テラーノベル

テラーノベル

テレビCM放送中!!
テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

晃司が部屋を出ていくと、空気が少しだけ動いた。扉が閉まる音はしなかった。

閉める必要もないのだ。

遥が逃げることは、誰も疑っていない。


怜央菜は何も言わず、ソファに腰を下ろした。

テレビをつけるでもなく、指先で髪を弄びながら、

「今夜は静かね」とだけ言った。


颯馬が洗面所から戻り、

濡れたタオルを折りたたんで、遥の前に置く。

その手つきには、奇妙な丁寧さがあった。


「拭いとけよ」


声音は柔らかいのに、拒むことを許さない温度だった。


沙耶香が二階から降りてきた。


「終わった?」


「うん」


怜央菜が短く答える。


「じゃあ、次は明日ね」


その一言が、何よりも静かに刺さった。


──明日も、ある。

今日の続きが、明日も。

そのことを、誰も隠そうとしない。


遥は床に手をついたまま、ゆっくりと体を起こした。

背中が壁に当たる。

そこが唯一、安全な面のように思えた。


手のひらに触れた床は冷たい。

けれど、どこか“自分の熱”が染みついている気がして、離せなかった。


「……ごめんなさい」


誰に向かって言ったのか分からない。

返事はない。

ただ、怜央菜が小さく鼻で笑った。


「謝るなら、最初から怒らせなきゃいいじゃない」


怒っていたのは誰だったのだろう。

晃司は怒っていなかった。

怜央菜も沙耶香も、苛立ちひとつ見せていなかった。

なのに“怒り”という言葉だけが、当然のように使われる。

それが、この家の“秩序”なのだと、遥は知っている。


廊下の奥、壁にかけられた時計が秒を刻む。

その音が、やけに大きく響く。

まるで、心臓の鼓動と競い合っているようだった。


──昔も、こうだった。

小学校の頃、晃司に押し倒され、息ができなくなった夜。

そのあとも、何事もなかったように食卓に並んでいた。

沙耶香が箸を置く音、母の笑い声。

怜央菜がテレビを見ながら言った、「静かにして」の一言。

あのときから、何も変わっていない。


呼吸を整えようとした瞬間、腹の奥が軋んだ。

内側から痛みが広がる。

熱いのに、血の気が引いていく。

痛みのかたちが、記憶を呼び覚ます。


──教室の床。

笑い声。

乾いた足音。

水の跳ねる音。

「また明日」と言って出ていった声。


どちらが現実で、どちらが記憶なのか、もう分からなかった。


ゆっくりと立ち上がる。

体の重さが、重力よりも心にのしかかっている。

部屋の隅に置かれた鏡の前で、遥は自分の顔を見た。

腫れた頬の奥に、誰の表情も映っていない。


──自分が誰かの“確認のため”に生きている。


その事実だけが、確かなものとして残っていた。


沙耶香が階段を上がる足音が遠ざかっていく。

その音に合わせて、遥は深く息を吐いた。

もう痛みは感じなかった。

ただ、身体の奥で、明日の痛みを受け入れる準備だけが進んでいく。



loading

この作品はいかがでしたか?

43

loading
チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚