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私は有栖川郁太郎──ここではそう名乗る。
名というものは、湿度に弱い。
乾いた部屋ではよく響くが、空気が重たくなると自重で沈みはじめ、やがて舌に貼りついて言い澱む。雨の季節に、私は川沿いの古いアパートにいた。正確には、いたことにしている。私がそこで何をしていたのか、はっきりとした肩書はない。管理人の手伝い、と誰かに説明した気がするし、ただの短期の住み込みだった気もする。はっきりしているのは、館内の鍵束の重さと、湿気の層が複数の高さに折り重なっていたことだけだ。
アパートは三階建てで、外壁は灰色の塗装が剥げ、下地のコンクリートが雨に濡れて暗い地図のような模様を作っていた。
廊下は狭く、天井は低い。壁紙は小さな花柄で、ところどころ泡を含んで膨らみ、針で刺せば、さっと息を吐くように水がにじんだ。梅雨の匂いは生き物に似る。甘く、ひどく疲れている。
住人は少ない。
夜勤明けでいつも目の下に影を落としている看護師。仕立屋をやめてから物を直して暮らす男。ヴァイオリンを練習する若い女。じっと廊下の端を見つめる未亡人。部屋番号を指でなぞりながら歩く学生。そして私。
私は彼らを知らないはずだったが、鍵束の感触と同じくらい彼らの生活の時間帯を知っていた。洗濯機の回る音の時刻。ポットの湯が沸く周期。排水の喉が鳴る癖。そういうものは、名よりよく人を教える。
最初の異変は、壁が呼吸を始めた夜だった。
言い換えよう。壁紙が、わずかに膨らみ、沈む。それ自体は湿気の多い建物では珍しくない。だが、膨らみのリズムが規則を持っていた。規則は脈だ。私は手の甲を壁に当て、その脈を数えた。哀しいことに、人の脈に似ていた。哀しいのは、似ているだけで同じではないからだ。
匂いも変わった。
ふだんの甘い疲れとは違い、砂糖湯に古い木片を沈めて数日放置したような、ほのかに金属の縁を持つ甘さ。私は鼻でその匂いの高さを測り、廊下の一番低い場所がどこかを確かめた。低い場所には水が集まる。水は音を育てる。
「換気扇は朝だけ」と貼り紙にあった。
電力の節約のためらしかった。私はそれを守ったのか、破ったのか、もう覚えていない。ただ、鳴り始める羽根の音が、ある朝から別の音を連れてきたのは確かだ。
その音は、隙間に住むものの出す声音に似ていた。排気口の奥で、濡れた布がゆっくりと擦れる気配。言葉より先に湿度があり、湿度より先に温度がある。
失踪は、発見より遅れて知られる。
最初にいなくなったのは学生だった。部屋には教科書が広げたままで、扉は内側から鍵がかかっていた。窓の外には川。川沿いの風は魚の腹を思わせる匂いを運ぶ。鍵は、私の鍵束では開いた。開くべきでない時刻に扉を開ける仕事を、私はいつから自分のものにしたのだろう。部屋は乾いていた。いや、乾いてはいなかった。ただ、湿りが均されていた。均された湿りは、音を飲み込む。
二人目はヴァイオリンの女だった。
彼女の部屋を通り過ぎると、いつもE線がわずかに高く揺れていた。チューニングの癖だ。ある夜、音が止まった。止まること自体は珍しくない。だがその夜は、止まったあとに、さらに別の音があった。木材が内側から押されて鳴る、浅い呻き。私はその音を壁の線に沿って追い、配電盤の下で耳を立てた。壁の裏に空気の袋がある。袋は呼吸をする。呼吸があるなら、名がある。名は呼べない。
私は管理人室で台帳をめくった。
入居日、退去日、家賃、修繕履歴。紙の端には、鉛筆で挟み込まれた小さなメモ。「窓は閉めて寝ること」「夜間の換気扇は回しすぎないこと」「濡れたものを壁に立て掛けないこと」。当たり前の注意のようでいて、その順番は何かを守ろうとしている。何か、とは何か。私はそこに名前を与えない。
三人目がいなくなる前夜、廊下の電灯が点滅した。
雨は強く、川は音を太らせ、橋の下がうなる。電灯の白は冷たく、壁紙の青い花柄を疲れさせた。花柄のふくらみは、今や脈を持ち、呼吸は廊下全体に広がっていた。私は耳を当て、次に額を当て、最後に鼻を当てた。湿りは匂いで方向を示す。匂いが最も濃く集まる場所は、角だ。角は、何かを隠すようにできている。
仕立屋あがりの男が、廊下で立ち止まって私に言った。
「夜が濡れすぎてる」
妙に当たり前の言葉だった。私は頷いた。男はエレベーターのない階段をゆっくりと上がり、足音を一段ごとに置いていった。その夜、彼はいなくなった。部屋には布切れが置かれ、針山の上に針が一本だけ刺さっていなかった。欠けは目立つ。欠けは、呼吸に似る。あるべきものがないと、音が変わる。
私は、壁の裏側の図をよく知っていた。
配管の曲がり。排気ダクトの分岐。梁の隙間。どれも、許可されないほど正確に知っていた気がする。だがその知識は、役に立たなかった。立たなかったことにしておく。私がしたことは、耳を澄ませることだけだ。耳は壁の上に置くと、すぐに濡れる。濡れた耳は、少しだけよく物事を受け入れる。
四人目は、未亡人だった。
彼女はいつも廊下の端を見つめていた。何を見ているのか、誰も尋ねなかった。問いは、水を濁す。誰も濁りを望まなかった。彼女の部屋は角だった。角の部屋は、呼吸を二倍持つ。私は角の片方に耳を当て、もう片方の角に左手を伸ばし、指で壁紙の泡を潰した。そこに、たしかに温度があった。温度の正体について、私は書かない。
ある夜、鍵束の数がひとつ増えているのに気づいた。
金属の色は、他と違って少し青い。歯の切れ方に癖がある。何の鍵だろう。私はそれを回すふりをして、回さなかった。回していないふりをして、回した。記憶は、鍵のようにねじれて残る。ねじれた記憶は、真っ直ぐな罪より扱いやすい。
五人目は看護師だった。
彼女の部屋のコップには、濁りの輪が二重についていた。外側の輪は古く、内側は新しい。二重の輪の間に薄い影があった。影は湿りの居場所を示す。私は台所の床に膝をつき、排水口の金属格子に指を置いた。網目の向こうに、夜が流れている。流れは匂いを連れてくる。匂いは、もう甘くなかった。甘さの縁に、鉄が増えていた。鉄は、湿度の中でよく鳴る。
私は夢を見た。
壁紙の花柄の一枚一枚が肺胞になって、収縮を繰り返す夢だ。花は薄く、やわらかく、そこに押し当てられた掌の温度に敏感だった。夢の中で、私は名を呼ばれた。もちろん、ここで使っている名ではない。あの名は湿度に弱い。呼ばれるとすぐに溶けて、喉に張りつく。私は喉を叩いた。叩いた音が、現実の廊下に響いた。
私は、何もしていない。
そう書いておくことに、どれほどの価値があるだろう。
扇風機を回したのか、止めたのか。窓を閉めたのか、開けたのか。換気扇の時間を守ったのか、無視したのか。廊下の角の泡を潰したのは誰か。鍵束の青い鍵を回したのは誰か。誰も見ていない。見ていないことが、証拠をつくる。
雨は続き、川は太り、橋の下が低く唸る日が増えた。
ある朝、壁紙の花柄のひとつがはっきりと色を変えていた。青から、灰緑へ。灰緑は腐草の色だ。指で触れると、花は呼吸を止めた。私は廊下の電灯を消し、暗闇で耳だけを残した。呼吸は続いている。壁の裏側で、ゆっくりと。ゆっくりと、だが確かに。
最後にいなくなったのは、仕立屋でも看護師でも未亡人でもなく、もうひとりの私だったのかもしれない。
鏡を見ると、湿気の曇りに、自分の輪郭が滲んでいた。輪郭が滲むと、名が遠のく。名が遠のくと、罪は軽くなる。軽くなった罪は、長く続く。
私は鍵束を机の上に置いた。鍵はどれも冷たい。青い鍵は、他より冷たかった。金属の温度は、その金属が触れてきたものの記憶を帯びることがある。ある、とだけ書いておく。
私はアパートを出た。
川沿いの風は重たく、橋の下の声は低かった。背後で、壁がゆっくりと息を吐いた気がした。吐かれた息は湿って、私の首筋に重く乗った。振り返らなかった。振り返ると、名が呼ばれる。呼ばれた名は、ここに書かれていない名だ。
その後、どの部屋が空室になったか、私は知らない。
知っているかもしれない。
机の引き出しの奥に、巻いたままの壁紙の一片がある。花柄は青から灰緑へ薄く移ろい、指で押せば、まだ、わずかに沈む。耳を寄せると、何かがそこにいる気配がする。気配は、音になる前の湿度だ。私はその湿度を紙で包み、封をした。封のやり方が正しいかどうか、私にはわからない。正しさは、湿度で変わる。
ここまで書いて、何を告白したのかと問われれば、私は言葉を選ぶだろう。
壁は呼吸をしていた、と。
私は耳を当てた、と。
鍵束に青い鍵が混じった、と。
それ以上は、湿りすぎる。湿った言葉は、すぐに黴びる。黴びた言葉は、真実より早く、読者の舌に貼りつく。貼りついた言葉を、私は責任を持って剥がすことができない。
最後に、念のための一文を置く。
この独白は、過去の自分にまつわるもので、ここに現れる名も場所も人も、現実には存在しない。
ただ、壁が呼吸をし、湿度が名を鈍らせ、鍵が青く冷たかったという記憶だけが、私の中で乾ききれずに残っている。乾かないものは、罪に似る。罪は、どうしても、少しだけ、甘い。