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#ハッピーエンド
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意識が、途切れかけた——その瞬間。
代わりに、別の景色が立ち上がった。
今度の家は「隠居した冒険者」の家だと、誰かが言っていた。
何軒目か、もう数えるのをやめて久しい。背中の荷は軽い。大きな荷物もない。玄関に立つ間、迎える側の笑顔を待つ癖だけが、もう動かない。
古びた木の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
「初めまして。俺はダリウス」
扉の向こうに現れた男は、噂の“こわい冒険者”とは違う服を着ていた。鎧ではなく、くたびれたシャツ。袖口は擦れていて、肩の線だけがやけに厚い。立ち姿はまっすぐなのに、重心がわずかに沈んでいる。長く歩いてきた足の置き方だ。
ミラの視線が、そこで止まった。
(この人……)
目だ。
笑う形を作るのに、口角は上がる。けれど、瞳の奥が動かない。鏡の前で自分がやっていたそれと、似ていた。笑う練習をしたときの、あの感じ。
(……あ、同じだ)
そう思った途端、胸の内側が少しだけゆるむ。息が、ひとつ奥まで入った。
「……腹は減ってるか?」
問いかけは、整っていない。探りながら投げた言葉みたいに、音が少し揺れていた。
ミラの喉の奥がきゅっと痛む。いつもなら「減ってない」と返す。返して、終わらせる。それが癖になっていた。なのに、その癖が舌先で止まった。
「……うん」
ぽとり、と言葉が落ちる。
ダリウスが一瞬だけ目を丸くした。次に、困ったように頭をかく。指先が髪を掻き、すぐ離れた。
「そっか。……ちょっと待ってろ」
台所らしき方へ引っ込み、どたん、と鍋か何かを落とす音がした。続いて、カチャカチャ、と食器がぶつかる。一定のリズムにはならない。不器用に、急いでいる。
やがて、湯気と一緒に匂いが来た。湯の匂い。煮えた野菜の匂い。焦げも香辛料も強くはない。
「……スープ。熱くないか?」
差し出された木の椀を、ミラは両手で受け取った。指先に、木のざらつき。椀の縁が、少し湿っている。
見た目は本当に質素だ。細かく刻まれた野菜と、少しだけ肉。塩気も控えめ。香辛料の粒は見当たらない。
口に運ぶ。舌に触れたとき、まず温度が来る。喉へ落ちていく途中、胸の奥がじん、と反応した。味の強さではない。身体のほうが勝手に、受け取った。
(……変な味)
ミラはスプーンを見つめた。スプーンの先に残る白い膜。油でもない。塩でもない。何かが薄く残っているだけだ。
二口目。飲み込んだあと、喉のあたりがじんわりとあたたかい。腹が落ち着くのが先に来る。派手な旨味ではないのに、身体が「もう一口」と言っている。
ダリウスの背中が、鍋の前で小さく動く。鍋をかき回しては、こちらを一度だけ見て、すぐ目を逸らす。椀を持つミラの手元を確認するみたいに、視線が一瞬だけ落ちる。口は何も言わない。肩が、わずかに上がって、下がった。
(大人なのに……)
ミラは、息を鼻から吐いた。大人のはずなのに、余裕がない。けれど、その余裕のなさが、そのまま手の動きに出ている。
「……おいしい?」
気づけば、声が来ていた。
ミラは顔を上げる。ダリウスの笑顔は相変わらずぎこちない。けれど、さっきより目がこちらに残っている。逃げないで、答えを待っている。
「……うん」
今度の「うん」は、腹の具合でも、気遣いでもなかった。喉が勝手に動いて出た言葉だった。
ダリウスの肩が、ほんの少し下がる。息が抜ける音が、短く聞こえた。
その瞬間、ミラは自分の足が床にちゃんと乗っているのを感じた。玄関に立ったときの、あの硬さが、少し薄くなっている。
*
視界の端が暗く滲み、膝から力が抜けかけたその瞬間。
(……スープ、熱くないか?)
脳裏に、あの拙い笑顔と、薄味なのにやけにあたたかいスープの匂いが、鮮やかに蘇った。
沈みかけた意識が、そこで踏みとどまる。
「……ッは……」
肩が大きく震えた。息が喉にひっかかる。胸が一度、つかえるみたいに詰まって、それから空気が入った。足裏が床を探し当て、ぐっと踏める。
ミラはゆっくり顔を上げる。瞳の焦点が戻るまで、瞬きが二回。
「パパも……ママも——助けない!!」
自分の口から出た音に、自分で驚く。胸が跳ね、次の言葉が喉に詰まりかける。それでも、舌が前に出た。
「私は、今を……未来を生きてる!!
私の過去は、私のもの! なかったことになんか——しない!!
絶対に!!!」
叫ぶと、胸の奥がずしりと揺れる。吐いた息が熱い。喉が痛い。けれど、足は前にいる。
治療台の上で、父と母が苦しげに息を吸い、吐く。かすかな声で、誰かの名前を呼んでいる。周囲の魔術師は詠唱を切らさない。治癒術師は汗をぬぐう暇もなく祝詞を重ねる。布を替える手が止まらない。
ミラは、息を飲んだ。次に来るものが分かる。分かってしまう。
もう、間に合わない。
視線をそらしたくなる。耳を塞ぎたくなる。背を向けたら楽だと、身体のほうが知っている。
でも。
「……ごめんね……」
唇を噛む。涙が頬を伝う。拭わない。両手は握ったまま、指の付け根が白い。
父の胸が大きく上下して、ひとつ長い呼気を残して止まった。母の指先が虚空を探り、何かを掴む形のまま、力なく落ちる。
ミラは、まっすぐに見ていた。
目を逸らさない。瞼も閉じない。涙だけが落ちる。爪が掌に食い込む。痛みで指が緩むのを拒むように、さらに握る。
(……ごめん。
でも、私は——ここで止まらない)
胸の奥で、同じ言葉を何度もなぞる。あの日の自分のままではないと、いまの自分の身体で示す。
無機質だったはずの声が、今度はほんの少しだけ調子を変えて響いた。
「面白い選択だね。
——合格だ。おめでとう」
ミラは涙で滲んだ視界のまま、ぐしぐしと目元を拭った。指の腹が熱い。まぶたが腫れているのが分かる。
悔しさも、悲しさも残っている。喉はまだ詰まる。それでも、胸の奥で一つだけ、歯車が噛み合った感触があった。
*
真っ白な空間に、ふっと色が戻った。
中央の台座がまばゆく光り、その光が静かにしぼんでいく。そこに、ぐらりと膝を揺らしながら、ミラが姿を現した。
「ミラ!」
真っ先に駆け寄ったのはダリウスだった。肩をがしっとつかみ、上から下まで視線を滑らせる。指が腕の外側を一度なぞり、肩口で止まる。
「どうだった、ミラ。大丈夫か!?」
ミラは少しだけまぶしそうに目を細めた。瞼の縁に、乾ききっていない涙の跡が残っている。
「うーん……」
言いかけて眉間にしわを寄せる。額の奥を探るみたいに目が動く。
「ちょっと……覚えてない。
でも——大丈夫……」
笑顔は小さい。けれど、作り笑いの角度ではない。呼吸が落ち着く方向へ向いている。
ダリウスが、ようやく息を吐いた。肩がすとんと落ちる。
「……そうか。なら、いい」
短い言葉に、溜めていたものが詰まっていた。
と、その時。
ぐぅうううううぅ、と、とんでもない音が白い空間に響き渡った。
全員が一斉にミラを見る。
「……えへへ」
ミラはお腹を押さえ、頬をぽりぽりかきながら、急に元気いっぱいの声を上げた。
「お腹減ったー!!
なんだか久しぶりに、ダリウスのスープが食べたい!!」
その“久しぶりに”で、ダリウスの喉が一度だけ鳴った。指が袖口をつまみ、離す。ミラは笑っている。目がちゃんと笑っている。
「よし——久しぶりに作るか」
ダリウスは袖をくいっとまくり上げた。
「おっ、いいな!」
オットーが腹をぽん、と叩いた。勢いはわざとらしいほど明るい。けれど、声が出るだけで場が少し軽くなる。
ミラはダリウスの横顔を見上げて、にっこりと微笑む。
「昔の、味薄のスープね!」
その言葉に、一人だけ眉をひそめた男がいる。
「……ん?」
エドガーが小さく首をかしげた。
「ダリウス。そんな“薄味のスープ”なんて、作ったことありましたか?」
ダリウスは答えようとして、動きを止めた。口が少し開いたまま、視線が宙で止まる。指先が、何かの取っ手を掴む形を一瞬つくって、すぐほどけた。
「……あれ、難しいんだよな」
ぽつりと呟く。目は遠い。けれど、眉間の力は抜けている。
ミラは何も言わない。ただ、唇の端を少し上げて笑った。目の奥が、さっきより落ち着いている。
台座の光はすでに消え、真っ白だった世界に、次の階層への扉が浮かび上がる。
誰も振り返らない。足音がそろう。革靴の音、鎧の擦れる音、布が揺れる音。小さな差があるのに、同じ速度で進む。
ダリウスが先頭に立ち、オットーが肩を回しながら続き、エドガーが小さく息を吐きつつも、その背を追う。一番後ろでミラが、ぎゅっとネックレスを握りしめて、三人の背中を見つめる。
「……行こっか」
小さな呟きは、誰の耳にも届かない。けれど四人の足取りは、不思議と同じリズムを刻んでいた。
こうして彼らは、また一歩。
振り返らずに、前へと進んでいく。