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晃司が部屋を出ていくと、空気が少しだけ動いた。扉が閉まる音はしなかった。
閉める必要もないのだ。
遥が逃げることは、誰も疑っていない。
怜央菜は何も言わず、ソファに腰を下ろした。
テレビをつけるでもなく、指先で髪を弄びながら、
「今夜は静かね」とだけ言った。
颯馬が洗面所から戻り、
濡れたタオルを折りたたんで、遥の前に置く。
その手つきには、奇妙な丁寧さがあった。
「拭いとけよ」
声音は柔らかいのに、拒むことを許さない温度だった。
沙耶香が二階から降りてきた。
「終わった?」
「うん」
怜央菜が短く答える。
「じゃあ、次は明日ね」
その一言が、何よりも静かに刺さった。
──明日も、ある。
今日の続きが、明日も。
そのことを、誰も隠そうとしない。
遥は床に手をついたまま、ゆっくりと体を起こした。
背中が壁に当たる。
そこが唯一、安全な面のように思えた。
手のひらに触れた床は冷たい。
けれど、どこか“自分の熱”が染みついている気がして、離せなかった。
「……ごめんなさい」
誰に向かって言ったのか分からない。
返事はない。
ただ、怜央菜が小さく鼻で笑った。
「謝るなら、最初から怒らせなきゃいいじゃない」
怒っていたのは誰だったのだろう。
晃司は怒っていなかった。
怜央菜も沙耶香も、苛立ちひとつ見せていなかった。
なのに“怒り”という言葉だけが、当然のように使われる。
それが、この家の“秩序”なのだと、遥は知っている。
廊下の奥、壁にかけられた時計が秒を刻む。
その音が、やけに大きく響く。
まるで、心臓の鼓動と競い合っているようだった。
──昔も、こうだった。
小学校の頃、晃司に押し倒され、息ができなくなった夜。
そのあとも、何事もなかったように食卓に並んでいた。
沙耶香が箸を置く音、母の笑い声。
怜央菜がテレビを見ながら言った、「静かにして」の一言。
あのときから、何も変わっていない。
呼吸を整えようとした瞬間、腹の奥が軋んだ。
内側から痛みが広がる。
熱いのに、血の気が引いていく。
痛みのかたちが、記憶を呼び覚ます。
──教室の床。
笑い声。
乾いた足音。
水の跳ねる音。
「また明日」と言って出ていった声。
どちらが現実で、どちらが記憶なのか、もう分からなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
体の重さが、重力よりも心にのしかかっている。
部屋の隅に置かれた鏡の前で、遥は自分の顔を見た。
腫れた頬の奥に、誰の表情も映っていない。
──自分が誰かの“確認のため”に生きている。
その事実だけが、確かなものとして残っていた。
沙耶香が階段を上がる足音が遠ざかっていく。
その音に合わせて、遥は深く息を吐いた。
もう痛みは感じなかった。
ただ、身体の奥で、明日の痛みを受け入れる準備だけが進んでいく。