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シーン1 ―― 水瀬家 リビング / 平日の午後

 白いカーテン。二人掛けのソファ。結婚記念日に買ったコーヒーメーカー。

 八年間、ここが真子の世界だった。

 テーブルの上に置かれたスマホには、既読のつかないLINEが一件。

 「今日、夕飯何がいい?」

 送ったのは三時間前だった。

真子

……また、返事こない

 チャイムが鳴った。

真子

はーい

俺。近く通りかかったから

真子

ちょうどよかった。上がって

お邪魔しまーす。缶コーヒー買ってきた

真子

ありがとう。コーヒーメーカーで入れようとしてたとこだった

被ったか。まあいいや。慶一さんは仕事?

真子

うん

ねえ真子、大丈夫?

真子

何が

顔。眉間にシワ寄ってる

真子

そんなに分かりやすい?

ずっとそうだよ。昔から。考え込んでるとき、絶対そうなる

真子

……やだな

慶一さんのこと?

真子

なんですぐそれを聞くの

だって顔がそう言ってるから

真子

……うん。慶一のこと

何かあった?

真子

あった、というか。ずっと気になってることがあって

聞くよ

真子

最近、帰りがすごく遅くなったの

残業じゃないの

真子

それだけなら気にしないんだけど。スマホを絶対に手放さなくなったの

手放さない?

真子

お風呂に持ち込む。寝るときも枕の下に置く。充電も自分でするようになった

まあ……防水だし、俺も風呂持ち込むけど

真子

慶一は今まで一度もしなかったんだよ

そうなの

真子

むしろ私が充電してあげてたくらいで。それが急に変わったの

いつ頃から

真子

半年前から

半年前に何か思い当たることは

真子

それが……特に何もなくて

LINEの返事は来てる?

真子

それも遅くなった。今日も三時間、既読すらつかなくて

忙しいのかもよ

真子

南は慶一の味方するんだね

味方とかじゃないけど、まだ確証ないんでしょ

真子

確証はない。でもね

でも?

真子

出張が増えたんだよ、週末の

増えたって、どのくらい

真子

以前は月に一回あるかないかだったのに、今は月三回くらい

それは多いね

真子

でしょ。それで一度、何気なく出張先の会社を聞いて、会社の取引先リストで調べてみたら

調べたの?

真子

年賀状のついでを装って慶一に見せてもらった。そしたら慶一が出張で行ったって言ってた会社の名前が、一つもなくて

真子

リストに存在しなかった

それは……さすがに

真子

ね。それで慶一に聞いたら、新規のクライアントだって言ってたけど

でも怪しい

真子

声に一瞬、間があったの

間?

真子

普通に答えるときってすぐ言葉が出るじゃない。でも一拍だけ、何かを考えるような間があった

考えすぎじゃない?

真子

八年間一緒にいたら分かるよ。慶一がどんなテンポで話すか。どんな顔で嘘をつくか

嘘をついたことがあるの、慶一さん

真子

付き合ってる頃に、仕事だって言って元カノに会ってたことがあった。そのときの顔に似てたの

……それはかなり昔の話でしょ

真子

癖って変わらないから

……他に気になることは

真子

職場の人で、気になる人がいる

真子

田端志保さんって人。三十三歳で、同じ部署の女性

会ったことあるの

真子

一度だけ。会社の飲み会で

どんな人だった

真子

きれいな人。頭もよさそうで。私とは全然タイプが違う

慶一さんの様子はどうだった、そのとき

真子

その人の話をするときだけ、名前を呼び捨てにしてた

呼び捨て?

真子

他の同僚は全員さんづけなのに、その人だけ「志保

って言ってた」

……それは気になるね

真子

でしょ。半年間、ずっと様子を見てきた。全部合わさったら、絵になるんだよ

絵?

真子

浮気してる人間の絵に

 南はしばらく黙った。

真子、どうしたいの。確かめたい?

真子

確かめたい。でも自分じゃできなかった

できなかった?

真子

先週の出張のとき、駅まで追いかけようとしたの。でも玄関出たら足が止まって

なんで

真子

怖くて

何が

真子

本当だったら、って思ったら。見てしまったら、もう元に戻れないから

真子……

真子

確かめなければ、まだ幸せなふりができるじゃない。でもそれって惨めなことだって分かってる

うん

真子

だから確かめたい。自分じゃできないけど

探偵、使えばいいんじゃないかな

真子

探偵

プロに任せれば確実だし、真子が動いて慶一さんにバレたら大変なことになる

真子

高いんじゃないの

ピンキリだよ。相談だけは無料のとこも多いし

真子

相談だけでもいいの

もちろん。どうするかはそれから決めればいい

真子

……そうだね

一人で抱えてたら顔に出るよ。もう出てるけど

真子

また眉間の話してる

事実だもん

真子

わかった。調べてみる

一緒に行こうか

真子

ううん、一人で行く。でもありがとう

何かあったらすぐ連絡して

真子

うん

……大丈夫だよ、真子

真子

うん。大丈夫

 南が帰った後、リビングに静けさが戻った。

 真子はスマホで検索した。

真子

……桐谷探偵事務所。相談無料、秘密厳守

 しばらく番号を見つめてから、発信ボタンを押した。

受付

はい、桐谷探偵事務所です

真子

あの……相談だけでもできますか

受付

はい、もちろんでございます。ご予約をお取りしましょうか

真子

お願いします。できれば早い方が……明後日は空いてますか

受付

午後二時からでしたらご案内できます

真子

じゃあそれで。水瀬真子と申します

受付

水瀬様ですね。お待ちしております

真子

ありがとうございます

 電話を切って、スマホを胸に当てた。

 深呼吸を一つ。

真子

(行くしかない)

シーン2 ―― 桐谷探偵事務所 応接室 / 二日後 午後2時

 雑居ビルの四階。すりガラスのドアに「桐谷探偵事務所」とあった。

 真子はドアを開けた。

受付

水瀬様ですね

真子

はい

受付

お待ちしておりました。こちらへどうぞ

 通された応接室は小さかった。白いテーブル、向かい合う椅子、観葉植物が一つ。

 しばらくして、男が入ってきた。

桐谷

お待たせしました。桐谷です

真子

水瀬真子です。あの……相談が初めてで、どうすればいいか分からなくて

桐谷

大丈夫ですよ。今日は話を聞くだけで構いません。お茶どうぞ

真子

ありがとうございます

桐谷

緊張してますか

真子

してます、すごく

桐谷

みなさんそうですよ。探偵事務所って来慣れる場所じゃないですから

真子

そうですよね

桐谷

では聞かせてください。今日はどんなご相談で

真子

夫の浮気を、調べてほしくて

桐谷

旦那さんの浮気調査ですね。今、疑いを持たれている状況ですか

真子

はい。確証はないんですが、半年前から様子がおかしくて

桐谷

具体的にどんな点が気になっていますか

真子

帰りが遅くなりました。以前は十一時には帰ってたのに、最近は日付が変わることも多くて

桐谷

他には

真子

スマホを手放さなくなりました。お風呂にも持ち込むし、寝るときも枕の下に置くようになって

桐谷

スマホを見せてもらったことは

真子

ないです。さすがに、そこまでは

桐谷

週末はどうですか

真子

出張が増えました。月三回くらい土日に出張があるんですが

桐谷

以前は

真子

月一回あるかないかで。それで出張先の会社を調べたら、夫の会社の取引先リストに名前がなくて

桐谷

ご自分で調べたんですね

真子

年賀状のついでを装って見せてもらいました

桐谷

なかなか冷静に動かれてますね

真子

全然。内側はぐちゃぐちゃです

桐谷

そうでしょう。奥さんが疑っていること、旦那さんは気づいていますか

真子

多分知らないと思います。表には出さないようにしてたので

桐谷

それはよかった。気づかれると調査が難しくなることがありますから

真子

そうなんですね

桐谷

旦那さんはどんなお仕事を

真子

商社です。営業職で外回りが多くて

桐谷

職場に、気になる女性の存在はわかりますか

真子

一人います

桐谷

どんな方ですか

真子

田端志保さんという、同じ部署の三十三歳の方です

桐谷

会ったことは

真子

一度だけ。会社の飲み会で

桐谷

そのとき旦那さんの様子はどうでしたか

真子

その方の話をするときだけ、名前を呼び捨てにしてました

桐谷

他の同僚は

真子

全員さんづけで呼んでたのに

桐谷

なるほど

真子

気のせいですかね

桐谷

気のせいかどうかは調べないと分かりません。ただ、奥さんは鋭いですよ

真子

鋭い?

桐谷

半年間、具体的な事実を積み上げて、それでも感情で動かずに様子を見ていた

真子

感情でしか動いてないですよ、内側は

桐谷

でも外側は冷静だった。それは強みです

真子

……ありがとうございます

桐谷

一つ確認させてください

真子

はい

桐谷

調査の結果、浮気が確認されたとして、奥さんはどうされるお考えですか

真子

まだ決められてないです

桐谷

決めなくていいです。ただ——真実を知ることと、今の生活を守ることは必ずしも両立しません。知ってしまったら元には戻れないこともある。それでも、知りたいですか

真子

……はい

桐谷

迷いはないですか

真子

迷いはあります。でも知らないまま生きていくことが私にはできない気がして

桐谷

わかりました。もう一つだけ聞いていいですか

真子

どうぞ

桐谷

最近、ご自身の行動で説明のつかないことはありますか

真子

……え?

桐谷

例えば、どこかへ行った記憶がない、とか。気づいたら時間が経っていた、とか

真子

それって……どういう意味ですか。私を調べるんですか

桐谷

そういうわけじゃありません。依頼者の方にも聞くようにしているだけで

真子

なんでそんなことを聞くんですか

桐谷

調査を進める中で、依頼者の方に関係する情報が出てくることがある。それだけです

真子

私に関係する情報、ですか

桐谷

あくまで可能性の話です。今の段階では何も

真子

……怖いですね

桐谷

怖いと感じるのは正常です。でも、知りたいと言ってくれましたよね

真子

はい

桐谷

なら、引き受けます

真子

お願いします

桐谷

こちらが契約書です。基本調査期間は二週間。対象者の行動確認と、接触相手の特定が主な内容です

真子

二週間

桐谷

途中経過はご報告します。最終的に報告書と証拠写真をお渡しします

真子

写真まで撮るんですね

桐谷

それが証拠になりますから。ただ、写真の内容によっては衝撃を受けることもある

真子

わかってます

桐谷

もし途中で怖くなったら、いつでも依頼を取り消せます。強制はしません

真子

取り消せるんですか

桐谷

いつでも。調査は奥さんのためのものですから

 真子は書類を手に取った。

 夫の名前、勤め先、住所を書きながら、少し手が震えた。

真子

……震えてますね、私

桐谷

大丈夫ですよ。震えたまま書いてください

真子

恥ずかしい

桐谷

全然。震えて当然の決断をしてるんだから

真子

桐谷さん、意外と優しいんですね

桐谷

よく言われます。だから損するんですよ

真子

……お願いします。夫を調べてください

桐谷

わかりました。二週間後に報告書を届けます

真子

よろしくお願いします

桐谷

一つだけ守ってください

真子

なんですか

桐谷

調査中は旦那さんに対して普通に接してください。何も知らないふりをして

真子

……できます。やります

桐谷

それで十分です

真子

ありがとうございました

桐谷

こちらこそ

 真子が部屋を出た後、桐谷は書類を見つめたまま動かなかった。

桐谷

(水瀬真子……)

 かすかに、眉をひそめた。

シーン3 ―― 水瀬家 自宅 / その日の深夜

 帰宅の音がしたのは、午前一時を過ぎていた。

 真子は布団の中で目を閉じたまま、息をひそめた。

真子

(普通に接する。何も知らないふりをする)

 廊下の足音。洗面台の水音。リビングの電気。

 真子は起き上がって、リビングへ向かった。

真子

おかえり

慶一

……起きてたのか

真子

ちょっと目が覚めて。何か食べる?

慶一

いい、外で食べてきたから

真子

そう。遅かったね

慶一

会食が長引いて

真子

大変だね

慶一

まあな

 慶一はネクタイを緩めてソファに座った。

真子

最近ずっと遅いね

慶一

忙しい時期だから。期末だし

真子

ちゃんと食べてる?

慶一

食べてる

真子

寝れてる?

慶一

寝れてるよ。真子こそ、眠れてるか?

真子

まあまあ

慶一

顔色悪いぞ

真子

そう?

慶一

なんかあった?今日

真子

ないよ。なんで

慶一

なんか……雰囲気が違う気がして

真子

気のせいだよ。眠れなかっただけ

慶一

そうか

 沈黙が流れた。

 以前は、この沈黙が苦にならなかった。でも今は違う。沈黙の中に、何かが隠れている気がして仕方がない。

真子

慶一

慶一

うん

真子

今週末また出張?

慶一

……ああ。土曜日に大阪で打ち合わせがある

真子

何時に出るの

慶一

朝一の新幹線だから七時には出ると思う

真子

わかった。ちゃんと行ってらっしゃいって言いたかったから

慶一

……そうか

 慶一がスマホを出した。画面を確認して、すっと伏せる。

真子

ねえ

慶一

うん

真子

最近、帰ってきてもあんまり話さなくなったよね

慶一

疲れてるんだよ。仕事で話しすぎて、帰ったら頭使いたくない

真子

そっか

慶一

真子だって疲れるだろ。俺に気使わなくていいから

真子

気使わなくていいって……話しかけないでほしいってこと?

慶一

そんな意味じゃない。気楽にしてていいってこと

真子

ごめん、変に受け取った

慶一

もういいから、早く寝ろよ

真子

うん

慶一

明日も何か予定あるの

真子

特にない

慶一

そうか

真子

慶一は明日

慶一

普通に仕事

真子

何時に帰れそう?

慶一

分からない。遅くなるかも

真子

また遅くなりそう?

慶一

……仕事だから仕方ない

真子

そうだよね

慶一

なんで今日そんなに聞くんだ

真子

別に。ただ聞きたかっただけ

慶一

なんか、変だぞ今日

真子

変?

慶一

なんかいつもと違う。目が、違う気がする

真子

そんなことないよ

慶一

……ま、いいか。寝るぞ俺

真子

うん。ねえ慶一

慶一

なんだよ

真子

今でも私のこと、好き?

 慶一が止まった。

 一秒、二秒、三秒。

慶一

……何いきなり

真子

なんとなく聞きたくなった

慶一

好きだよ。当たり前だろ

真子

そっか

慶一

お前こそ俺のこと好きか

真子

……好きだよ

慶一

なんで間があった

真子

眠くて頭が回らなかっただけ

慶一

……そうか。早く寝ろ

真子

おやすみ

慶一

おやすみ

 寝室に戻って布団に入った。

 暗い天井を見上げながら、さっきの慶一の顔を思い出す。

 「好きだよ」

 三秒の間があった。

 本当のことを言ったのか、嘘をついたのか。

 そして自分は——

真子

(私は本当のことを言ったんだろうか)

 リビングで慶一がスマホを操作する気配がした。

 素早い。誰かに何かを送っている。

 枕の下にスマホを滑り込ませる音がして、慶一がベッドに入ってきた。

 背中合わせになった。

 八年間、隣にいた人間。

 こんなに遠く感じたことは、なかった。

真子

(二週間後、全部分かる)

 桐谷の言葉が浮かんだ。

 「調査を進める中で、依頼者の方ご自身に関係する情報が出てくることがある」

 あの言葉の意味は、何だったのか。

 私に関係する情報。

 私に——

真子

(気にしすぎ。慶一を調べるんだから、関係ない)

 時計が午前二時を指した。

 真子は目を閉じた。

 二週間後、すべてが分かる。

 そのとき真子はまだ、報告書に写っているのが自分自身だとは——夢にも思っていなかった。

『鏡の中の罪人』     ― 探偵を雇ったら自分が映っていた ―

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