腕時計を見た。
式開始まで、あと十分を切っていた。しかし、美良がまだ来ていない。
『ごめんなさい、少し遅れます』
彼女がそうラインをくれたのは約一時間前。
もう着いていてもおかしくない頃だ。
昨晩の二日酔いが残っているとはいえ、真面目な彼女が遅れてくるというのが意外だった。
加えて、ラインに続けざまに入っていた「式の後に話がある」というメッセージが気掛かりだった。
美良はいったいどうしてしまったのだろう……。
あれほど幸福な夜を女性と過ごしたことはなかった。
昨晩は、まさに我を忘れたと言っていい。
まるで獣にでもなったかのように、彼女を強欲に求めてしまった。
美良をどうしようもなく愛している。
頭の先から足の先にいたるまで彼女を愛おしく感じて、改めて思い知った。
そしてそれゆえに、苦しみが増した。
姉を見殺しにしてしまった俺に、人を愛する資格なんてない。
たった一人の肉親がずっと苦しんでいたことにも気付かず、自分の夢ばかり追いかけていた冷酷な人間に、人を愛する権利など与えられるはずあろうか。
現に今朝、俺は彼女を傷つけた。
初めての夜を迎えた朝に、あんな酷い拒絶をするなんて。
美良は俺に失望したに違いない。
こうして時間に遅れているのも、もう俺の妻としての役割をこなすことに嫌気が差したからかもしれない。
式後にしたい話とは、もしかしたら別れ話かもしれない……。
それなら、それでいい。
彼女を失いたくないあまり、一人よがりを働いてしまった罰だ。
俺は甘んじて、それを受け入れなければならない。
そして、もう二度と人を愛することはしない。
なにも変わらない。
彼女と出会うほんの数か月前の自分に戻るだけだ。
なんの難しさもない。
――はずなのに、どうして俺はこんなに怖いのだろう。
自業自得でこんな事態になってまで、彼女を失うことが怖いのだ。
彼女を失ったら、俺はどうなるのだろう。
本当に以前のように戻れるのだろうか。
脳裏には、彼女と過ごした数か月の記憶しか思い起こせないのに。
彼女は俺のそばでいつも微笑んでいてくれた。温かな心で俺と過ごしてくれた。
目を閉じれば、彼女と過ごした日々が鮮やかに思い浮かぶ。
彼女と過ごしている時は、姉への罪悪感を忘れられた。
呼吸ができた。生きている心地がした。口にするものが美味かった。毎日が充実していた。心配にも駆られた。怒りをも覚えた。嫉妬にまみれた。激しい恋慕に胸を揺り動かされた――世界が色づいていた。
まるで生まれ変わったような今、以前の日々に戻って俺はちゃんと息ができるのだろうか。生きていけるのだろうか。
彼女を失うことは、姉を失った以上の苦しみを与えるのではないのか。
「先生。先生」
呼ばれてはっと意識を戻した。
係員が俺のそばに来ていた。
「それではお時間ですので、先生は会場の方へ」
「少し、待ってもらえないか」
「は?」
「妻がまだ来ていないんだ」
「はぁ、ではあと一分ほど……」
時間はいつの間にか五分前を差している。
もう一刻の猶予もない。
美良は本当にどうしたのだろう。
俺に愛想を尽かしたとしても、今日のような重要な場をドタキャンするような無責任な女性ではないはずだ。
もしや、彼女の身になにかあったのではないだろうか。
スマホを見たい。
新しいメッセージが来ているかもしれない。
だが、紗英子君に預けていて自由に使えずにいた。
彼女はここ五分前から、最終確認に行ってくると言って、姿が見えない。
じりじりと苛立ちが芽生え始めた時、紗英子君がようやく戻って来た。
「ちょっとスマホをみせてくれないか、妻から連絡が来ているかもしれない」
悠然とした様子で戻ってきた紗英子君は、せっつく俺に目を丸くして、
「まぁ先生、そんなお時間はありませんよ。さぁ早く、大勢の方が先生をお待ちですよ」
と、俺の手を取って、入口へ誘導しようとする。
「しかし妻がまだ来ていないんだ」
「奥様はすでに関係者席にいるのでは?」
「しかし、ここで落ち合うと約束したんだ。彼女は約束を違えるような女性ではない。なにかあったのかもしれない」
焦りをにじませる俺に、紗英子君の声は心なしか冷ややかになる。
「落ち着いてください先生、らしくもない。もし、なにかあれば大学の方に連絡が来るはずですわ。きっと奥様側の都合で遅くなっているのでしょう?」
「そうだが……」
「そもそも来る予定の時間が遅すぎますわ。今日は先生の記念すべき日。きちんと余裕を持って到着して、先生の準備をフォローをするくらいが当たり前なのでは?」
こほん、と賢しらに咳をして、紗英子君はきつい口調で続けた。
「差し出がましいようですが、あの子は若すぎて先生に相応しいとはとうてい思えません。先生は私の父も大変な期待を寄せている方。日本を代表して世界と渡り合う方なのですよ。そのためには配偶者からのサポートも大いに必要になってくるというのに、あの子にそれが担えるとは、私とても思えませんわ」
何度か聞かされた美良への批判だ。
いつもは聞き流していたが、今は腹立たしく思う。
今言う話ではないし、彼女を選んだのは俺だ。
赤の他人がどうこう言う筋合いはない。
「すまない。俺の都合で遅れると伝えてくれないか」
紗英子君を無視して、俺は立ち上がって係員に詫びた。
「お待ちください、先生」
しかし立ち塞がるように紗英子君が寄って来る。
コメント
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人として最低なことをしている自覚も持てないなんて、情けない😱