私はもう惨めな敗者じゃない。
叶わない夢なんて見ない。 無い物ねだりなんてしない。
あの時の私は 他ならぬ私の手で 殺したはずだ。
もう惨めな思いはしなくていいはずだ。
そのはずだ。
整った顔立ちが醜く歪んだかと思うと
次の瞬間 彼の手が私の左頬を思い切り打った。
ダイニングテーブルの脚に背中を強く打った。 テーブルの上の花瓶が倒れた。
私の頭上で 怒号の雨が降り注いだ。
鳴沢真由子
ゲーム感覚だった。
簡単には出来ない_____そう信じていた。
「7ヶ月です」 病院でそう聞いた時は気を失いそうになった。
遊びで培った肉体関係の代償。
中絶期を逃し、もう逃げ道はない。
1人で抱えるには不安すぎて
リビングの床に手をついて泣きながら謝って懇願した。
ひたすら彼の容赦ない罵倒に耐えた。
所帯を持って子どもを迎える準備をする___
それだけのこと。 なのにどうして
私だけが惨めな思いをしなければいけないの
その日は大きな月が出ていた。
全然綺麗じゃなかった。
親戚から貰った 柚子の鮮やかな黄色が目についた。
全然綺麗じゃない「月」 と ムカつくほど鮮やかな黄色い「柚子」
それらを組み合わせて
生まれてくる子に「柚月」と名付けた。
私にだって 少女漫画みたいな恋愛に憧れてた時期はあった。
だけど年を重ねるにつれ、現実とのギャップを自覚していく。
結局 駆け引きが上手い美人が得をするのだ。
私が勤めていた会社には、タレントと言われてもおかしくないような美形の男性がいた。
その男性と どこまでの関係になるか___
私を含むOLの間で、それは最大のマウントの材料だった。 現実なんてこんな物だ。
自分の容姿については自覚している。 最上のメイクと愛想で、最上級の関係を築けた。
私が一番早く、私にしか出来ないことだった。有頂天だった。
今思えばあれが私の人生のピークだったのかもしれない。 ジェットコースターの頂点。
病院で「7ヶ月」宣告を受けた時は、もう降下を始めていた。
___それなりの大きな企業でそれなりの地位にいる彼は世間の目を恐れていた。
身重の私を捨てることが出来なかった。苦渋の選択。
小心者ゆえ その怒りは私に向いた。
鳴沢真由子
2言めには不始末。 フシマツ、フシマツ___
呪いの言葉は私の自由を奪う。
それでも1人になりたくなくて
惨めな気持ちに見て見ぬフリをして、ひたすら顔色を窺って従って__
降下を始めたジェットコースターは、もう止まらない。
頂点からどんどん遠ざかる。 落ちる。
おちる おちる おちる オチル
落ちる
堕ちる
人生の「底」は今から4年前___ 柚月が小学5年生の時。
柚月の通う小学校には、卒業式とは別に「卒業生を祝う会」が毎年行われる。
イベント運営は5年生の保護者が中心。
その日はイベントの会議で3時間ほどファミレスで過ごした。
午後10時頃 帰宅すると、彼が不機嫌な顔つきでカップ麺を啜っていた。
鳴沢真由子
鳴沢真由子
鳴沢真由子
「家事があるから」「仕事で忙しいから」等々 のらりくらりと言い訳をする他の保護者をなだめすかして
妥協に妥協を重ねて、「専業主婦はいいわよね」と嫌味を聞いて__ 延々3時間。
その「疲労」が溜まった「不満」と化学反応を起こして爆発した。
鳴沢真由子
鳴沢真由子
鳴沢真由子
赤く充血した目で、彼は下から私を睨み付けた。
こんな嫌味を部下から言われるんだ
届かない。 私に赦しは来ない。
1人になりたくなくて、今までずっと ずっとずっと我慢して来たけど
もう うんざりだ
鳴沢真由子
鳴沢真由子
鳴沢真由子
悲観的になって何が悪いの!?
そこから先は、11年分の涙で言葉が出て来なかった。
化粧が崩れるのも構わず涙を流し続ける私を、彼は潰れた虫を見るような目で眺めていた。
そんなに俺との生活が不満なら
鳴沢真由子
話は終わりだ、とばかりに 彼は私の顔を見ずに立ち上がった。
____優しい言葉をかけてくれるイケメンなんていない。 現実なんて
現実なんて どれだけ頑張っても罵声ばかり。
少女漫画みたいな恋愛なんて有り得ない。
リビングから出て行った彼の背中に、決別の言葉を投げつけた。
鳴沢真由子
私の低くしゃがれた声は 私の内側でいつまでも響いた。
あの瞬間 少女漫画に憧れていた昔の私は息絶えた。
柚月が中学に上がると同時に二人目の夫を迎えた。
二人目の夫は、小学校の頃から成績優秀だった柚月を大層気に入っていた。
「こんなに優秀な子供を育てるのは誰にでも出来ることじゃない」 「君は凄いよ」
「凄い」なんて褒められたのは、久しぶりすぎた。
もう惨めな思いはしなくていい。 そう思っていた。
「ところで柚月は どうなんだ」
「今度のテストで柚月は___」
「柚月が____ 「柚月の____ 「柚月は____
柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月 柚月
夫の目に映るのは柚月ばかり。
やっと人並みの幸せを得られると思ってたのに 現実なんてこんな物?
違う。
きっと私にも人並みの幸せを得ることは出来たはず。 柚月が
いつも私の邪魔をするだけで。
自分の時間なんて無いも同じな11年。 我慢に我慢を重ねた11年。
もう我慢しなくていいんじゃない?
柚月しか映らないのなら 押し退ければいい。
私はもう敗者じゃない。
鳴沢真由子
少し外で時間を潰してなさい
私は敗者じゃない。
なのにどうして こんなに惨めになるの
___その答えを、私はついに見つけてしまった。
柚月とあの大学生は
目を輝かせて少女漫画を読んでいた昔の私と 酷くダブって見えた。
存在しないはずの「それ」を、信じて疑わない二人の姿に
羨ましい と思った。はっきりとそう思った。
捨てたはずだった。殺したはずだった。
でも生きてる。存在してる。
私じゃない、あの2人に。
鳴沢真由子
階下に降りて、 私が作った昼食を食べている柚月にそう聞いた。
食事の手を止め、柚月は頷いた。
鳴沢真由子
柚月
__私は、そう断言出来る人に出会えなかった。
だから柚月が そう答えた時 つっかえが無くなるような 不思議な感覚がした。
馬鹿ね。 本当に馬鹿だと思う。
鳴沢真由子
鳴沢真由子
鳴沢真由子
柚月
鳴沢真由子
馬鹿じゃないの
未だに盲信しちゃって。 本当に馬鹿だ。
______だけど悪くない。
あの時 殺したはずの私はまだ生きてた。
きっと殺しても死なないのね。
それならもう労力の無駄だから覆い隠すのはやめた。
柚月の学力を心配した夫が、あの大学生との仲を裂くように言ってきたわけだから
ミッションに失敗したことを適当に謝って 近所にぶちまけた作り話もとり消して___
やることが多い。 でも悪い気はしない。
たまには童心にかえるのも悪くない。
今夜も月が出るらしい。
私はもう、月を見ても綺麗だとは思えないけど
あの二人はたぶん
ずっと綺麗に見えるんだと思う。