病室の中には唯以外の人間も居る事は既にわかったので、「失礼します」と言いながら引き戸を開けて中へ入る。
「悪い、遅くなって。大丈夫だったか?唯」
病室の中を見渡すとベッドが一つしかなかったので、唯は個室の病室をあてがわれたみたいだ。
ベッドの上、枕を背にした状態で脚を伸ばして唯が座っている。それと、彼女のバイト先である『火の屋』の店長の姿が見えた。その周囲には数人の見覚えがある店員が立ち、唯の一番近くには、『火の屋』に行く度に、結婚した今でも、俺を敵対視してくる男の店員がベッドに腰掛けて唯に寄り添っていた。
さっきまで笑っていたというのに、病室に居る奴らは俺が入ってきた途端に急に黙り込み、感情の読み取り難い表情でこっちをチラチラと見てくる。
いつも俺を敵対視してくる男だけが少し勝ち誇った様な顔をしていて、『唯の夫』である俺が来ても、唯の傍から離れない事にかなり腹が立った。
無言で、俺に向かいペコッと頭を下げる唯の顔には表情が固い。周囲の様子のせいか心に少し焦りが出てくる。
(何だ?この違和感は…… )
「唯、傷は深いのか?どうして怪我を?」
包帯を頭に巻き、痛々しい姿でベッドに座る唯の詳しい容態と経緯を早く知りたくて、早く傍に行きたくて、数歩前に歩いた時。違和感の答えを彼女に突き付けられた。
「…… すみません、誰かのお知り合いですか?」
周囲にチラッと視線をやりながら、唯が言った。
「 …… 」
前にも聞いた事のある様な言葉に、足が止まる。時間が止まったような、遡る様な、変な感覚が身体を走った。
「イヤだな唯先輩、本当に忘れちゃったんですね」
場違いな笑顔で、敵対視してくる男が唯に言った。
「…… 何を、言って——」
唯に近づこうとした時、不意に肩を力強く掴まれ動きが阻まれた。『誰だ?』と思いながら勢いよく後ろに振り返ると、そこには宮川の姿が。
「悪い、ちょっと廊下で話そう」
「内科医のお前がどうしてここに?」
「いいから、とにかく今は外に出るんだ」
宮川はそう言うと、俺の腕を力強く掴み、病室のドアを開けて廊下へと引っ張って行った。
「どこに行くって言うんだ?」
腕を引かれたままずんずんと先に進む宮川に訊いても、「煩い、寝てる患者を起こす気か?」と小声で言うだけで、欲しい答えが返ってこない。
仕方なく黙ったまま、引かれるままに宮川に着いて行く。しばらくすると、休憩所と思われる、飲み物やカップラーメンの販売機がずらっと並んだコーナーにまで連れて来られた。
「ここなら少しくらい話しても平気だ」
そう言うと、宮川は俺の腕を離し、白衣のポケットから小銭入れを取り出した。
「何飲む?残念ながら酒は無いが、おごるぞ」
「いらない」
「そうか、じゃあコーヒーでいいな」
いらないと答えたのに、流される。ホットの缶コーヒーを二本買い、宮川は側にある長椅子に腰掛けると、前にあるテーブルの上にそれを一本置いた。
「…… いらないと言ったはずだが」
「俺のおごりなんて滅多にないんだ、受け取るだけでも受け取っておけ。今は飲みたくないなら、持って帰って後日飲むといい」
「…… わかったよ、ありがとう」
ため息混じりにそう答えると、俺も宮川の座る長椅子に勢いよく腰を下ろした。
「んで、内科医のお前が何でここに居るんだ?外傷だけじゃないのか?唯は。何があって怪我をしたんだ?さっきの態度は何だ?」
「待て、待て。一気に訊かれても即座に全てを話すのは無理だ。順を追って話すのと、結論から話すのと、どっちがいい?好きな方を選べ」
「結論からだ」
当然の選択だ。
「了解。お前なら絶対にそう言うと思っていたよ」
カコッと音をたて、宮川が手に持った缶コーヒーの蓋を開る。それを一口飲み、息をつくと、表情がいつもとは違う硬いものになった。
「“外傷性健忘症”だと思うと、脳外科の奴が言っていた。たぶんあの様子からいって、部分健忘だろうな」
「健忘って…… おい、まさか」
「俗に言う“記憶喪失”ってやつだよ。最近の記憶だけが無いらしいが、生活に支障はない」
「外傷性って事は、怪我が原因なのか!?誰がそんな怪我を唯に!すぐに犯人を——」と、俺は大声で叫んだ。即座に立ち上がろうとした俺の腕を、宮川が強く掴み、無言で首を横に振る。
「示談で済ますそうだよ、本人が決めた事だ。医療保険から治療費がオーバーした場合の金額の負担と、火の屋の常連になる事を条件に、警察沙汰にはしないと言ったそうだ」
「アホか…… 」
唯のお人よし加減に盛大なため息がもれ、俺は長椅子の背もたれに思いっきり寄り掛かった。
「夫婦喧嘩を客が始めたらしくてな。心配でその側を、様子を窺いながらウロウロしていたらビール瓶が飛んできたそうだ」
「直撃したのか…… 」
「かなり気性の荒い奥さんだったみたいでな。旦那の方に投げたらしいんだが…… コントロールも出来ないくらいに酒が回っていたのかもな」
「その様子を見た香坂(こうさか)って店員がすぐに救急車を呼んで、『警察も』と叫んだ時、まだうっすらと意識のあったお前の奥さんが『警察だけは呼ばないで』と言ったそうだ。『そこまでの事じゃない』とな」
「香坂?誰だそれ」
「お前の奥さんの、一番側に居た男だろうな」
初めて名前を知った気がする。店員の名前は胸元に付けた名札で確認出来るというのに、アイツに対しては、それすらする気になれなかったから。
「なんで警察を呼ぶななんて…… 充分呼ぶべき事件だろうに」
「これ以上警官達に忙しくさせたくなかったんだろうな。お前の姿を見ていて、そう思ったんじゃないか?それに、相手は逃げたりもせずに一緒に病院にまで来たそうだ。傷も浅いし、警察を呼ぶほどではないと思ったのも、まぁ多少は分かるよ」
「…… それで?どうして健忘症だと診断が出たんだ?」
「付き添いで来た店員から看護師が聞いていた名前とは、違う名前を本人が答えたからだそうだ。目の覚ました時、『日向さんが目を覚ましました!』と言った看護師に、『皆川(みながわ)唯ですけど』と答えたらしい」
「どの位の記憶がないんだ?」
「さあ?俺が診察した訳じゃないから詳しくは知らないが、店長と香坂の事は覚えていたらしい。明日の授業の心配もしていたそうだから、大学生くらいまでは戻っているだろうな」
「大学生…… 店長はわかる——」
ぼそぼそっと呟き、反復する。
(丁度、俺達が店で会った時位じゃないか?あの時まで戻ったのか?)
…… 嘘だろう?
まさか、同じ人間に二度も忘れられるなんて…… 。
「家族に説明をしてもなかなか納得してもらい難い状態なんでな、外科医の奴が俺に押し付けてきたんだ。『お前、親族と友達ならそれくらい言えるよな』とな。実際問題、友人だからこそ言いたくないんだが…… 」
宮川はそう言い、コーヒーを一口飲んだ。
「 ………… 死亡宣告と変わらないよな、これって」
額を押さえ、俺は小声で言った。体に力が入らない。
「しかも、“お前の”な。彼女の人生からお前が居ないんだ。『夫』であるお前が」
「追い討ちかけるような事言うなよ…… 」
「事実だろう?事実は認め、真摯に受け入れる。でなければ、前には進めない」
宮川はそう言うと、バンバンッと俺の背中を強く叩いた。
「また惚れさせればいいだけだ、簡単だろう?一度は射止めた相手なんだしな」
宮川が不敵に笑う。
「簡単に言うなよ、相手は記憶が無いんだぞ?俺に行き着くまでの経緯が全くないのに、どうしろと——」
どうしたって頭の中が真っ白で、今後どうしたらいいのか全くわからなくなった。