、遠い昔に誓った決意だ。
たまにだらけるけど。
「そっか。ま、頑張ってくれ。完成の暁には貸してもらうぜ」
「それは不許可」
即答する阿求に「さいで」と魔理沙は返して再び幻想郷縁起に没頭し始めた。
阿求は両腕を組み、右手を口元にやった。所謂考え込むポーズである。そして実際に考え込む。
――今やってる書き物はどうにも手が進まないし、当分後回しでも大丈夫。
――それよりこの高まった意欲を幻想郷縁起二期編纂に向けた方がきっと効率的だ。
――そもそも裏幻想郷縁起なんて誰が読むんですか。というか誰だっけ頼んできたの。
「えーと、たしか閻魔様だったような……」
「何がだ?」
考え事に意識を割き過ぎて口が勝手に言葉を吐いた。
魔理沙の声にハッと阿求は口を押さえ、「なんでもないです」と取り繕った。
魔理沙は不思議そうに首を傾げたが、「さよか」と短く言うと読書の続きに戻った。
阿求も思考を再開する。
とはいえ結論は出ていた。
――今日から今から二期編纂に向けての情報収集を行う…思い立ったが吉日である。
阿求が今考えているのは、霧の湖にいるという大妖精と紅魔館地下大図書館にいるという小悪魔のどちらについて調べようかということだった。
そして調べる手段についても…
どちらも危険区域に分類される場所で目撃されているという点では同じであり、非戦闘員の阿求一人で調べに出向くのは少々危険だった。
幻想郷で人が喰われる事が少なくなったとはいえ無防備に歩き回るのはよろしくあるまい。
「どっちにしろ私一人じゃ無理ですね」
「何がだ?」
「情報収集するのが」
「なら手伝ってやろうか?」
口が勝手に言葉を吐くがままにしていた阿求が、きょとんとして魔理沙を見た。
「私何か言ってました?」
「……大丈夫かお前」
阿求の様子に魔理沙は眉を曇らせた。頭のいい人間はどこかおかしいというが、阿求もその口だろうか。
「一人じゃ情報収集するのが無理なんだろ。だったら私が手伝ってやろうかって言ったんだ」
阿求は目をぱちくりさせた。
「おどろきです」
「何がだ」
「思いやりがあるとは言い難い貴女の口からそんな言葉が飛び出すなんて」
「…………」
魔理沙は思いっきり眉をしかめた。
「あ、怒りました?」
「べぇっつに。ただ手伝うのはやめだ」
ぶすと頬を膨らませて魔理沙は幻想郷縁起を閉じた。
機嫌を損ねた様子の魔理沙を見て、阿求は内心でしくじった、と後悔する。
いらない事を言わずに渡りに船とお願いしてしまえばよかったのだ。
利用できるものは利用するのが楽な世渡りの秘訣である。
「仕事にするぜ護衛の仕事だぜ護衛対象は、稗田阿求だ!報酬は成功時に働きに見合った額をもらうぜ」
一気に捲し立てて魔理沙はふいっと横を向いた。
阿求は再び目をぱちくりさせる。
「……なんだよ」
拗ねたように唇を尖らせる魔理沙、阿求は膝立ちで魔理沙に寄ると、無造作に抱きついた。
「のわっ!?」
「かわいいですねえ、貴女」
「ちょっ、おまっ! 頬ずりすんな離せっ」
「かわいいかわいい」
「だぁあこら! 離せッ! 阿求ッ!」
ぴったりと密着してかわいいかわいいかわいいと言つつ頬ずりする阿求。
魔理沙は振り解こうとするが、阿求の見事な位置取りに上手く剥がす事ができない。
その抱擁は、魔理沙が抵抗を諦め、阿求が満足するまで続いた。
「――では改めて仕事の依頼を」
身体を離し、取り繕うように咳を一つして阿求は切り出した。
「用件を聞こうか……」
「紅魔館地下大図書館にいるという小悪魔について調査を行いたいのです。霧雨魔理沙さん。調査の間、私を守ってもらえますか」
魔理沙はクッと不敵に笑った。
「頭の天辺から爪先まで守ってやるぜ」
黒白の魔法使いが親指を立てる。
「おおっ、引き受けてくれますか霧雨魔理沙!」
ここに契約は完了した。
「……で、今から出かけるのか?」
「はい今から出掛けます」
暇ですから、と契約を交わした直後に阿求は出発の準備を始めた。
部屋を片付けて必要な道具を集めて巾着袋に詰め、身だしなみを整えて準備完了。
その間読んでいた幻想郷縁起を何食わぬ顔でスカートのポケットにしまい込んだ魔理沙を一発ぶん殴って(「誰の本だ」)、阿求は魔理沙を伴って「いってきまーす」と屋敷の玄関を後にした。
庭を抜け、門を抜け、ピークを過ぎたとはいえまだ強い日差しの下を里から出る道へ歩いて――
「ちょっと待て」
後ろの護衛がちょった待ったコールを掛けた。阿求は足を止めて振り返る。護衛の魔理沙が右手に持った箒でトントンと肩を叩いていた。黒白の二色は日光をかなり吸収しそうだが、魔理沙は汗一つかいていない。
「なにか?」
「まさかこの暑い中紅魔館まで歩いていく気か?」
阿求はきょとんとした表情を浮かべると首を傾げた。
さらりとした髪が流れ、汗の浮いたうなじが白日に晒される。
「他に移動手段ありましたっけ?」
「……お前本当に頭脳明晰か? お前の目の前にいるのは誰だよ」
「霧雨魔理沙」
「特技は?」
「打ち上げ花火」
「違う」
「泥棒稼業」
「違う、借りてるだけだ。死ぬまでな」
「……では、魔法?」
「正解だぜ」
正解が出るまで遅いぜー、と続けて魔理沙は箒をくるりと回して阿求に示した。
「この暑い中ちんたら紅魔館まで歩くなんてごめんだぜ。飛ぶぜ。限界までトバすぜ。つーわけで乗れ」
腰の高さで浮かせた箒に座って魔理沙は阿求を招く。
「二人乗りしても大丈夫なんですか?」
阿求が聞く、魔理沙を信用しないわけではないが、どうにも箒が一本浮いているところに乗るというのは安心感に欠く。
平たく言ってしまえば不安があった。
ちょっと怖い。
「大丈夫だぜ。『やっぱり魔理沙。百人乗っても大丈夫』なんだぜ。零が二つ多いが」
「……ってそれ一人じゃないですか!」
「はっはっはー。冗談だぜ。ま、大丈夫だぜ。実際のところ私以外に二人ぐらいは載せられるぜ。後ろに一人、下に一人だ」
「し、下?」
「おう。下だ。吊るすんだ。箒の下に」
魔理沙はポケットに手を入れると中からロープを取り出した。
「こいつでちょいちょいと縛ってだな、くくりつけるわけだ」
「…………」
「というわけで乗らないなら縛ってくくりつけてぶら下げてくが、どうする?」
歩いていくという選択肢はないらしい。
「乗ります」
流石に荷物扱いはごめんだった。
阿求は魔理沙の後ろに座る。体重を支えるために箒を掴んだ。
「あー、箒じゃなくて私に掴まってくれ。そっちのが安全だぜ」
言われた通りに阿求は魔理沙の肩に掴まる。やや細い肩は不安を取り除くには少々頼りなかった。
「準備はいいか。離陸するぜ?」
魔理沙はそう確認すると箒に魔力を通した。
魔法の箒が緩やかに高度を上げていく、阿求の手が魔理沙の肩を強く掴んだ。
「怖いか?」
「少し」
「しっかり掴まってろ。そのうち慣れるぜ」
箒は家屋の屋根を超え、木々を超え、空へ届いた。
「わあ……」
阿求が感嘆の声を漏らす。
地面が遠のいていく恐怖より普段見ることのできない景色への感情が勝った。
「さて、行くぜ。大空へご案内だ」
滑るように箒は前へ進みだす。微速前進。流れていく景色へ阿求は視界をめぐらせた。
でも下は見ない。怖いから。
魔理沙は仰角を僅かに取りつつ速度を徐々に上げていく。
一人で飛ぶのならもっと手荒にいくのだが今日は後ろに阿求が居た。
そのうちに箒は目指す高度に至った。鳥も滅多に来ない高々度だ。
さて、ぶつかる危険もないところに来た事だし。
――存分にスピードを出すとしようか。
柄を軽く握り直し魔理沙は加速の意を込めて魔力を流した。箒、急加速。
「ひえっ!?」
慣性に引っ張られ阿求は悲鳴を上げた。ついでにごきりと首も鳴った。
魔理沙はそのままセカンド、サードとギアを上げるように加速。矢の速度、弾丸の速度で風を貫いていく。結界越しに身体へ吹きつける風、そして高速飛行特有の快感に魔理沙の口は知らず笑みの形を浮かべた。
が、後席の阿求はたまったものじゃない。
空を飛ぶことすら初体験の稗田さんである。こんな高速を体験するのも初めての阿求さんである。
――めちゃめちゃ怖い。
「ちょっ、魔理沙さん速い! 速すぎますっ!」
ばたばたと袂が暴れる。バサバサに髪が乱れる。高速で流れていく景色は感動より恐怖を呼んだ。
阿求は泣きそうになった。というか泣いた。
「あー? まだまだ普通だぜ? これからもっと速くなるんだが」
けろっとした顔で魔理沙は言いさらに速度を上げた。箒が穂先から星屑を吐いて蹴り飛ばされたように加速する。
「んひいいいいいいい! 止めて止めて止めて降ろしてええええ!!」
「どっちも無理だぜー。箒は急に止まらない。でもってこの高さで降りたら割と大変なことになるぜ。トマトだぜ」
「じゃじゃじゃあもっと遅くしてください! 怖いです!」
「へいへい。じゃ背面飛行な。アグレッシヴにアクティブにいかないとどうにも飛んでる気がしないんだ」
「へ?」
魔理沙は箒の推力をカットして減速。さらに機首上げでエアブレーキ。その状態から左へ百八十度ローリング。搭乗者二人の視界がぐるりと回り、空が足の下、地が頭の上になった。
背面飛行。
「きゃあああーーーーーー!! もどして! おこして! もどってええ!!」
逆さになった天地に阿求は悲鳴を上げた。スピードは落ちたがこれでは生きた心地がしない。
「うるさいぜあっきゅん」
魔理沙は平気な顔で箒に座っている。重力のくびきなど知らんぜとでも言わんばかりだ。
「わわわ私は貴女の雇い主なんですよ!」
阿求も重力に引かれているわけではないのだが、彼女は頭の下に広がる光景に吸い込まれそうな錯覚を味わっていた。妖怪の恐怖とは違う意味でひたすらに怖い。
「だからなんだー?」
「雇い主の指示に従いやがれなんですよまりりんー!」
阿求は涙声で命令を叫んだ。魔理沙は振り返ると不機嫌そうな表情を阿求に見せた。
「えー」
「報酬減額しますよ!」
阿求の切った切り札に魔理沙が肩をすくめる。
「オーケーオーケー今起こすぜ」
雇い主にゃある程度の敬意を払わんとナ、と魔理沙はくるりと左百八十度ローリング。
通常飛行に戻った。加減した巡航速度に落とし、後席に安心を進呈。
「こんなもんでいいか?」
「で、できるんなら最初からこうしてくださいよう……」
魔理沙の背中にしがみつき、泣き顔で阿求は言った。
年齢不相応に成熟しているとはいえ怖いものは怖い。
「いや言わなかったし」
「言わなくても考えてくださいよお!」
叫び、阿求は魔理沙の背ですんすんと泣いた。
「や……すまん、悪かった」
魔理沙は阿求の様子をちらりと伺い、緩やかな機動で紅魔館へ針路を取った。
鼻を鳴らして阿求は泣き止み、ハンカチで目元を拭いた。
落ち着きを取り戻す。そしてハンカチをしまうとおもむろに魔理沙の頬を引っ張った。
「報酬減額です」
「ぐわ……」
黒白の魔法使いが呻いた。
霧の湖の畔にある紅い屋敷――紅魔館へはそれから程なくして到着した。
道中で霧の湖を通過した際、二人は大妖精がいないか見回したが、その姿を確認することは出来なかった。
「それらしい妖精はいないみたいですね」
「ま、そんな日もあるさ」
紅魔館の正門を正面に捉え、魔理沙は緩やかに滑空、着陸点を定めて降りていく。
着陸アプローチに入ると同時に、左からちりんと鈴鳴りの音がした。
「貴機は紅魔館の領空を侵犯している。直ちに針路を変えなさい」
二人は左を見る。そこには緑色の中国風の衣服を纏い、同色の帽子を被った美女が居た。
腰まである赤の強い茶色の髪を靡かせ、魔理沙の箒に追従している。
「あ、『紅美鈴』」
「知っているのか阿求?」
「ええ。紅魔館の門番妖怪。武術に長け弱点も特になく、異常に人間くさい妖怪です」
幻想郷縁起、紅美鈴の項の一部を諳んじる阿求。『幻想郷の記憶』の二つ名は伊達ではない。
「いやアンタも知ってるでしょうが魔理沙。ところでその娘何? お土産?」
「お、お土産って……」
「久しぶりに肉のある青椒肉絲(チンジャオロース)が食べられるわぁ」と言う美鈴を左に連れて魔理沙は地に降り立った。阿求もしばらくぶりに地面を踏み、一息つく。
「ととと」
初めての飛行体験のためか阿求はふらついた。
ふらついて躓き、美鈴の胸へ飛び込む形になった。
豊かな膨らみに顔から突っ込む阿求、懐中に飛び込んだ彼女を美鈴はそのまま抱き留めた。
「んー、肉付きはそこそこだけど肉質は良さそうね。衣をつけて揚げてもいいかも」
と、阿求の身体をまさぐって美鈴は品定めをする。背中から太もも、お腹に胸元と手早く探られ阿求は短く悲鳴を上げた。
「やわらかそうだから生食もいいかな? どれ、味見を」
「そこまでにしておけよ美鈴」
舌を出して阿求を舐めようとする美鈴を魔理沙の箒が制した。
美鈴は舌を出したまま目をぱちくりさせる。
「お土産じゃないの?」
「ちゃうわ」
「ふーん。残念」
「きゃっ! ちょっ!? やあ!」
「残念と言いつつ何をしとるか」
ぺろぺろと阿求を舐める美鈴を魔理沙は箒でブッ叩いた。「あだっ」と鳴いた美鈴の腕から阿求を助け出して背にやる。
「ちょっと試食を」
「食うな」
再び振り下ろされる箒、叩かれた美鈴の頭からは西瓜のような音がした。
「――と、そういう理由で今日は来たわけだ。つーわけだからお邪魔するぜ」
大雑把に来訪目的を説明し、魔理沙は阿求の手を引いて門をくぐった。
阿求も会釈をして(食われかけた相手に会釈をするというのも妙なものだが)後に続く。
美鈴はひらひら手を振って正面玄関に向かう二人を見送り、日陰に腰を下ろした。
魔理沙は以前にパチュリーから入館許可をもらっているため、フリーパスで紅魔館へ立ち入る事が出来るのだ。同伴者がいる場合でも同様である。
「幻想郷縁起、ねぇ……」
服の留め具を上から胸元まで開けて手で扇ぎつつ美鈴は呟いた。
どんな風に自分が紹介されているのか少々気になったが、まあ実害が生じなければどうでもいいかと思う。そんなことより。
「この暑さ……妖怪でも堪えるわ……」
湖から吹く涼風と日に焼かれた地面からの放熱との間で美鈴はだれる。
「あぢい……」
さらに鳩尾まで服を開き、足を伸ばして美鈴は息を吐いた。
「あぢい」
涼風ではなく氷が欲しかった。
紅魔館の中は外とは打って変わって涼しかった。
扉を一枚隔てただけなのに、別物のような空気が漂っていた。
「涼しいですね」
広いエントランスホールの天井を見上げ、さらに周囲を見回しながら阿求は言う。
空気そのものが冷やされているような涼しさだ、日光を遮っているだけではここまで涼しくならないだろう。
「ここに住んでるヤツは大概がデタラメだからな。全館冷房ぐらいはやってのけてんのさ」
「なるほど」
スカートのポケットから取り出したミニ八卦炉ををいじりつつ言う魔理沙に阿求は頷いた。
多様な属性魔法を単一のみならず組み合わせて扱う事も出来る紅魔館の頭脳、『パチュリー・ノーレッジ』。
時間と空間を操るナイフ投げと手品を得意とする紅魔館のメイド長、『十六夜咲夜』。
そして幻想郷全体を紅く深い霧で包み込むほどの強大な力を持った紅い悪魔、『レミリア・スカーレット』。
これだけ揃えば確かに全館冷房程度はたやすくやってのけそうだった。
「そのデタラメを一度ならず二度三度と退けてる貴女は底抜けのデタラメってことでいいのかしら?」
「私は普通だぜ」
いつそこに現れたのか?
二人の目の前にはショートの銀髪にホワイトブリムを載せた麗しきメイドが居た。
「相変わらず神出鬼没だな」
「屋敷の中限定ですわ」
「さよか」
魔理沙と挨拶代わりのやりとりを交わし、
「十六夜咲夜……さん」
「はい。ようこそいらっしゃいました。稗田阿求様」
歓迎の笑みを浮かべて紅魔館のメイド、十六夜咲夜は一礼した。
「お嬢様がお待ちです。こちらへ」
阿求と魔理沙は顔を見合わせた。
お嬢様――レミリア・スカーレットが阿求を待っている?
突発的な訪問なのに?
二人がどういうことなのかを問う前に、咲夜は廊下を歩いていってしまっていた。
「……どうしましょう」
「私は雇われ護衛に過ぎないから決定権はないぜ。個人的には咲夜とレミリアに構わず地下図書館に向かう事をお勧めするが。さて、どうするね?」
逆に聞き返され阿求はしばし考え、そして――。
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紅魔館の中は外とは打って変わって涼しかった。扉を一枚隔てただけなのに、別物のような空気が漂っていた。
「涼しいですね」
広いエントランスホールの天井を見上げ、さらに周囲を見回しながら阿求は言う。
空気そのものが冷やされているような涼しさだ。日光を遮っているだけではここまで涼しくならないだろう。
「ここに住んでるヤツは大概がデタラメだからな。全館冷房ぐらいはやってのけてんのさ」
「なるほど」
スカートのポケットから取り出したミニ八卦炉ををいじりつつ言う魔理沙に阿求は頷いた。
多様な属性魔法を単一のみならず組み合わせて扱う事も出来る紅魔館の頭脳、『パチュリー・ノーレッジ』。
時間と空間を操るナイフ投げと手品を得意とする紅魔館のメイド長、『十六夜咲夜』。
そして幻想郷全体を紅く深い霧で包み込むほどの強大な力を持った紅い悪魔、『レミリア・スカーレット』。
これだけ揃えば確かに全館冷房程度はたやすくやってのけそうだった。
「そのデタラメを一度ならず二度三度と退けてる貴女は底抜けのデタラメってことでいいのかしら?」
「私は普通だぜ」
いつそこに現れたのか。二人の目の前にはショートの銀髪にホワイトブリムを載せた麗しきメイドが居た。
「相変わらず神出鬼没だな」
「屋敷の中限定ですわ」
「さよか」
魔理沙と挨拶代わりのやりとりを交わし、
「十六夜咲夜……さん」
「はい。ようこそいらっしゃいました。稗田阿求様」
歓迎の笑みを浮かべて紅魔館のメイド、十六夜咲夜は一礼した。
「お嬢様がお待ちです。こちらへ」
阿求と魔理沙は顔を見合わせた。
お嬢様――レミリア・スカーレットが阿求を待っている?
突発的な訪問なのに?
二人がどういうことなのかを問う前に、咲夜は廊下を歩いていってしまっていた。
「……どうしましょう」
「私は雇われ護衛に過ぎないから決定権はないぜ。個人的には咲夜とレミリアに構わず地下図書館に向かう事をお勧めするが。さて、どうするね?」
逆に聞き返され阿求はしばし考え、そして――。
咲夜に通された応接間はこれまで歩いてきた廊下同様に紅かった。
そして広かった。凝った内装が施され、調度品で飾られている応接間は、来客者に当主の力を示しているかのような雰囲気がある。
よほどの鈍感か超然とした人間でない限り、この豪奢加減は立ち居振る舞いに影響を与えるだろう。
鈍感でなく超然ともしていない阿求は当然のように影響を受けた。
――どうにも落ち着かない。
気を抜くときょろきょろと首をめぐらせそうになる。
稗田家に名を連ねる者としてそれは少々決まりが悪いというか恥ずかしい。
稗田家も幻想郷では名家に入るが、屋敷はここまで広くないし立派でもない。
もっとも、人間の名家と妖怪の名家を比べるというのがそもそも間違っているのだが。
阿求は、人間の身で幻想郷に名立たる吸血鬼の館に居るのだから、落ち着かない、緊張が抜けないのは当然だ、と自分を内心で弁護する。
弁護の方向がややずれているようだが特に問題はない。
誰も指摘しないし、出来ないので問題にならない。そういう意味で問題はない。
「よお、邪魔するぜ」
鈍感なのか超然としているのか、魔理沙は正面のソファーで紅茶を楽しむ人影、レミリア・スカーレットへ軽く手をあげて挨拶した。
そして勧められる前に対面のソファーに腰を下ろす。
いささか無遠慮な魔理沙の振る舞いに阿求はどうしたものか束の間迷い、レミリアに促され魔理沙に手招かれ咲夜に勧められして、護衛の隣に腰を下ろすことにした。
「お邪魔します」
ぺこりと一礼して阿求はソファーに座った。
座り心地のあまりのよさに内心で驚く。
今まで座ったソファーが煎餅座布団に思えるような座り心地だった。
「ようこそ、九代目阿礼乙女」
応接テーブルに紅茶の入ったカップを置き、レミリアは言った。
「今日は一体どういった用件で紅魔館に来たのかしら?」
レミリアに問われ、阿求は簡単に来訪目的を話した。
幻想郷縁起の改訂版編纂を行う事。
編纂を行うに当たって、新しく記載したい妖怪の一人に図書館の小悪魔がいること。
そのために小悪魔の姿を見て話を聞きたいということ。
用件を聞いたレミリアはきょとんと不思議そうな顔をした。
「なんで図書館じゃなくてこっちに来たの?」
「お前が呼んだんだろ」
魔理沙は言って、何時の間にか出された紅茶を飲んだ。
阿求が用件を話す僅かな時間に咲夜が用意したものだ。
阿求の前にもあるが、彼女はまだ気づいていない。時止め、恐るべし。
「正面扉を開けたらそこのメイドが『お嬢様がお待ちです。こちらへ』と来たもんだ。こっちの用件も聞かずにな。そのまま歩いてったから私はほっといて図書館に行きたかったんだが」
魔理沙は言葉を切って、お茶請けに用意されたスコーンを一口に頬張った。
たっぷりとクリームの付いたスコーンをもぐもぐといただく。
クリームと焼き菓子のハーモニーを堪能して紅茶を一口。
「ん……。阿求がそれは悪いって言うから着いてきてやったのだ。このスコーン美味いな」
「それはどうも」
咲夜が笑んだ。
「なーんだ。私に用があるわけじゃなかったのか」
拍子抜けした様子でレミリアはぽふ、とソファーに背を預けた。
「そういうわけなので、私は図書館に行きたいのですが」
静かな声で阿求が言った。
「お茶の一杯、飲んでいってからでも遅くないでしょ」
つい、と白く細い指が阿求のカップを指す。
そこで初めて阿求は目の前にカップがあることに気づいた。
良い香りに誘われるまま手を伸ばし、カップを取る。
「咲夜のお茶は美味しいぜ。おかわり」
一杯目を干した魔理沙は遠慮なく二杯目を要求していた。咲夜がそれに応じる。
「……いただきます」
阿求はそっとカップに口付けた。雑味がなく透き通った、しかしそれだけではない味わいが香り高く広がる。
「美味しい……」
ほう、と阿求は息をついた。
確かにこれは美味しい。
紅茶好きな阿求は今までそれなりに種類を飲んできたが、こんな味わいは初めてだった。
そう言うと、紅茶を淹れた咲夜は得意げに微笑んだ。
「稀少品が入ってますから」
「稀少品……」
確かめるように言って、阿求は味覚、嗅覚に意識を集中して紅茶を口にした。
「――ところで私が呼んだ用件、言ってなかったわね」
首を捻りながら何時の間にか三杯目になっていたおかわりに口付ける阿求にレミリアが話し掛けた。
「ああ、そういえばこっちにはお前が呼んだんだったな」
スコーンを運ぶ手を止めて魔理沙が思い出したとばかりに続く。
「というと私になにか用事が?」
阿求も紅茶を飲む手を止めてレミリアを見る。
レミリアはテーブルに両肘を突いて手を組むと、その上に顎を載せた。
「うん。御阿礼(みあれ)の子って、美味しいのかなって思って」
九代目である御阿礼の子が固まった。
「お嬢様は稀少品好きですからね。百年から数百年に一度、素晴らしく稀少ですわね」
九代目阿礼乙女の身体がじわりと濡れた。
「きゅ……」
吸血鬼と人間が食うものと食われるものの関係であることを忘れていたわけではない。
忘れていたわけではない、が――。
蛇に睨まれた蛙の気持ちだった。身体が自分の言う事を聞かない。
「きゅ、吸血鬼は、生きた、幻想郷の、人間を、襲わないという、け、契約が……」
搾り出すようにして阿求は喉を動かす。
表情が半分泣きの入った引きつった笑みになっているのが分かった。
「そうだね。吸血鬼条約があるから……私はお前に手が出せない」
ひき、と阿求の喉が鳴る。
レミリアの雰囲気がさっきまでとは変わっていた。
「でも自発的にそっちから飲んでくれって言うのなら、条約には反しない」
外見不相応に人を圧倒し、しかし同時に恐ろしく惹きつけられる。
――これが吸血鬼だ。
阿求は無意識のうちにすがるようにカップを両手で持っていた。
紅茶の熱がカップを通して両手を炙り、熱い痛みを走らせる。
「い、言いませんよ。言いませんからね」
レミリアの引力を熱で断ち、阿求は言った。
「そうか。なら、仕方ないな」
あっさりとレミリアは引き下がった。
雰囲気が吸血鬼然としたものから柔らかいものへと弛緩していく。
それにつれて阿求の身体からも緊張が抜けていった。
「ところで貴女、血液型は?」
「B型ですけど。Rhはマイナスの」
気の抜けたところになんでもない質問のように振られ、阿求はさらっと答えた。答えてしまった。
「お嬢様のお好みに合致しますね。それも稀少品ですわ」
「え……」
「――となると、引き下がるには惜しいな」
紅い眼が阿求を――正確にはそのほっそりとした首筋を――見た。
ぞわっと阿求の背筋に悪寒が走る。
弛緩した雰囲気が再び、夜の帝王のものに変えられていく。
「欲しいな。お前の事」
「あ……」
蠱惑的な声に惑わされそうになるも、二度目ともなれば耐性が出来る。
非戦闘員である阿求であってもだ。
「あげませんよ。あ、あげませんからね」
とはいえ怖いものは怖い、泣き笑い気味の引きつった表情が再来する程度には怖い。
「なら実力行使になるか」
事も無げにレミリアは言った。実力行使。その言葉に阿求の顔がさらに引きつる。
「きゅ、きゅうけつきじょうやく……」
縋るように阿求は言った。
契約という守りがなければ非戦闘員の阿求は吸血鬼のレミリアと会話どころか相対することさえままならない。
関係が対等にならないからだ。
レミリアが薄く笑む。
「私が襲うと条約違反になる。が、咲夜が襲う分には違反にならない」
そういうこと、と締めくくったレミリアの言に阿求はハッと咲夜を見た。
阿求と目の合ったメイドは微笑を浮かべる。
「注射器で吸われるのとナイフで血管を裂かれてグラスに注がれるの、どちらがお好みですか?」
見惚れるような微笑みのまま、銀と青のメイドは恐ろしいことをさらりと言った。
「答えないのなら両方、といきますが」
引きつった笑みのまま阿求は動けない。
「おおっと、そこまでにしといてもらおうか」
今の今までスコーンと紅茶にかまけていた魔理沙が漸く動いた。
お茶請けの皿とカップを空にして。
「なんだよ。邪魔立てする気か」
無粋な、とレミリアは魔理沙に目をやる。
「私は今阿求に雇われの身でね。ボディーガードってやつだぜ」
魔理沙は肩をすくめてそう言い、阿求の肩に手を掛けた。「心配すんな」とばかりに。
「そういうわけだから、やめてもらうぜ。それとも私を相手取ってでも阿求に手を出すかい?」
人間の中では右に出る者の居ない破壊力を有する魔法の何でも屋は不敵に笑んだ。
木陰で「あぢい……あづい……焦げる……」などと言いいつつ涼んでいた美鈴だったが、門へ近づく気配を察知してはそうやってもいられない。
「日向出たくない」と思うものの日向に出なければ門前には立てない。
照りつける日光に肌を焼かれるような感覚を味わいながら美鈴は門前に立った。
こんなに暑いのに仕事する自分はいじらしいな、涼しいお屋敷の中で内勤したいな等と茹った頭で思い、近づいてくる人影を視認する。
青と水色の涼しげな色彩をしているのは分かったが、陽炎が邪魔をしてそれ以上はよく分からなかった。
「はいはいそこの。ここは紅魔館。紅い悪魔レミリアお嬢様のお屋敷。用事もないのに近づかない立ち入らない。今日は配達の予定も集金の予定もないし訪問販売もお断り。分かったら回れ右」
投げやりに言うが人影は回り右もせず、止まる事もなく門へ近づいてくる。
――よもやこのクソ暑いのに腕試しに来た手合いだろうか。
美鈴はそう見当をつけるとうんざりした表情を浮かべた。
弱点らしい弱点がなく武術の達人である美鈴は、その戦闘能力と死角のなさから妖怪退治を生業とする人間や、武芸を磨く人間から腕試しがてらの手合わせを申し込まれる事が絶えない。
一度レミリアが戯れに『紅美鈴と戦いたい祭り』を催したところ五十人ばかりの挑戦者が集まり、美鈴は殆ど一日中戦い詰めになったことがある。
それだけの数の人間が入れ替わり立ち代りに手合わせを申し込んでくるのだから絶えないわけである。
普段ならば退屈な門番稼業の気晴らしになるので丁度いいのだが、流石にこの暑さでは試合などしたくなかった。
どうしてもと申し込んでくるようなら即座に『崩山彩極砲』を叩き込んで湖に沈めてやろうと思う程度には。
人影の方から風が吹いた。相対する美鈴にとっての向かい風が身体を撫ぜる。
「うわ」
美鈴は思わず声を漏らした。
吹いてきた向かい風は湖からの涼風とは比較にならないほどの冷気を持っていた。紅魔館内の冷房に匹敵する涼しさだ。
「こんな冷気を出すヤツなんて、一人しかいないわね」
美鈴の顔が笑む。
暑さ凌ぎに丁度いいやつがこっちへ向かってくるのだ。心情としてはようこそウェルカムである。
じゃすじゃすと道を踏みしめて、人影は陽炎のベールを越え美鈴の前へやってきた。
「あたいを中に入れろい」
頭一つ分小さい来訪者を、美鈴は有無を言わさず胸元に抱き込んだ。
素肌から直に沁みこんでくる冷やっこさが火照った身体に気持ちいい事この上ない。
「わーっ! 離せおっぱい魔人ーっ!」
はぁ、と心地よさからのため息を吐いて、美鈴はさらに強く懐中のちっこいのを抱きしめた。
しゅううと音を立てて身体が冷えていくような感覚。
「むぐー! もぐむーーっ!」
抱き込まれたちっこいのは顔を柔らかな膨らみに埋められ窒息しそうになっていた。
まずは美味しそうなうなじが、続いて黒白の背中が扉の向こうに消える。
ぱたんと音を立てて閉められた扉にレミリアは心底残念そうにため息をついた。
「食べ損ねた」
「次がありますわ」
手早くお茶の後を片付けながら咲夜は苦笑を浮かべる。
魔理沙の「どうしてもやるって言うんなら全力全開で撃つぜ?ショートチャージで波動砲だぜ放射熱線だぜアンドローキャノンだぜ」発言を受けて紅魔の主従は両手を挙げた。
阿求の血は惜しいが館を瓦礫にされてはかなわない。
デストロイヤーウィッチ魔理沙を敵に回す愚を避け、丁重にもてなした上で二人を地下図書館へと送り出したのだ。
「そうね……。チャンスはいくらでもあるものね咲夜」
「そのとおりですわお嬢様」
「『それこそ時間を止めてでもチャンスを作る事が出来るから……』?」
「ふふ。そういうことですわ」
ソファーの背もたれに身体を預けて天井を仰ぎ、レミリアは大きくあくびをした。
「少し寝るわ。夕御飯はパンケーキをお願い」
「アイスはつけますか?」
「バニラとストロベリーとチョコのトリプルね」
「またお腹壊しますよ」
「あの時は三十と一つだったからよ。三つなら大丈夫でしょ」
「あの時が食べ過ぎだったんですね。そもそも」
「そういうこと。そもそも」
靴を脱ぎ、レミリアは座っていたソファーに寝転がった。
「咲夜ー、タオルケットー」
「ここで寝るんですか?」
「部屋に戻るの面倒くさい。それにこういうところで寝るのも楽しいじゃない」
肘掛を枕にしてひらひらと手を振るレミリア。
「……そうですね。たまにはいいものです」
咲夜は手品のようにタオルケットを取り出し、そんなレミリアに掛けた。
「咲夜」
身を屈めた従者を当主が手招く。
「はい?」
顔を寄せる乙女を抱き寄せ、悪魔は唇を奪った。
「ん……」
くぐもった声が漏れる。きっかり三秒の口づけ。
「おやすみ」
「……おやすみなさいませ」
咲夜は紅潮した頬を連れて応接間を後にし、レミリアは甘美な感触に身を沈めて眠りについた。
紅い廊下を歩く。
広大いかつ迷路のような構造をしている紅魔館の廊下を、阿求と魔理沙は歩いていた。
「危ないところを助けたんだから報酬減額は当然撤回だよな?」
「護衛が雇い主の危機を助けるのは当然だと思うんですが」
いけしゃあしゃあと催促する魔理沙を阿求はばっさりと切り捨てる。世の中そんなに甘くない。
「なら危険手当ぐらい付けてもバチは当たらないぜ。危うく私までちゅーちゅー吸われるところだったんだぜ?」
やや前を行くのは先導役の魔理沙だ。その足取りには微塵の迷いも見られない。
魔理沙は紅霧事変から以降、度々紅魔館に忍び込み独自に探索していた。
タンスの引き出しを調べたりクローゼットを調べたり壷の中を調べたり樽を調べたりする所謂トレジャーハンターごっこである。
時折メイドに狩り立てられるのはご愛嬌、そんな事を繰り返した紅魔館は最早彼女の幾つ目かのホーム的存在になっていた。
勝手知ったる人の屋敷である。――閑話休題。
「全然そうは見えなかったんですが。それよりもっと早く助けてくれてもよかったんじゃないですか? お茶菓子に夢中になって仕事を忘れていたんじゃないでしょうね?」
「……まあその」
「あ、否定しませんでしたね。忘れてましたね」
「忘れてないぜ。助けたろ」
「お茶菓子食べ尽くしてから?」
「食べ尽くしてないぜデタラメだぜ」
「デタラメはどっちですか。私は一度見たら忘れないんですよ。御阿礼の子ですから」
稗田なめんなとばかりに阿求は胸を張った。
阿求が持つ求聞持――見たものを忘れない程度――の能力は、ちらっと見たかどうかの魔理沙の皿をしっかりと空であると記憶していた。実に目敏い。
「……はははよく見破ったな阿求君。だが霧雨魔理沙は危険手当を諦めたりはしないのだ!」
「えーとうるさいからさらに減額っと」
「ひどいぜ」
「ところで図書館まではあとどのくらいあるんです?」
阿求に問われ、魔理沙は「そうだな」と顎に手をやった。思考に二秒。
「このまま行けばあと二分。最短ルートなら一分。最長ルートなら魔界二週ぐらいってところか」
「魔界二週って……」
「赤い魔物が特に怖いおっかないところだぜ」
ケケケと魔理沙が笑う。
含みのあるその笑いに阿求は思いを巡らせた。
魔理沙が怖いという赤い魔物とは一体どのような魔物なのか。
「まあ行った事ないんだけどな」
「ないんかい」
廊下を歩き、階段を下りる。さらに廊下を歩き、また階段を下り……今度は長い。
地の底へ続いているかのような長さの階段を下りて、二人は漸く目的の地へ辿り着いた。
日の光が届かない地下にランプの明かりで浮かび上がる両開きの大扉。
脇の壁面には『図書館』と綴られたプレートが掛けられている。
「この扉の向こうが……」
「紅魔館地下大図書館。幻想郷で最も本が集まっている場所だ」
言いながら魔理沙は髪を結うリボンに紫に月のマークがついたものを足す。
「でもってお目当ての小悪魔が住む場所だぜ」
そしてドアノブに手を掛けた。
「油断するなよ」
不敵な笑みで言い、魔理沙は扉を開けた。
「だからさー。中に入れろってば。……聞いてんの?」
来訪者を抱き上げて木陰に戻った美鈴の腕の中で拉致された来訪者こと『チルノ』が言う。
どうやら固め技『美乳昇天』での窒息からは免れたらしい。
「聞いてるわよー」
木を背にして、懐中のチルノを包むように後ろ抱きにして涼を取りつつ美鈴は返答する。
この生きた花氷は夏場この上なく重宝された。
下手に触れると凍傷のおそれもあるが、妖怪ならそうさして恐れることもない。
「じゃあ中に入れろってば」
「いやあ、私の仕事は門番だからさ。そういうわけにもいかないのよ」
「じゃあ離せ。塀飛び越えるから」
「いやあ、私の仕事は門番だからさ。離すわけにはいかないね」
ひゃっこいひゃっこいと喜色満面でチルノに頬ずりする美鈴。
仕事が門番でなくとも手放しそうにない。
だがチルノにしてみれば暑くてたまったものじゃない。
「離せよー! 暑いんだよー!」
「こら暴れるな」
チルノはもがいて逃げようとするが、美鈴は逃がすかと体格差と技を活用して最小限の労力で押さえ込む。武術の達人、技能を無駄に発揮。しかし完全に押さえ込まれながらもチルノは抵抗する。
「完全に抑えてるから逃げられないよ」と忠告しても抵抗をやめない。
諦めない。
最小限の労力とはいえ払えば疲れる。少なくともゆるりと休めない。そして動くとまた暑くなる。
「ああもう。少し頭冷やそうか」
短く言って美鈴はチルノの経穴を突いた。親指がずぶりと埋まる。
「ごはるがっ!?」
稲妻のような痛みが全身を駆け抜け、頤を反らしてチルノが鳴く、そしてぐったりと全身を弛緩させた。
「くきぃぃぁぁ……」
「はい大人しくなったぁ」
痛みの残滓に息を漏らすチルノを抱き直し、美鈴は水色の髪に顔を埋めた。
冷気を帯びた柔らかい髪の感触が心地よい。
(ちくしょう、いつか凍らせてやる……)
経穴を痛撃されたチルノはそう薄い胸に誓った。
「……ところでなんでそんなに中へ入りたがるのよ?」
髪を撫で腕を撫で脚を撫でお腹を撫で鳩尾を撫で首筋を撫で顎を撫でて遊んでいた美鈴はふと聞いた。
霧の湖近辺でよく目撃されるチルノだが、紅魔館には近寄ることはあっても中に入ろうとしたことは殆どない。
しつこく中に入れろと要求する今日のチルノは、考えてみれば妙だった。
チルノは顎をくすぐる手を捕まえ、美鈴を見上げてこう言った。
「小悪魔にふくしゅうするの」
実に興味の湧く話だった。
扉を開けるとそこは図書館だった。
右も左も見渡す限りに本が埋め尽くす飽きれるほどに広い大図書館、読書家や本好きには宝物庫に思えるだろう。
踏み入った阿求は、視界を埋める無数の本、むせ返りそうな古書の香り、そして沈黙が聞こえる地下の静寂に圧倒された。
「すごい……」
ほうとため息が出る。幻想郷で最も本の集まっている場所と言われるのも頷けた。
阿求の足が進む、向かう先には巨大な本棚、視線の先にはきちんとした装丁が施されたいくつもの本。
「外界の本……?」
幻想郷ではちゃんと製本されている書物は少ない。
言い換えれば、製本されているということは外界の本である可能性が高い。
「一度読んでみたいと思っていたんですよ……」
魔理沙はふらふらと好奇心に誘われるままに本棚へ向かう阿求の背中を見送って、ゆるりとその後について歩いた。
「やれやれ、目的は小悪魔だろうに」
苦笑する。まあ、気持ちは分からなくもない。
「読むのはあいつに会ってからにしようぜ。ここで読書会開いて来るのを待つのもいいが――」
魔理沙は本に手を掛けた阿求の背中にそう呼び掛け、……背筋に悪寒を感じた。
「阿求!」
「はい?」
悪寒から逃れるように魔理沙は駆け出していた。
右手に箒を掴み魔力伝導。スイッチが入った箒は飛行状態に移行する。箒に駆け乗り最大加速。流星が疾る。
「まきゅッ?」
魔理沙はドリフト気味に滑りながら左腕に阿求を抱き去り、瞬間加速で離脱。
めごし、と床の砕ける音を背後に聞いて急ターン。
急機動で左腕の阿求が踏まれたカエルのように鳴いた。
「出やがったぜ、阿求」
砕けた床の上にはいくつもの棘が生えた鉄球があった。
魔理沙が抱き去らなければ阿求が砕かれていたかもしれない。
「で、出たって何が……」
「お目当てさ。三分の一だがな」
二人の見ている目の前で鎖の擦れる音を立てて鉄球が浮き、引き戻される。
「――警告するこぁ。ここは関係者と許可のあるもん以外は立ち入り禁止こぁ」
脳天気な語尾の声が二人の耳に入る。
阿求はびくりと身を震わせ、魔理沙は不敵な笑みを浮かべた。
じゃらりと鎖鳴りの音を連れ、長身の影がどこからとなく姿を現した。
「とっとと出ていかないと次は当てるこぁ」
やんちゃ坊主のような面立ちが、赤い瞳で二人を睨みつける。
右手に下げた棘の生えた鉄球が剣呑な雰囲気を漂わせていた。
影は一人の少女だった。
黒と白の二色を基調にゆったりとしたローブを纏い、裾先から覗く足にローファーを履いている。
背中の半ばまである血のように赤い髪からは、三角に尖った耳と蝙蝠のような小さな翼が生えていた。
「いやいやちょっと待て『サード』私だぜ、霧雨魔理沙だ」
笑みを浮かべたまま魔理沙が話しかける。どうやら既知の間柄らしい。
「知り合いですか?」
「言ったろ、お目当てだって。こいつが小悪魔さ。ただし三分の一だけどな」
腰抱きにされたまま阿求は首を傾げた。『三分の一』の意味が分からない。
「分かってるこぁ。次は必中させるこぁ」
「おいおいおいおいおい!」
何やら物騒な宣言がなされ魔理沙がにわかに焦りだした。
目の前の小悪魔――サードが鎖を送り出して鉄球を回し始めた事によって、さらに焦る。
「もしかしてやばいんですか?」
「ナンバーテンだな」
「動くなこぁ。ハンマーが外れるから」
台詞の後に繰り出される棘つき鉄球――ハンマー。
唸りを上げて迫るソレを魔理沙は防御障壁を展開して真っ向から受けた。
破城槌じみた衝撃が障壁越しに魔理沙を打つ。
「ぐく……!」
出来れば回避を打ちたいところだったのだが、自分はともかく脇に抱えている阿求の安全を確保できない。
やむなく魔理沙は防御を選択した。
ハンマーが引き戻される隙を突いて急速上昇、見る見るうちに絨毯敷きの床が遠くなる。
「ひええっ!」
突発的な急機動と遠ざかる床に阿求が悲鳴を上げた。
魔理沙は阿求を箒の後ろに乗せるのは無理と判断して前に座らせる。
「身体出来るだけ小さくして私に抱きつけ! 前は塞ぐな!」
魔理沙は短く言ってさらに高度を上げる。
開けたところに出ないと危ない、見上げるほどに高い本棚が林立する高度を抜け、地下とは思えない広大な空へ舞い上がった。
「あのクソバカ何考えてやがる……!」
振り返って後方警戒。
――敵影なし、箒をその場にホバリングさせた。
姿は見えないが気は抜けない。
ここは知識の秘境であると同時にパチュリー・ノーレッジと小悪魔の庭なのだ。
「あ、あの、魔理沙さん?」
「なんだご主人様」
「一体今どうなってるんです?」
おずおずと聞く阿求。
「入館貸し出し許可をもらってる身分の私に不法侵入で攻撃を掛けてきたアホの登場ってところか」
「許可証か何か見せなきゃダメとか」
「見せてるぜ。見せっぱなしだ」
そう言って魔理沙は髪の房を飾る紫のリボンを指した。
「こいつが許可証だ。図書館の主からじきじきに巻いていただいた代物だぜ」
「見えてなかったとか?」
「だとしても許可もらってるのは知ってるはずだ。攻撃されるのは納得がいかな――待てよ」
ふと引っかかるものを感じて、魔理沙は阿求を見た。
見つめられた阿求は「何か?」とばかりに小首を傾げる。
「……お前原因か」
「え」
「そうだ。そう考えると辻褄が合う」
「え、え? 私?」
魔理沙はしたり顔で頷き、阿求は目を瞬かせた。
「ハンマーはまず誰を狙った?」
「えと、私」
藪から棒に問われながらも阿求は答えた。「正解」と言って魔理沙はさらに続ける。
「あいつは私が名乗ったらなんて言った?」
「『分かってるこぁ。次は必中させるこぁ』」
「正解だ。その次は?」
「『動くなこぁ。ハンマーが外れるから』」
「全問正解だ。では行動と台詞を統合して考えるとあいつに狙われてるのは誰になる?」
「私たちですね魔理沙さん」
「お前だよ阿求」
双方、沈黙。
「……ま、とりあえず」
魔理沙は咳払いを一つして息を吸い込んだ。
「聞こえるか! こいつは私のツレだ! 攻撃中止! 攻撃中止! フレンドリー! フレンドリー!」
そして大声で叫ぶ。
「――IFFはアンノウンって言ってるこぁー」
眼下に広がる本棚の森から声が返ってきた。
下から上がってきたサードが本棚に降り立つ。
「『あいえふえふ』?」
「敵味方識別だ。それがアンノウン、つまり敵か味方か分からないって言ってるんだと。――だから私のツレだって言ってるだろ!」
疑問の声を上げた阿求に答え、魔理沙は続けてサードを怒鳴りつけた。
「でも関係者じゃないし許可のあるもんじゃないことは間違いないこぁー。よって退去しないのなら攻撃するこぁ」
正論である。正論ではあるが杓子定規でもある。
「少しは柔軟に考えろバカヤロー!」
「バカって言うなこぁー!」
サードは左手を横一文字に振るった。
軌跡の上に点々と四つ、魔理沙が使うマジックナパームに似た光の矢が顕現する。
「『フェニックス』か……!」
向けられた魔力の矢に魔理沙は短く言った。光の矢の名前らしい。
「魔理沙、そいつを離すこぁ。そいつ撃てないこぁ」
「だから撃つなってば! クソ、埒が明かないぜ」
「これは許可を取るしかないのでは? あるいは腕尽くで埒を明ける」
阿求が意見を述べた。ここで腕尽くという発想が出る辺り彼女も幻想郷の住人である。
「私一人なら後者でもいいんだがな、お前さんがいるからそっちは選択できん。事故が怖い」
「事故起こるんですか?」
「どんなときだって起こらないとは言い切れないぜ。それに私とあいつはちょっと相性が悪い」
「相性が悪い?」
「おいおい分かる。つーわけで許可を取る方向でいくぜ」
「許可ってどう取るんです?」
「パチュリーか『こぁ』に要求する」
「『こぁ』?」
「それもおいおい分かるぜ。さて……」
魔理沙は箒の出力を引き上げる。
空中停止状態の箒に魔力が満ちていく。
「しっかりつかまってろよ。荒っぽい機動になるぜ」
「あ、荒っぽいってどのぐらいですか?」
「吐くのは勘弁な」
つまりはそういうことらしい。
勘弁してくれはこっちだ、と阿求は思った。
「あーもー。十数えるうちにそいつを離……面倒くさいからもろともいくこぁ」
遂にサードが強硬手段に出た。一斉に光の矢――フェニックスが撃ち出される。
「つかまれ!」
阿求の返答を待たずに魔理沙は箒を空中停止から解き放った。
弾丸のような速度で箒が飛ぶ。
「ぐぎゅ」
胸元で阿求が鳴いたが構っていられない。
サードの放ったフェニックスが一瞬前まで箒があった空間を貫いていく。
そして、魔理沙の後方上空で爆発した。
フェニックスはマジックナパームを基に、射程距離の延長と若干の追尾性能を付与した謂わば改良型マジックナパームだ。
魔力の詰まった弾体は同様に爆発する。
「さてやばくなってきたぜ」
高速で飛行しながら魔理沙はちらりと後方を窺う。
本棚を蹴って空に上がり、サードが追跡に移ったのが見えた。
「一発撃ったらもう歯止めが利かない。あとは目標達成までばら撒いてくる。……こっちも撃つかぁ?」
スカートのポケットに手を入れる。指先に触れるは星屑爆弾――『グラウンドスターダスト』の詰まった小瓶。
「ふきょかです」
魔理沙の胸元で阿求が言った。
「このあと話を聞く際に態度を硬化される材料になっちゃいます」
「……あのな、応戦しなきゃその後が来るかどうかも怪しいんだぜ。っと」
左へ大きく機動、直後にフェニックスが真横を貫いていった。
「魔理沙さんなら出来ます」
「どっから出てきたんだその信用。それとも焚きつけようってか?」
「そういうんじゃありませんけど。あ、報酬減額も撤回しますよ。上手くいったら」
「やれやれ。んじゃ……途中で落っこちるんじゃねえぜ!」
箒の推力をアップ、機首下げ、パワーダイブ。
「うきゃあああああああああーーーー!」
胸元から悲鳴が上がる。
魔理沙は図書を満載した本棚で作られた林スレスレまで高度を落とし、機首上げ、水平飛行、前方の安全を確認して後方索敵。
追尾してくるサードの姿あり。
「さーてどんだけ逃げれば残り三分の二かパチュリーが来やがるか、なっ!」
再三撃ち込まれたフェニックスを右へ樽の内壁を擦るような螺旋機動で回避。
「『スペルカードルールで攻め手は耐久弾幕を使用。ただし時間制限なしみたいな』! そんな状況ですね!」
「勘弁してほしいぜ!」
「落ちやがれこぁー!」
花火が咲き乱れる中を、黒白の流星は踊り始めた。
「復讐って……どういうこと?」
チルノを抱いたまま美鈴は問う。
「小悪魔にふくしゅうするの」発言は大いに美鈴の興味をそそった。
紅魔館地下大図書館を生活の拠として、滅多に外へ出ないパチュリー。
そしてその使い魔である小悪魔。
かたや霧の湖を主な遊び場として幻想郷を飛び回るチルノ。
客観的に見て、接点は殆どない。
紅魔館が霧の湖の畔に建っている事ぐらいだ。
――だが美鈴はこの氷精と小悪魔の接点がある事を知っている。
「えーと、一番近い冬にそれは起こったのよ!」
「また随分前ね」
ちなみに今の季節は夏である。閑話休題。
「あたいがここに来たらそいつがいたの」
「そいつっていうと、小悪魔?」
「そう小悪魔。ちっこいの!」
「それから?」
「そのちっこいのは『ここぁ』って名乗って、あたいに『お菓子をあげるから目をつむれって言ってきた』」
「ほうほう」
「あたいは目を瞑って口をあけた!」
その光景を想像して馬鹿丸出しだなぁと美鈴は思った。
というかよく分からない相手から物をもらうなと。
「しかしひきょうな悪魔の手先はあたいをだました! お菓子じゃなくて毒を飲ませたんだ! あたいは火をふいてのたうちまわった!」
「へー」
テンション高いなぁ。
「しかしあたいは負けなかった! 湖に飛び込んで火を消すと戻ってここぁをぶちのめしにかかったのだ!」
「おーすごいすごい」
顔を見えないのをいい事に美鈴は適当に相槌を打った。
「すごいのはここから! あたいは調子に乗ってるここぁにアイスショットガンを何発も浴びせてやっつけた!」
「ほほー」
「ここぁは全身をばきばきに凍らせて倒れた! あたいは勝利者になった!」
「おー」
「しかしここぁはひきょうものだった! 倒れたのは死んだふりだったの!」
「おーおー」
「あたいが油断したところをここぁが不意打ちしてきてやられてしまった!」
ここまで言って、チルノは息をついた。
テンション高く身振り手振りを入れて熱っぽく語っていた疲労らしい。
「それで復讐?」
「まだ続きがある!」
「ほう、続き」
息を継いでさらに語る。
「目を覚ますとあたいは鎖でつながれていた! えーと、そうりょにされたの!」
「捕虜でしょ」
「そう、ほりょ! しかしあたいはくじけなかった! 鎖を凍らせて引きちぎり脱出したのさ!」
僧侶と捕虜を間違えるなという突っ込みは喉のところで止めた。
とりあえず話を最後まで聞くことにする。
「つながれていた部屋から出ると知らないところで本がすげえいっぱいあった!あたいは本のいっぱいあるところを出口を探して歩いた!」
「本のいっぱいあるところ……図書館か」
「しかしそこであたいは出口よりさきにここぁをみつけた!」
「お」
「あたいはとっさに氷の塊を作ると思いっきりぶん投げた!こいつをくらえ!」
チルノは気合たっぷりに台詞を再現して、さらに氷の塊を実際に作って、投げるところまで再現した。
「だけど氷の塊はここぁをかばったおっきい小悪魔に当たった!」
「おっきい小悪魔、『サード』ちゃんね」
「そう!サード!あたいはここぁをぶちのめそうとしたのにサードが邪魔をしてきた!」
「ほうほう」
「あたいはアイスショットガンでさーどを凍らせた!だけどサードはここぁと違って凍ったのに凍ってなかった!そしてあたいに殴りかかってきたのだ!」
「ふむふむ」
「あたいは殴られながらも蹴り返してやった!こいつはすごくやるって思ったあたいはスペルカードを使おうとして!その瞬間思いっきり殴られて気絶した!」
「それから?」
「気がついたら湖に浮んでた!」
「で、ふくしゅう?」
「うん。ふくしゅう。あたいのことを殴って気絶させたのはサードにちがいないからふくしゅうするの!」
拳を握り、鼻息荒くやる気満々で宣言するチルノ。
(あんたを殴ったのはレミリアお嬢様……とは言わない方がいいかな)
実は美鈴は人づてに真相を聞いて知っていた。
小悪魔とチルノの接点は今のところこの事件しかないので、間違いない。
「アイスショットガンが効かなかったことを大ちゃんに話したら秘策も授けてくれたし! 今度は負けない!」
「! ……ほほう」
美鈴の顔が面白そうに笑む。
実は、美鈴は定期的にさーどに近接格闘および戦闘の手解きをしている。
いわば師弟関係だ。
その弟子へ復讐に挑むチルノ。
これはサードのいい実戦相手になる――美鈴はそう考えた。
そして面白そうだ、門番仕事は娯楽が足りないのだ。
「んじゃ、通してあげようかな。門」
チルノから手を離し、美鈴は立ち上がった。
木陰から正門を示す。
「わーいやったー」
単純妖精チルノはぴょんと立ち上がりばんざーいと両手を挙げた。
「じゃ通してあげる代わりに氷いっぱい作ってくれる?」
「おまかせ!」
気前のいい返事を一つしてチルノは氷を作り始めた。
「あ、図書館で『門番はどうした』って聞かれたら『氷いっぱいあげたら通してくれた』って言ってね」
「オッケーまかせて!」
氷は見る見るうちに山になっていく。
当分は暑さに苦しまなくて済みそうだった。
サードを相手にした耐久弾幕は十分ばかりで終わりを迎えた。
攻撃ではなく回避と逃走を主にした魔理沙と阿求は、高速移動で行動範囲を広く取る事ができ、そう時間を掛けずして動かない大図書館ことパチュリーを発見できたのだ。
見つけたあとは話が早い。
急減速と急降下で目の前に強行着陸してパチュリーに事情を説明、直後に出されたパチュリーからの攻撃中止命令にサードは漸く矛を収めた。
「わたしは仕事をしただけこぁ」
と言い張るサードにパチュリーはため息をついて本の角を一発くれて(後頭部に金属補強済みの角がめり込み、サードは床に突っ伏した)、阿求に入館許可を出した。
「悪かったわね、馬鹿な使い魔が粗相をしたみたいで」
「いえ、こちらもアポなしの来訪でしたし。仕方なかったかと」
「使い魔の教育がなってないぜパチェ」
「その呼び方をしていいのはレミィだけって言ってるでしょ」
軽口を叩く魔理沙をパチュリーはジト目で睨んだ。
「ところで今回の来訪目的なのですが……いいですか?」
「いいわよ。何の御用かしら九代目阿礼乙女さん」
阿求はパチュリーに来訪目的を説明した。
「――というわけなのですが、協力していただけますか?」
「いいわよ」
紅魔館の知識人はあっさりと承諾した。
「読書の邪魔にはなりそうにないし。好きにして。大概の事は『こぁ』に聞けば分かるから」
「――こぁ?」
阿求は目をぱちぱちさせた。
「誰ですか、そのこぁって?」
聞き返されたパチュリーはきょとんした顔をして、魔理沙を見た。
「貴女振っておきながら言ってないの?」
「言ってないぜ。その方が驚くし面白かろ」
シーウルフは二隻存在するのだ、ってもんだぜと魔理沙は笑った。シーウルフってなんだ。
パチュリーはため息をついて阿求に向き直る。
「まず最初に言っておくわ。小悪魔は一人じゃなくて三人いるの」
「え、三人?」
「そう。『小悪魔こぁ』、『子悪魔ここぁ』、そしてそこで突っ伏してる『小悪魔サード』。この三人よ」
親指、人差し指、中指と順に立てながらパチュリー。
「さっき用件を伝えてこぁとここぁの二人を呼んだわ。そう時間を置かずに来るんじゃないかしら」
「はい来ましたパチュリー様」
「ほい来ましたパチュリーさま」
「早ッ!」
出のタイミングを計っていたのではないかと疑いたくなるような間の良さで二人の小悪魔が現れた。
一人は十代前半と思しき外見の小さな少女だ。
サードと同じ悪魔の羽と尖った耳がショートの赤い髪から覗いている。
白いブラウスに黒いスカートとベスト、そしてタイと典型的な司書の格好をしていた。
少女は悪戯好きの猫のような雰囲気を纏った赤い瞳で阿求を見ている。
もう一人は十代後半らしき外見の少女、外見年齢相応の身長で落ち着いた雰囲気を纏っている。
先の二人と同様の悪魔の羽と尖った耳、そして腰まである真っ直ぐな赤い髪、白ブラウスに黒いスカートとベストにタイと、サイズこそ違うが先の少女と同じ司書服を着ている。
こちらは金色の瞳で阿求の事を見ていた。
「中くらいのがこぁ。小さいのがここぁ。そこで起きない大きいのがサード」
順に指差しつつパチュリーは紹介した。サード以外の二人は会釈を交えて挨拶した。
「稗田阿求です。よろしくお願いします」
阿求も返礼する。
「では早速ですが、貴女たちのことを教えてもらえますか?」
ばたん、と扉が閉まる。
読書スペースの一つに陣取ったパチュリーはそれを見届けて読みかけの本を開いた。
阿求から、一人ずつ話を聞きたいと要望が出たことを受けて、六人は地下大図書館の個室があるエリアに移動してきた。
壁には一から六まで番号が振られた個室が並び、少し離れたところには四人掛けの机を並べた普通の読書スペースが展開されている。
大して利用者も訪れない図書館ではあるが、こういった設備は充実していた。
一般に公開すれば金を取っても人入りが見込めそうなのだが、誰もそうしようとはしない。
「幻想郷縁起ねえ……」
パチュリーの対面に座ったここぁは突っ伏して卓上に顎を載せ、咥えたシガレットラムネをこりこりと齧った
「こぁー……」
サードは手持ち無沙汰といった様子で同じく机に突っ伏して顔の先で指を回していた。
「あたしらなんか書いてもしょうがないような気がすんだけど、どうなんだろ」
「貴女が来る前、こぁ一人だった時期にも同じようなことがあったわ。あの時は鴉天狗だったけど」
「鴉天狗ってーと、射命丸文?」
「ええ。彼女が発行している新聞でこの図書館についての記事が書かれたことがあるんだけど、それが受けたのかまた取材にきたのよ。こぁ目当てで」
「おーぅ」
「そのときのこぁも貴女と同じ事を言ったわ。私を記事にしてもいいんですかって。ブン屋は情報の価値は人によってそれぞれピンキリですからって答えたそうよ」
「なるほどねぇ。そしてそのブン屋さんはその日はお泊りと」
「次の日、腰から下をガクガクに震わせながら帰っていったわ」
「……もしかして今日のも?」
「可能性としては否定できないわね」
「こぁー」
三人の視線が五番と振られた扉に集中した。
個室の中は驚くべき快適な環境が広がっていた。
本を読みながら書き物をするためのデスクに筆記用具一式、ゆったりと読書を楽しむためのソファー。
気分の安らぐ落ち着いた曲調の音楽を奏でる蓄音機、さらには口寂しさを紛らわすためか、焼き菓子とティーセットまで備えられていた。
――そして、何故かベッドがあった。
図書館の個室には凡そ必要ないと思われるものだが、清潔にきちんと整えられていた。
シーツは白く、髪の毛一本落ちていない。
個室に入ったこぁは真っ直ぐにベッドへ歩いていき、腰掛けた。
黒いスカートに包まれた尻がベッドのシーツに沈む。
「さて、何をお話すればいいんでしょう?」
微笑をたたえて司書が問う。美しき悪魔の微笑み。妖しく輝く金色の瞳が吸い込むように見るものを誘う。
「阿求」
肩をつかんで掛けられた声に阿求はハッとする。
足が無意識にベッドへと向かっていた。
「あ……」
「書き物するならそっちだ」
背後の魔理沙に示され、阿求はデスクへと足を運び、そこについた。
魔理沙はソファーにつく、三角形に配置されているベッド、デスク、ソファーに三人はそれぞれ座った。
「こぁ」
「なんですか魔理沙さん」
「惜しかったな」
にや、と笑む魔理沙にこぁはにっこりと笑い返した。
「次はまとめていただきます」
怖い怖いと魔理沙は肩をすくめた。
「阿求。さっさとやっちゃおうぜ」
促され、阿求は筆記具を手に帳面を開いた。
「質問をしますのでそれに答えてください」
「はい」
「ではまずお名前を教えてもらえますか?」
「小悪魔です。小悪魔こぁ」
質問の答えを書き込みながら阿求は続ける。
「悪魔ですか。どういった種類の悪魔なのでしょうか」
「秘密、と言いたいところですが――サキュバスです。ついでにいうと他の二人も同様です」
「さきゅばす――夢魔ですか」
「ええ。まあ、もっぱらそっちの能力を使うことはありませんが」
「どういった能力をお持ちなんですか?」
「私、実はそういった能力ってないんですよ」
予想外の返答に阿求は目をぱちくりさせた。
「能力が、ない?」
「強いて言うなら『可もなく不可もない程度の能力』ですか。絶対的な一を持たない代わりになんでもそこそこできるんです」
こぁに嘘を言っている様子はなかった。
かといって信用するにも少々弱い。
とりあえず書き留めるだけはしておくことにした。
「他にはありますか?」
逆に問われ、しばし考える――が、そもそも質問を考えていない。
先にした質問は誰にでもしているもので、小悪魔自身に向けての質問は実のところ今はなかった。
「今はまだ特に」
「では私から話させてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
「私とここぁ、サードは血縁関係はありません。ありませんが、姉妹として暮らしています。図書館の管理運営とパチュリー様のお世話が仕事です。これは妹二人も同様です」
「なるほど」
書き取りの手を走らせつつ阿求は相槌を打つ。
「基本的に戦闘は好まないので、手を出されない、本を盗んだりしない限りは安全だと思ってください。以上です」
ちらりと魔理沙に目を向けてこぁはそう締めくくった。
阿求はそれを書き留めるとこぁに一礼した。
「ありがとうございました。次はここぁさんを呼んでもらえますか」
「いえいえどういたしまして。次はここぁですね」
こぁはベッドから立ち上がり、扉を開けた。
「――阿求さん」
「はい?」
帳面に書き留めていた文を纏めていた阿求が呼ばれて顔を上げる。
その首筋に柔らかい物が触れた。
触れた場所から背筋を通って全身に痺れが走り抜ける。
「ひゃんっ!?」
「ご馳走様」
赤い髪を靡かせてサキュバスが逃げていく。
振り下ろされた魔理沙の箒は一瞬の遅れで空を切った。
返す逆手でマジックミサイルを撃とうとしたがそれより早くこぁの姿が消え、扉が閉まった。
「くそ、出遅れた。大丈夫か」
「え、ええ。多分……」
大丈夫というには声が震えていた。
目には涙が浮んでいる。
身体が襲った感覚を処理し切れていないのだ。
「見せてみろ」
魔理沙が反射的に触れられた箇所を押さえていた阿求の手をどかす。
首筋にはしっかりと赤い痕がついていた。
「レミリアさんだったら危ないところでしたね……」
涙目で大丈夫だと笑みを浮かべる阿求の額を魔理沙は指で弾いた。
「アホ。夢魔の接吻だって充分危ないぜ」
「そんな危ない真似を許してしまった護衛は報酬減額です」
「ぐはっ」
「と、こんな軽口を叩けるので大丈夫です」
阿求はそう言って涙を拭き、笑った。
顔にうろたえの色はなく、涙も止まっていた。
「さよか」
だが魔理沙は逆に大丈夫だと思えなかった。
まず無いとは思うが、呪いを掛けた可能性もある。
西洋の結婚式で誓いの接吻があるように、口付けというのは一種の契約サインめいた効力を発揮する場合があるのだ。
「んじゃ質問タイムを中断してちょっとこぁをとっちめるか」
「それはいいですけど……そういえばここぁさんが来ませんね」
「外で雑談中か?」
扉を開けて二人は外を覗いた。パチュリーとこぁしかいない。
「あら、お楽しみじゃなかったの?」
「おまえは何を言っているんだ」
パチュリーをばっさり切って魔理沙は個室の外に出た。阿求も続く。
「接触が浅かったのかな?」
「いきなり何をしやがるんだお前は」
首を傾げるこぁに魔理沙は詰め寄った。
「阿求さんが全身から誘いオーラを発しているのでちょっと首筋に接吻を」
本当は唇を奪いたかったんですけどね、と続けたこぁの頭を箒の穂先が叩いた。
「呪いを掛けたりはしてないだろうな」
割と本気で叩いたのだろう。
こぁは頭を抑えてうずくまった。
自業自得。
「掛けてませんよう」
「接触が浅かったってのは?」
「性感の深いところまでキスが潜らなかったのかなと」
穂先がべしんとこぁを叩いた。
こぁの危険度を”中”に引き上げて記述しつつ、阿求は周囲を見回した。
いるはずの二人がいない。
「あのー、ここぁさんとサードさんは?」
我関せずと本のページを捲っていたパチュリーが顔を上げた。
「侵入者の迎撃に出たわ」
紅魔館地下大図書館は、広い。
迷ったら脱出が困難になる程度に広い。
ここの司書はこの広大な場所でも迷子にならない、もしくは迷っても独力で復帰できる能力がまず要求される。
次に要求されるのは、何かが侵入してきた場合にそれを察する能力だ。
「くそー。サードはどこだ? あとここぁ」
図書館に潜入することには成功したチルノだったが標的を見つけられずに居た。
これだけ広い場所で探知手段も見当も無く探すのでは無理もない。
復讐をしようにも相手が見つけられないのではそれ以前というものだ。
その辺りの本棚を次々に氷漬けにして歩き、異常を察した向こうから来てもらうという手段もあるのだが、チルノは思いつかない。
「んがー! 全然見つからないぞコンチクショー!」
血気盛んな熱血型氷精が吠えた。
チルノの後方上部、本棚の上に二人は居た。
子悪魔ここぁと小悪魔サードである。
「――しかしこっちからは丸見えなのであった」
ここぁは白い仮面にマントという怪人物めいた格好をしていた。
本人曰く、演出らしい。
「丸見えこぁ。もうちょっとつめればフェニックス全弾で必殺できるこぁ」
サードはここぁの隣にしゃがんでチルノを見ていた。
背が高いので立つと目立つのである。
「それじゃ面白くない。飛んで火に入る夏の氷精。季節が秋に入るまでは飼ってもいいとおねーちゃんは思うんだなぁ」
外見では妹に類されるであろうここぁが言う。
「こぁ。じゃどうするこぁ」
「こうする」
言ってここぁは指を鳴らした。小気味のよい音が響く。
音が聞こえたのかチルノが振り向いた。
ここぁ、サード共にばっちりと目が合う。
見ている先で見る見るチルノの顔が歪んでいく、獰猛な獣のような笑みの形に。
「見つけたあああ! 覚悟おおお!!」
床を蹴ってチルノは二人へ突っ込んでいく。
一対二では勝ち目が無いなどいった考えは無い、計算もない。
あるのは妖精の枠を超越した冷気を操る程度の能力と――闘争本能だ。
バキバキと音を立ててチルノの氷細工のような羽が成長する。
急激に冷気が発散され周辺の温度がみるみるうちに下がっていく。
チルノは背中に右手をやって、抜刀するかのように振り抜いた。否――ように、ではない。
その手には氷色の長剣が握られていた。
どこからか入手したのか、あるいは自分の能力で作ったのか定かではない。
「ほおぉ……」
仮面の下でここぁが嗤った。――アレは金になる。
「ここぁ姉」
姉を守るようにサードがチルノとここぁの間に入った。
その右手には棘付き鉄球。
「大丈夫。ソレ使うまでもない」
再びここぁが指を鳴らす。
「ぐげェっ?」
瞬間、悲鳴をもらしてチルノの動きが止まった。
「げは……っが、なんだよこれ!」
「捕縛トラップ『天の鎖』。知り合いからツテでもらった試供品」
チルノの身体には四方八方から伸びた無数の鎖が巻き付いていた。
もがくが戒めはびくともしない。
子悪魔ここぁ、地下大図書館の防犯対策担当の彼女は歴戦の罠師にして策士なのであった。
「残念だったねえ」
常のものとは異なる裏声でここぁは言い、空中に縛られたチルノの元へと降りていった。
「っが、ここあぁ!」
鎖を揺らし、猛犬のように吠えるチルノ。
ここぁはニヤニマと笑みを浮かべてその姿を見る。
「いやアンタホント鴨葱だわ。猪突猛進だから罠に嵌めやすいことこの上ない。でもって、その剣……」
ここぁはしげしげとチルノが持つ剣を眺め、納得したのか頷いた。
「間違いなくアイスソード。拾い物か自作物か知らないけど、どっちにしても殺してでも奪い取りたい代物だぁね」
うんうんと頷き、ここぁはサードの方を向いた。
「サード。ちょっとこの剣もぎ取ってー」
「こぁー」
本棚の上からさーどが飛び降りる。
アイスソードを奪ったあとは適当に弱らせて捕縛コースと、ここぁは目論み――燃えるように背中が熱いことに気づいた。
「が……?」
首だけで振り返る。
チルノが凄絶に獰猛な笑みを浮かべていた。
「かいしんのいちげきぃ……!」
ここぁの背中にはアイスソードが突き刺さっていた。
「あれえ……? こうそく、あまかっ……た?」
仮面の少女が崩れ落ちる。
「ここぁ姉!」
アイスソードがここぁの背から引き抜かれて踊った。
戒めの鎖が次々に切断されチルノを自由にしていく。
「やるんなら手首の先まできっちり縛らないと! 動けたら暴れるに決まってるじゃん!」
切断された鎖はチルノから剥がれて瞬く間に風化していく。
サードはチルノを無視して落ちていくここぁを抱きとめた。
「ここぁ姉! まだ生きてるこぁ!」
「ありがとう妹。まだ生きてる……」
マントを赤に染めながらここぁは右手を上げた。
「ちょっと深いけど大丈夫、この程度なら悪魔だから死なない。それよりアイツだ」
言われてサードはチルノを見た。
全ての鎖を断ち切り、右手に氷剣を光らせてこちらを見下ろしている。
「次はあんたの番よ!」
向けられる切っ先にサードは右手を握り締めた。
「サード、あたしを置いて行け。戦え」
「ここぁ姉はどうするこぁ」
「滑空は出来るから着地して、それから考える」
「こぁ……」
「あたしは大丈夫だから、いけ!」
そう言ってここぁはサードから離れた。
翼を広げ、言葉通りに滑空して降りていく。
「……やっちゃるこぁー……!」
ここぁの着地を見届けてサードはスイッチを切り替えた。
パチュリー・ノーレッジが対霧雨魔理沙対フランドール・スカーレットを想定して錬成した戦闘小悪魔がその本領を発揮する。
「いくこぁ!」
空を蹴り、チルノへと突っ込んでいく。
チルノはサードに背を向けると急上昇、本棚より上の広い空域へ舞い上がった。
サードもチルノを追って空へ昇る。
遮蔽物の無い開けた空間、地下でありながら異様に高く広い天井。――踊るには絶好の場所だった。
サードはハンマーの届かない間合いに居るチルノへの攻撃にフェニックスを選択した。
魔力で出来た六発の光の矢が即座に編み上げられる。
「ろっくおん! フェニックス全弾発射! ふぉっくす、すりー!」
コールと共にフェニックスが一斉に撃ち出された。
「この攻撃が避けられるこぁーっ!」
適正距離で放たれた六発のフェニックスはその追尾性能と合わせて回避困難な弾幕と化す。
迫るフェニックスを目の前に、だがチルノは回避機動を取ることなくその場に留まったままでいた。
「――凍って止まれ! パーフェクトフリーズ!」
着弾まであと一秒というところまでチルノは愛用のスペルカードを発動させた。
カードから瞬間的に開放されたスペルは、『完全な凍結』の名前通りに六発のフェニックスさえも凍りつかせた。
「こあぁ!?」
適正距離で発射したフェニックスが防がれた事にサードは驚愕した。
チルノが氷精であることは知っていたが、まさか弾まで凍らせるとは思わなかったのである。
「あはははは! ばーか!」
高笑いするチルノにさーどは次弾を送り込むべくフェニックスを編もうとして、出来ないことに気づいた。――弾幕展開能力の限界だ。
追尾能力と高い威力を併せ持つフェニックスを七発以上顕現させる事は、今のサードの弾幕展開能力には不可能だった。
意図された結果ではないが、これによりサードはフェニックスを封じられた。
遠距離攻撃手段が実質的にフェニックスしかないサードにとって、この事態は中距離以遠の攻撃手段をも封じられたことを意味する。
知ってか知らずか、チルノは凍らせたフェニックスから離れると新たにスペルを発動させた。
「アイシクルフォール!」
チルノの背丈と同じぐらいある氷柱が次々にサードへ襲い掛かってくる。
遠距離攻撃を封じられたサードは危険を承知で突っ込んで行くしかない。
「くっ……! こぁ! こぁっ! こぁぁっ!」
ハンマーを振り回して氷柱を打ち払いながらチルノへ向かっていく、だがそうそう払い切れるものでもない。いくつかはハンマーを掻い潜りサードの身体に刺さる。
が、ローブを貫通できずに落ちていった。
パチュリーの防御魔法による強化が施されたローブは鎧並みの頑丈さを有していた。
とはいえ衝撃の何割かはローブに拡散しきらず身体を打つ。
思い切り殴られているのと大差はない。
サードは力任せの強行突破でじりじりと距離を詰め、遂にチルノをハンマーの射程へ捉えた。
「ヒガンに送ってやるこぁ!」
二度三度と大きく振り回し、遠心力と加速をつけて飛び切り強烈な一撃を放つ。
「閻魔に説教されるのはてめーだ!」
高速弾並みの速さで飛翔したハンマーだったが、溜を作ったのが災いしてチルノにタイミングを読まれていた。チルノは最大威力の鉄球を回避し、大きく前に出て鎖をアイスソードで叩き切った。
「マヌケ!」
「っが……!」
癪に障ったが返す言葉がない。
「るっさいこぁ! 来やがれこぁ! 目に物見せてやるこぁ!」
逆切れ気味に捲し立ててサードはハンマーの柄を捨てた。両腕を大きく左右に開き、「しゅんちゃく!」
身体の正面で拳を打ち合わせた。
鉄と鉄のぶつかる音が響く。
一瞬前まで素手だった両腕が漆黒のガントレットに覆われていた。
「ばッとうッ!」
背中に回した右腕を掛け声と共に振るう。
空手のはずの右手には黒い大剣が握られていた。
分厚い刃にサードの身長を上回る長さの剣身、そして広い身幅に鉄塊を成形しただけのような無骨な外見。
人間どころか並みの妖怪でも持ち上げることすら危うい非常識なその大剣は『ドラゴン殺し』と呼ばれていた。
その非常識をどこからとなく抜刀し、サードは両手で構えた。
「カチ割りにしてやるこぁ!」
「やってみろい!」
「応! やってやるこぁ!」
ドラゴン殺しを横薙ぎに振るって背中に担ぎ、宙を蹴る。突撃。
「くぅおぁぁぁぁぁ斬ッ!!」
間合いの中にチルノを捉え、サードは全力全開で袈裟に斬りつけた。
吸血鬼並みの馬鹿力を持つサードの全力、分厚く鈍らに等しい刃は力技でチルノに喰らい込み、左肩から右腰へと抜けた。真っ二つである。
真っ二つになりながらチルノは嗤った。
妖精は基本的に不死だ、死んでも死なない。
殺しても殺せない…だが真っ二つになっても平然としていられるかといえばそうではない。
不死ではあるが感覚はある。
チルノは両断された激痛が身体を駆け巡っているはずだった。
それが嗤っている。
違和感に気づき、サードはドラゴン殺しを盾にした。
直後真っ二つになったチルノが溶けて飛び掛ってきた。
泥団子をぶつけたような音を立ててチルノはドラゴン殺しに当たり、潰れて剣身をどろりと流れる。
――このチルノはダミーだ。
カンが囁いた次の瞬間、ドラゴン殺しを手放す。
一瞬の差でドラゴン殺しが氷結した。
「つ……!」
サードが飛び退く、愛刀は重力に引かれて本棚の林へ落ちていった。
氷結する直前に手放したことが幸いして、氷結はサードに至ることは無かった。
だがこれでサードは全ての武器を失ったことになる。
「アイスソードを使った手品ー♪ 発案者大ちゃ~ん♪ 実行者はあたい~♪ 最強ね♪」
サードから大きく離れたところへ歌と共にチルノが現れた。その身体には傷一つない。
「へへーん。武器なしにしてやったしてやった。もうあたいの勝ちね」
得意満面に笑うチルノ。
「まだこぁ!」
サードはガントレットを打ち鳴らして、左半身を前に構えた。
「わたしはまだ負けてねーこぁ! つーげきの一つも受けてないこぁ! おまえのやったことは所詮妖精のいたずらこぁ!」
「なんだよサード!まだ負けたりないのか!?」
「負けてねーっつってんだこぁ!チルノの攻撃なんかわたしに全然届いてないこぁ!痛くもかゆくもないこぁ!寒いだけこぁ!」
「んなろ……! なら痛くしてやるよ!」
子供の口喧嘩レベルのサードの罵倒だが、チルノのプライドにダメージを与えられたらしい。
引く雰囲気を見せ始めていたチルノが戦闘を再開した。
「氷精の、本気を――」
チルノは両腕を左右に開いた。四肢を大の字の形に広げ大気中のマナを取り込む。
空気が音を立てて凍りつく、キシキシと氷結していく空気は、チルノが今までになく強力な大技を繰り出そうとしていることを示していた。
フェニックスを封じられ、小悪魔ハンマーを破壊され、ドラゴン殺しも失ったサードにはこの距離で取れる攻撃手段がない。
サードは油断なく構え、瞬き一つせずにチルノを見据える。
その視線の先から、何の前触れもなくチルノの姿が消失した。
「――見せてやる」
声は至近から聞こえた。
サードの両手首を小さな手が掴む。消えた次の瞬間、チルノはサードの目の前に居た。
「こぁ!?」
妖精の中でも力の強いものが習得している能力の一つ、テレポートである。
「凍りつけえ!」
叫びと共に極低温の冷気がサードを襲った。
チルノが触れたものは小さなものなら瞬間的に凍りつく、急激に冷却され、鉄のガントレットは薄く霜を浮かべ、あっという間に凍りついた。
冷却はガントレットだけに留まらない。
薄霜はガントレットからローブにも侵略を始め、白く染めていく。
手首から肩、首へと迫る白に、サードは慌ててチルノを振りほどいた。
が、時既に遅し。凍結はローブ全てに及んでいた。
「あははははっ!」
振り解かれた勢いで宙を舞いながらチルノは笑う。
笑いながら右手を突き出しアイスショットガンを撃った。
氷の散弾が短距離で充分に広がりきってサードを襲う。
「くあっ!」
広がりきった散弾を防御するには両腕のガントレットのみでは無理があった。
防御を抜けた散弾が身体を叩き、サードが短く悲鳴を上げる。
予想外のダメージだった。
ローブの護りを抜いて、まるで肌を晒しているかのような冷気が身体を撫でていく。
――否、”ような”ではない。
「……こッ、こあぁぁぁ!?」
散弾を受けたローブは砕け散り、その下に隠していた下着とさーどの素肌を露にしていた。
「なっ、なんじゃこあぁぁぁぁーー!!」
サードのローブはパチュリーにより防護の魔術が施されている。
それにより布のしなやかさと鉄の強度を併せ持ち、服でありながら並みの鎧を凌駕する頑強さがあった。
パチュリー理論では徹甲弾タイプのマジックナパームが垂直に当たっても弾くらしい。
――それが氷の散弾によって、たやすく砕け散っていた。
「すっげえ。大ちゃんすげえ。本当にうまくいった」
感嘆の色をこめてチルノがつぶやく。つぶやいて、にいっと笑った。ローブは砕いた。次はあの忌々しい鉄の手袋だ。
「くらえデカブツ! くだけちれっ!」
散弾の次に繰り出すは自身の身長ほどもある大きさの氷柱、チルノは両手に氷柱を生み出すと続けざまに撃ち出した。
「こぁくそっ!」
迫る氷柱にサードは身構えた。真っ向から迎撃する。
以前の交戦でやったように打ち払おうと左手を外に振るい氷柱に叩きつけた。
図書館に涼やかな音が響き、かち割れた破片が舞い散った。
――氷柱と、ガントレットの破片が。
外殻が散り、革紐をバンテージ状に巻いて樹脂で固めた内側が大気に触れる。
「っ!?」
驚く間もなく次弾が来る。
サードは右手を握り、氷柱に正拳を繰り出した。
戦闘小悪魔の馬鹿力と戦闘氷精の氷結力が真正面からぶつかりあう。
サードの馬鹿力を真正面からぶつけられ、氷柱は木っ端微塵に粉砕された。
右のガントレットを道連れにして。
「痛っあ……!」
サードが顔をしかめて右手を引く、外殻を破壊され露にされた内側、革紐と樹脂の隙間から赤が滴った。
「……どーなってるこぁ」
呆然と両手を見る。外殻を失ったガントレット(というよりセスタス)を見ても何も分からない。
「どんなものでも凍らせればもろくなる。 花だって砕けるし水だって壊せる! アンタの服だって鉄の手袋だって木っ端微塵よ!」
ちなみに使っているチルノも理屈は分かっていない。
完全に凍らせれば壊せる。それだけでいいのだ。
「く……」
痛む右手を握る。出血はしているが深くは無い。
痛みも我慢で押さえ込める程度だ。
「この際だからアンタも凍らせちゃおうか。カッチカチに凍らせて木っ端微塵にしちゃおうか」
チルノが嗤う、全身に極低温を纏った今のチルノは生身にとって脅威そのものだ。
打撃技で攻撃すれば代償として接触箇所の皮膚が剥ぎ取られるだろう。
損害に構わず攻撃すれば倒せるとサードの戦闘思考は判断していた。
ただし想定被害は四肢の全損と洒落にならないレベルをはじき出している。
しかもこれはチルノが抵抗しなかった場合だ、チルノが攻勢に出ればサードに勝ち目はない。
「っ……!」
革紐と樹脂で固めた拳を前に構えるが、サードはわずかに引いていた。
「抱きついて凍らせるって雪女みたいなのもいいかも。どうかな?」
「あー、いいかもね。でもアンタにゃあ身長も歳も豊満さも足りないね」
「誰だ! どこだ!?」
「この声は――!」
どこからとなく飛び込んできた第三者の声に、チルノは左右を見回し、サードは喜色を浮かべた。
「あたしだっ! チルノ!」
「上――ッ!?」
真上からの声に、チルノは上を見上げ――視界一杯に広がった水の光景を最後に意識が途絶えた。
「残念だったねえ……」
仮面の少女の声はサードの背後からした。
サードが振り向くより小さい姉が背中に負ぶさってくる方が早い。
「んゃあ……」
姉の手が妹の膨らみに潜る。
「極低温全開で頭から水被ったらこういうことになるって、ママに教わらなかったのかな?」
「ここぁ姉ぇ……あ、ちょっ……んっ……」
くつくつと図書館の罠師は嗤った。
妹を可愛がりながら。
個室エリアの読書スペースで取材と雑談を半々で交わしていた四人のところへ、
「ただいま」
「ただいまこぁー」
侵入者の撃退に向かっていたここぁとサードが帰ってきた。
「おかえりなさ、い……」
「おかえり……だぜ」
「おかえりなさい」
「おかえり」
――氷漬けになったチルノを引き摺って。
――ここぁは白い仮面とマントという胡散臭い格好で。
――サードは下着とソックス、ローファーという格好で。
「侵入者はチルノちゃんでしたとさ」
仮面を外してニヤリと嗤い、ここぁ。
「わたしとここぁ姉でやっつけたこぁー」
しゃーと狩猟者が威嚇するときのような顔を氷結チルノに向けてサード。
「お疲れ様。……ふぅん。極低温を使ってきたのね。面白い見世物だわ」
本から目を離し、パチュリーはまじまじとチルノを見た。
琥珀のように一瞬を切り取ったそれは、心になにかしら訴えてくるものがあるように感じた。
――例え中身がチルノであっても。
「お疲れ様でした。あら、サード。その右手……」
「つららぶん殴ったら怪我しちゃったこぁ」
けろりとした顔で言うサードに、「しょうがありませんね」とこぁは苦笑した。
怪我をした右手を取り上げ傷に口付ける。
「……これは手当てしないとダメですね」
しばしの水音の後にそう言った。
「あー。ここぁ姉、あたしも怪我した。背中刺されたー」
報告して負傷箇所を見せるここぁに、「貴女もですか」とこぁは肩を竦めた。
サードにしたのと同様に傷口に唇を寄せ、しばらくして離れた。
「貴女も手当てが必要ですね。今日は随分と苦戦したようで」
「いやぁ、誰かチルノに入れ知恵してたみたいでさ」
「大ちゃんとか言ってたこぁー」
「大ちゃん……なるほど」
こぁは瞑目して頷き、ため息をついた。
そして阿求と魔理沙に向き直った。
「申し訳ありませんがこれから妹たちの手当てをしなくてはならないので、今日のところはお引取り願えますか」
「今日のところはこれ以上居てもおそらく無駄になるわよ。またあとで来た方がいいわ。一週間後ぐらいにね」
丁重にこぁは言い、パチュリーが続けた。
阿求と魔理沙は顔を見合わせると首肯した。
「それでは今日はこの辺で失礼させていただきます。またよろしくお願いします」
「ああ、帰るぜ。また来るぜ」
二人は短く帰る意を伝えると速やかに帰り支度を始めた。
――無駄、というより、これ以上ここに居ると危険な気がしたので。
紅魔館を後にして稗田家に戻った頃には日が沈みかけていた。
夕焼けに染まる風景の中、阿求は魔理沙と共に帰ってきた。
魔理沙は夕食の誘いを断って阿求と別れ(「報酬は小悪魔の項が書き終わったらもらうぜ」と言い残していった)、魔法の森の方へと飛び去っていった。
自室に戻った阿求は荷物を置くと、畳の上にだらぁっとうつ伏せに身を投げ出した。
「いろんな意味で……疲れた……」
――初めて空を飛んで、とんでもない高速と、とんでもない機動を味わわされたり。
――妖怪にぺろぺろ舐められたり。
――吸血鬼に血を求められたり。
――戦闘用小悪魔に追い回されたり。
――夢魔に首筋に接吻されたり……。
「疲れた……」
接吻された箇所に触れる。
首筋には赤い腫れ。
家人に見られたら何か言われそうだったが誤魔化す手段もない。
「はあ」
ため息が出た。億劫さに。
そのまま考えることすらやめてだらしなく畳に広がって流すことしばし。
身体に溜まった色んな意味での疲労をがほどほどに抜けてきたところで阿求は身体を起こした。
「夕飯の前に少し書いちゃいますか」
もそもそと身体を俊敏とは言い難い速さで動かし、持っていった巾着から帳面を取り出した。
ついでに明かりを点し、愛用の筆記具をちゃぶ台の上に広げる。
本来は座卓に向かって記すべきなのだが、清書ではなく下書きの下書きにするつもりなのでちゃぶ台でも構わなかった。
「……書こうにもあんまり情報ありませんね」
筆を取ったところでその事に気づいた。
こぁから話を聞いたところでここぁとサードはチルノの迎撃に出てしまったし、二人が帰ってくるまでの雑談ではもっぱら阿求は自分の事を聞かれて答えていた。
そして帰ってきてからは話を聞く前に丁重にお帰り願われてしまった。
「絵にしておきますか……」
肩を竦めて阿求は筆を走らせ始めた。
記憶した姿と印象を合わせて紙に写すイメージで手を動かす。
さらさらと筆が踊り、紙の上に小悪魔たちが現れていく。
「……しかし」
ざっと一通り描いて阿求は手を止めた。
白地に黒の紙面に目をやる。
特徴的な三人の小悪魔が未完成ながらもそこには居た。
一人はどこか妖しく、大人しそうに見えてそこはかとなく淫靡。
一人はどうにも妖しく、笑みと格好が胡散臭い。
一人は幼い猛獣のようで、手を出すと噛み付かれそう。
小さく息を吐いた。
「……どこが目立たない妖怪なんだか。一度会ったら忘れようにも忘れられませんよ……」
阿求は自嘲気味に苦く微笑する。
ちゃぶ台の影で寝ていた黒猫が大きく欠伸をした。