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私は有栖川郁太郎──だが、この話をしている間は、あの頃の年齢のままでいる。思い出す、というより、まだそこに立っている気がするのだ。靴の底に入り込んだ乾いた土の粒の感触。背中に背負ったランドセルの、金具の冷たさ。あの頃の空気は、呼吸の仕方まで別物だった。
私が小学四年の頃、町外れにひとつの廃屋があった。
道路から少し離れた場所にぽつんと建ち、周囲は空き地と低い雑草に囲まれていた。元は商店だったらしい。錆びた看板には、かつての店名の影がうっすらと残っていたが、何と書かれていたかはもう判別できなかった。
正面のガラス窓はほとんどが割れ、木の枠はひび割れ、塗装は剥げ落ち、湿った風を吸い込んで軋んでいた。中には商品棚がいくつも残されていたが、どれも埃をかぶり、ガラス瓶や古びた紙箱が並んでいる。ラベルは色を失い、印刷された顔や文字は溶けたように滲んでいた。
昼間でも中は薄暗く、光は細く、埃の中に埋もれて消える。
しかし夕方になると、状況は一変した。
西側の空き地越しに差し込む夕日が、室内を赤く満たす。赤はただの色ではなく、空気そのものを染める液体のようだった。舞い上がった埃の粒子が赤を吸い込み、ひとつひとつが透き通った血のしずくに見えた。棚の影は長く伸び、床をゆっくりと這い、私たちの足元を覆った。
私には、さえという幼馴染がいた。
同じ学年で、私より少し背が低い。笑うときの声は高く澄んでいたが、笑う前の目だけは不思議と冷めていた。
廃屋は、私とさえだけの秘密の遊び場だった。
放課後、互いにしかわからない合図で集合し、外からは見えない裏口から入り込む。中の奥にある小部屋──物置だった場所──が私たちの“基地”だった。段ボール箱や古びた木箱を並べ、椅子代わりにして話をした。埃の匂いと、木が湿る匂い。それらは二人だけの所有物だった。
ある日のことだ。
空は雲ひとつなく、夕焼けは赤いというより濃い朱色だった。
廃屋に向かう道を歩くにつれ、地面や草むらまでもが赤く染まり、影は紫がかって伸びていた。
その日、空き地から廃屋へ差し込む光は、いつもより重く、粘り気を帯びているように感じた。まるで空気の中に赤い水が満たされ、それを押し分けながら進むような感覚だった。
裏口から中へ入ると、すぐに違和感があった。
匂いが変わっていた。普段の埃っぽい乾いた匂いに、何か湿った甘さが混ざっていた。それは果物の腐る寸前の匂いにも似ていたし、雨に濡れた木の匂いにも似ていた。
床板は少し沈み、踏むと下から柔らかい反発が返ってきた。
赤い光は、いつものように埃を照らすどころか、埃を沈めてしまうほど濃かった。光自体が粒になり、漂っているように見えた。
「こっち、見て」
さえの声が、小部屋の奥から聞こえた。
笑っているような、けれど呼吸が早いような、不思議な響きだった。
私はすぐには動かなかった。足を踏み出す瞬間、なぜか心臓がひとつ打ち損ねた気がしたからだ。
一歩進むごとに、赤が深くなっていく。空気が厚くなり、喉に絡みつく。
小部屋の入り口に近づいたとき、一瞬、何かが光の中を横切った。
それは形を持っていないはずなのに、確かにそこにあった。
赤い粒子が、その“何か”の輪郭だけを残して流れ落ちていく。
中でさえがしゃがみ込み、何かを見つめていた。その視線が私に移った瞬間、赤い光はさらに濃くなり、床から壁まで滲んだように揺れた。
そこから先の記憶は途切れている。
気がつくと、私は廃屋の外に立っていた。背中に夕日を受け、長く伸びた影が地面を割るように走っていた。
息は乱れていなかった。手も震えていなかった。
ただ、足元の土に小さな赤い染みがあった。それが何なのか、当時の私も今の私も、言葉にしたことはない。
振り返ると、廃屋の窓から赤い光が流れ出していた。
その赤は夕日というより、室内そのものが発しているように見えた。
さえの姿はなかった。
数日後、町ではさえの姿が見えないと噂になった。
大人たちは廃屋を調べたが、何も見つからなかった。
私は何も聞かれなかった。聞かれないということは、答える必要もないということだった。
それ以来、廃屋は立ち入り禁止になったが、私の中では、あの日のまま存在している。
あれが、私にとって最初の“消失”だった。
あの日から、赤い光はただの光ではなくなった。
だから今でも、赤い色を見ると落ち着くんだ。
あれは私にとって、帰り道の色だから。
……そういえば、あんたも赤い色が似合いそうだな。