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トイレに詰まった糞と格闘すること一時間。 陽斗は実に清々しい気持ちになっていた。
葛城 陽斗
ラバーカップをバケツに放り込んでトイレを後にする。 資料室や保管庫が並ぶ三階の廊下を歩いていると、正面から息を切らして歩く巨漢がやってきた。
太田
葛城 陽斗
陽斗が気安く話しかけると、太田は恵比寿様のような顔をますますにっこりと歪ませた。
太田
葛城 陽斗
陽斗が親指を上げると、だっはっは、と二人して笑いあう。
太田
葛城 陽斗
太田
葛城 陽斗
陽斗は指を銃の形にしてこめかみに押し当てた。 昔からこうすると考えがまとまりやすい。 きっかけは映画ディア・ハンターで見たロシアンルーレットで、そのシーンのあまりの緊張感に感化され、なにかを考えるときはこうすることで緩んだ思考のネジを引き締めることができるのだ。 設備管理の仕事はとにかく歩く仕事だ。 まず施設内の全ての空調機を毎日チェックしなければならない。空調機の役割は人が働きやすい環境を作ることにも使われるが、研究所においてはむしろ機械の放射熱を制御し、オーバーヒートしないように一定の温度を保つために使われることの方が多い。 または空調機の不具合で結露水が漏れ出していた場合は、機械をショートさせてしまう原因にもなるため実はかなり重要度が高い仕事だ。 排水板《ドレン・パン》の清掃やファンモーターの交換など、簡易的な修理を自分で行うこともあるため、知識と技術も必要である。 それと照明の管理。例えばフィラメントが切れてしまった電球の交換なのだが、照明は時に漏電といった事象を引き起こす。 漏電するのはスタンドライトのようにアームが動くタイプの物が主で、ほとんどはケーブルの損傷が原因だ。 漏電に関してはフロアごとに漏電検知器が設置されているため、すぐにわかるのだが、問題はどこで漏電しているのかを特定することだ。 なにせ電気は目に見えない。見えないものがどこから漏れているのか特定するには長年の経験で培った勘や電流計《クランプメーター》の正しい使い方を理解していなければならない。 さらに給排水設備も設備管理の仕事の一つ。トイレの詰まりや手洗い場の整備。時には配管交換も行う。はっきりいって汚れ仕事だ。 他にも火災報知機や散水栓などの消火設備の管理、非常用発電機《ジェネレーター》の管理、空調機の本体である冷温水発生機の管理、各所に入るための鍵の管理などなど様々な管理項目がある。 業者を呼べば見積書の作成や注文書の発行、月末の出費報告書のまとめ、経年劣化具合から機械の交換時期を算出したり、新規で機械を取り付ける際には熱不可計算ーー室内の広さに応じた空調能力の計算ーーや揚水ポンプの容量の計算など、数字に関する業務も多岐にわたる。 業務内容は膨大かつ責任が重大ではあるが、給料が安くまた施設内をひたすら歩き回るため肉体労働の側面も持っている。 オマケにドライバーやモンキーレンチといった工具が入った道具袋を腰に巻いているため、重りをもって歩いているようなものだ。 警備員も兼ねている陽斗は、工具の他にもスタン警棒などの防犯用具も携帯している。 まさに薄給激務という言葉がお似合いな仕事だ。 陽斗は手を銃の形にしたまま、太田に人差し指を向けた。
葛城 陽斗
ほんとうに、もう少し給料がよくてもいいと思っている。
太田
葛城 陽斗
太田
葛城 陽斗
太田
陽斗の脳裏に星夜の顔がよぎった。 星夜はどこか危ういところがある。 昔から純粋で自分の興味があることに対しては愚直なまでに執着する癖があるのだ。 高校まで勉強に興味がなかったため成績はよくなかったが、陽斗は彼の才能を見抜いていたため、彼に勉強を教えるときは理屈っぽく説明するのではなくとにかく勉強が好きになるように誘導し続けた。 その結果、星夜は兄である陽斗をもしのぐ天才へと成長したのだ。 そのあまりの熱心さに、陽斗は喜ぶどころか恐怖すら覚えた。 日がな一日書籍を読み漁り、暗い部屋の中で茸のように過ごす弟を見て、陽斗は自分がしたことが正しかったのか疑問を抱くようになった。 もともと教師を目指していた彼は、次第に自分の教育理論のせいで弟の人生を捻じ曲げてしまったのだと思い込むようになっていった。 その考えが彼を苦しめ続け、そしてあの劣等生の星夜が首席で大学に入学したと同時に陽斗は大学を去ったのだった。 大学に入学してから星夜の勉強癖はいくらかおさまった。 けれど、いまでもまだ危ういところがある。 どうやって資金を調達したのかはわからないが、あの年でこんな立派な研究所をもち、まるで我が家のように寝泊りして一日中研究室にこもっている。 健全であるはずがない。 仕事がうまくいっていなかった時に星夜の方からここへこないかと誘われたときは、正直なところ悩んだ。 間近で星夜を見ることは自身の後ろめたさを直視することだったから。 それでも陽斗は星夜の傍にいることを選んだ。 それが兄の責任だと思ったからだ。
葛城 陽斗
太田
葛城 陽斗
太田
そう言い残して、太田はのしのしと歩き去っていった。
葛城 陽斗
太田の返事に呆れながら、陽斗は屋上に向かった。 変電設備の計器類を確認して記録をとる。 記録をとっている最中に、妙な音が聞こえた気がした。
葛城 陽斗
耳をすませてみる。 やはり、聞こえた。 しかもその声は星夜に似ている。
葛城 陽斗
陽斗は早速走り出そうとしたが、立ち止まり、バケツに放り込んでいたラバーカップを手にもって再び駆けだした。 エレベーターを待つ時間がわずらわしいので階段を駆け下りた。 屋上から三階、三階から二階。二階の廊下に飛び出し、グレーのパネルマットの上を走る。 南の角部屋である所長室の前についた。 扉の前に立つと、足元のマットが濡れていることに気が付いた。
葛城 陽斗
靴の裏を指でこすってみる。水ではない。親指と人差し指の間で糸を引いている。なんらかの粘液のようだ。
葛城 星夜
突如、扉の向こうから絶叫が聞こえた。 星夜の声だ。だが陽斗は、いまだかつて星夜のこんな声を聞いたことがない。 それどころか、こんな声を出す人にだって遭遇したことがない。 いったいどれほどの苦痛を味わえばこんな地獄の底から響くような叫び声が出せるというのか。 陽斗は腰に結着していた鍵束を手に取り、二階のマスターキーで所長室の扉を開いた。
葛城 陽斗
扉の向こうの景色に、陽斗は絶句した。 上半身裸の金田が、いや、上半身だけの金田が星夜に襲い掛かっている。 下半身を水色の物体に覆いかぶされた星夜は、口から泡を吹いて倒れている。 陽斗は考えるよりも早く、動き出した。
葛城 陽斗
雄たけびをあげて果敢に腕を振り上げる。 金田らしき物体が陽斗に気づいて振り返った。 直後、物体の顔面にラバーカップが押し当てられた。
葛城 陽斗
がっぽんがっぽんがっぽん、と容赦なくラバーカップを上下に振るう陽斗。 あいてが下半身が融解した上半身裸の美女だろうと微塵も躊躇することはなかった。 物体はラバーカップによって顔面に空気を送り込まれて飛び散っていく。
葛城 陽斗
容赦なく攻め続ける陽斗だったが、物体は両手でラバーカップの柄を握りしめて抵抗した。 攻撃が止んでしまうが、陽斗は力づくで押し込もうとした。 ところがその時、物体の脇の下が細く変形し、頭部を蛇の形に変えて陽斗の首に噛みついた。
葛城 陽斗
陽斗はラバーカップを手放して首にかみついた蛇を引きちぎり、今度は腰に差していたスタン警棒を取り出して物体の鳩尾に押し当てた。 持ち手のスイッチを押し込むと、チチチチチ! という炸裂音とともに物体がのけぞった。 物体は瞬く間に溶解して、床をはいずり、壁をよじ登ってガラリをぶち破って通風孔の中に逃げていったのだった。
葛城 陽斗
葛城 星夜
葛城 陽斗
陽斗が駆け寄るも、星夜はすでに瀕死だった。 腰から下は火傷になったように爛れている。 よく見ると腹部には穴が開いており、内臓らしきものがはみだしていた。
葛城 陽斗
葛城 星夜
葛城 陽斗
陽斗が星夜を抱きかかえようとすると、胸倉を掴まれた。
葛城 星夜
星夜の手から力が抜けて、ぱたり、と床に落ちる。
葛城 星夜
星夜は、死んだ。 陽斗は拳を握りしめて震えた。
葛城 陽斗
陽斗は自分を殴りつけた。 そして銃の形にした手をこめかみに押し当てた。
葛城 陽斗
非常装置----クリアになった頭の中にまっさきに浮かんだのはその言葉だった。 陽斗は転がる様な勢いで今朝金を盗んだデスクに駆け寄り、机の下を覗き込んだ。 そこには赤いボタンがついていた。 陽斗は迷わず押し込んだ。 瞬間、けたたましいサイレンが研究所内に鳴り響いた。 所内の各所に設置されていた回転灯が赤い光りを発している。 次に窓や出入口がすべてシャッターによって塞がれた。 これでだれも出ることはできない。 それは同時に、だれも逃れることはできないということでもあった。
葛城 陽斗
陽斗は星夜の亡骸を見下ろした。 あまりにも無残な死にざまに、数秒しか見られず顔を背けた。
葛城 陽斗
陽斗は天井の通風孔を睨みつけた。 その先には、終わりの見えない暗闇が広がっていた。