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睦美さん(偽名)は5年ほど前まで
あるデザイン事務所に勤めていた。
ちょっとしたキャラクターやウェブサイト
包装紙のデザインなど
小規模の仕事を大量に受け入れている会社だった。
量をこなさなければならず
相当に忙しい職場だったと言う。
事務所はビルの地下階にあり
コンクリート打ちっ放しの
デザイン会社らしい洒落た内装であった。
睦美さんの同期は7名ほどおり
入社してすぐに先輩社員について
実務をこなす社員を間近に見ながら仕事を覚える
いわゆるOJTで学ぶことになった。
OJTの期間を終えた後は
すぐに実践である。
大量に舞い込む仕事を
上司の判断を仰ぎながらこなさなければならない。
あまりの忙しさとプレッシャーで
睦美さんは吐くほどにうい詰められたが
さらに過酷な状況にいる同期がいた。
ユウイチさんはOJTの期間を終えても
一定の基準を満たすものを生み出すことができず
事務所の隅に置かれた孤立した席で
ひたすら自習する毎日だった。
同期たちが対価を得られる仕事をしているなかで
1人練習の日々を送る。
本来はムードメーカーで明るい性格だったユウイチさんだったが
同期たちと昼食を食べに行ってもあまり喋らなくなり
次第は昼食に誘っても断るようになった。
ユウイチさんはたまにちょっとした仕事をふられたりしていたが
満足な結果を残すことができず
ごく簡単な文章を書いたり
計算ソフトで集計する作業をするようになった。
しかし、そこでもうまく行かなかったらしく
また自習する日々を送るようになる。
その頃から
ユウイチさんは奇妙な行動をとるようになった。
左耳をやたらと引っ掻くのである。
まるで
うまくいかない苛立ちをぶつけるように
左耳をガリガリと掻く。
出血し左耳が真っ赤に染まっているのを見たこともあり
それは一度や二度ではなかった。
ユウイチさんは
部署に割り当てられていないため
そうした行動を止める直属の上司もおらず
忙しさのため他の社員たちもあまり気をかけていなかった。
ユウイチさんは
見るからに体重が増えたようだった。
どちらかといえば華著だったユウイチさんの体系が
風船のように膨らんでいく。
しかし
事務所にいる時に何かを口にしているのを見たことはなく
昼食すら食べずに
自分の机にへばりつくようになっていたので
あとで考えると不思議だった。
結局ユウイチさんは内臓を壊した。
吐血して倒れたらしく入院し
そのまま退社することになった。
睦美さんは
正直なところ自分の仕事が忙しく
さほどかわいそうだとは思わなかったと言う。
翌年に新人が入って来た。
今度は睦美さんも教える側になり
OJTの指導員となった。
この年の新人さんの中にも
ユウイチさんと同じように
なかなか独り立ちできない女子社員がいた。
ユウイチさんが座っていたのと同じ隅の席で
自習する日々を送っていたが
ある時から
左耳をやたらと引っ掻くようになり
丸々とした体型になった。
特に食べている様子もないのに太り
内臓を壊して倒れて辞めて行くところまで
ユウイチさんと同じだった。
その翌年も
仕事がうまく行かない新人が
左耳から血を流すようになり
体型を様変わりさせて
体を壊して辞めた。
その頃には少し余裕を持てるようになっていた睦美さんは
同期や先輩社員に何かおかしくないか尋ねてみたが
みんなの返答は決まっていた。
「仕事ができないから、心と体を壊して辞めて行くんだろう。もう何人もそんな奴を見てきたよ。」
最初は睦美さんもそう考えていたのだが
あることがきっかけで違うのではないかと思うようになっていた。
あの席に座った新人が頭を抱えている様子が気になり
声をかけたことがある。
すると
新人がいきなり「うるさい!」と怒鳴った。
しかし
新人が顔を向けたのは
睦美さんがいるのとは反対側
左手にある壁の方だった。
その壁には
だいぶ前に自社でデザインしたと思われるポスターが貼ってある。
地方自治体で行われた
野菜などの特産物が映るポスターに怒鳴る新人の姿は
明らかに異様だった。
そして
ガリガリガリガリと左耳を掻きむしる。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ・・・」
耳から流れ出た血が
机の上にポタリポタリと垂れて行く。
一心不乱にラフ画を描いている紙にも垂れるが
新人はまるで頓着しない様子で書き続ける。
睦美さんはそれ以上
声をかけられなかった。
その翌年も
同じようにあの席に座った新人が
ポスターに話しかけるのを見た。
顧客が納得するものを作れなくなったベテラン社員がその席に座ることもあったが
やはり同じ末路を辿った。
睦美さんは
先輩に訪ねたことがある。
「あの壁に貼ってあるポスターは剥がさないんですか?」
デザイン的に古いし
事務所の雰囲気とは不釣り合いだった。
「ああ、あれなぁ。なんか変な形のシミが浮き出たから、それを隠すために貼ったみたいなんだわ」
顔の形に見えるシミだと言う。
古参の先輩社員から
事務所があるあたりは
かつて寺だったと言う話も聞いた。
「だから、地下にあるここは仏さんがいた場所だったのかもしれないぞ。」
と、その先輩は笑っていた。
決して社員間の中は悪くなく
切磋琢磨する社風の中
一人前になった社員たちは団結していた。
それは
あの席に座る社員がいて
そこに至らなかったことで生じる絆のような気がした。
いつかは自分もあそこに座ることになるかもしれない恐怖と
それに打ち克った喜びによって生じたもの・・・・。
そんな考えが頭から離れなくなったことと
毎年毎年
心と体を壊して辞めて行く仲間を見るのが忍びなくなって
睦美さんは会社を辞めた。
その会社は右肩上がりに業績を伸ばし続けているが
事務所の場所は今も変わらないままだと言う。
end
作者
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