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着信番号は病院。
しかも、外科医局の番号だった。
「……遼? どうして医局から……」
遼なら携帯にかけてくるはず。
不審に思いながらも、私は通話ボタンを押した。
「……はい、もしもし?」
『亜紀さん?
俺だけど。ごめんね、こんな時間に』
電子機器越しに聞くのは初めての声。
……俺だけど?
「……えっ、直江先生!?」
『うん、そう』
「あの……どうかしたんですか?」
眉を寄せ、不安を押し隠しながら問い返す。
『亜紀さん、申し訳ないけど、今すぐ病院へ来てほしいんだ』
「えっ? 今すぐって……」
『歩ちゃんが急変した。
亜紀さんが到着するまで、僕が処置に入る。
だから、すぐ来て』
緊迫感を帯びた直江先生の声。
「奥田さんが急変!?
どうしてっ、何が起きてるの?
今の状態は!?」
私は目を大きく見開き、矢継ぎ早に問いかけた。
『徐脈が起きて……ペーシングが効かない。
このままだと、緊急でペースメーカーを植え込まなきゃいけなくなるかもしれない……』
「緊急ペースメーカー!?
そんなっ!」
私は慌ててパジャマのボタンを外し、思わず声を上げた。
『電話じゃ説明しきれない。
俺は歩ちゃんの処置に戻るから、とにかく急いで来て。
何分かかる?』
動揺する私とは対照的に、直江先生の声はどこまでも冷静だった。
「う、うん。
今からタクシーで向かって……
この時間なら二十分あれば着けると思う」
子機を肩と耳で挟んだまま着替えを進める。
どくどくと激しい鼓動が胸を打つ。
私は大きく息を吐いた。
『今から僕の携帯番号を言うからメモして。
あと、亜紀さんの番号も教えて。
到着するまでに何かあったら携帯に連絡するから』
「うん、分かった。
いいよ、番号教えて」
ジーンズを履き終えた私は、慌ててペンを走らせた。
『病院に着いたら、まず僕の携帯へ電話して。
……待ってるから』
「分かった!
直江先生、それまで奥田さんをお願いします!」
焦るようにそう告げると、私は子機をベッドへ放り投げ、部屋を飛び出した。
玄関の扉を開けた瞬間、凍えるような冷たい風が頬を刺す。
見下ろす景色は、一面の白。
「急がなきゃ……
奥田さんが待ってる」
静かな夜空を舞う雪の中へ、白い吐息が溶けていく。
私は直江先生の携帯番号を書き留めた紙を握り締めたまま、凍てつく夜の街へ駆け出した。
……
どうして……
そんな徐脈性不整脈が……
タクシーの窓ガラスを見つめ、落胆のため息を漏らす。
ペースメーカーって……
もしそうなれば、待機当番の遼が執刀するはず。
今ごろ、直江先生と一緒に遼も処置へ入っているのだろうか。
私の判断が間違っていたの?
遼の言うとおり、一刻も早くオペへ踏み切るべきだったの?
私の判断が……
そんな……
奥田さん……
胸をえぐられるような絶望感。
「………」
私は静かに料金メーター横の時計へ視線を移した。
0時26分。
「あの……すみません。
もう少し急いでもらえますか?
こんな天候だから仕方ないのは分かっています。
でも……お願いします」
私はすがるように運転手へ頭を下げると、滲んだ涙を手のひらで拭った。
病院正面玄関で私を降ろしたタクシーは、ぎしぎしと新雪を踏み締めながら、暗闇の中へ走り去っていく。
私はその背に目もくれず、傘も差さないまま再び走り出した。
外灯に照らされた職員入口への裏道。
ブーツの底へ雪がまとわりつき、足が重い。
――そうだ。
直江先生に電話しないと!
携帯へ降り積もる雪を手で払いながら、私は直江先生の番号を押した。
冷え切った耳朶は感覚を失い、呼び出し音だけが遠く聞こえてくる。
「……あっ、直江先生! 今着きました。奥田さんの容態は? 今からすぐ病室に向かいますから!」
呼び出し音が途切れた瞬間、私は矢継ぎ早に声を発した。
すると直江先生は、
『病室じゃない。そのままオペ室のモニター室に来て! 早く!』
それだけを告げ、一方的に電話を切った。
……えっ? オペ室のモニター室?……
オペ室って……
もう奥田さんのオペが始まってるってこと!?
通話の切れた携帯を見つめ、息を呑む。
「どうして……どうしてこんなことに……」
詳細が分からず、不安ばかりが膨らんでいく。
口の中に溜まった唾を飲み込み、大きく息を吸う。
胸に手を当て、ゆっくりと吐き出した。
私がしっかりしなきゃ……
早く、オペ室へ!
携帯をバッグへ押し込み、空いた両手で強張った頬をパンッと叩いた。
――
「これ……今、オペやってるの?」
薄暗い廊下を走り抜けた私は、肩で息をしながらオペ室の扉を開け、その場で立ち止まった。
オペ室へ続く廊下は真っ暗だった。
ナースが申し送りをするためのガラス窓も閉ざされ、中に誰かいるとは思えないほどの静寂が広がっている。
以前、楓ちゃんを探して潜り込んだ時と同じだ……。
でも、この扉は開いている。
ということは、中で誰かが自動センサーを作動させているってことよね。
冷たく湿った身体を縮こませ、不気味さに身震いしながら、入ってきた扉を振り返る。
オペ室のモニター室……
「……奥田さん……」
大きく深呼吸を一つして、私は再びオペ室へ続く廊下へ視線を向けた。
直江先生に来るよう言われたモニター室は、オペ室へ入る大きな扉の手前にある小さな部屋だ。
各オペ室に設置されたカメラの映像を確認できる部屋で、録画された映像は編集を経て、手術の検証や研究、医学生への講義などにも活用されている。
私はモニター室の扉の前に立ち、恐る恐るドアノブへ手を伸ばした。
扉を開けると、モニター画面を見つめる私服姿の男性の背中が目に入った。
「……直江先生?」
眉間に深く皺を寄せながら、その見覚えのある後ろ姿へ声を掛ける。
すると、その男性はゆっくりと椅子を回転させ、
「やあ、亜紀さん。意外と早い到着だったね」
私の顔を見るなり、満面の笑みを浮かべた。
「奥田さんは? どこにいるの?
直江先生……奥田さんの処置に入ってたんじゃ……」
黒い革のジャケットを羽織る直江先生を見つめ、不可解な状況に言葉を失う。
「ああ、歩ちゃんなら病室にいるよ」
「えっ!?
だって、オペ室のモニター室に来いって」
「うん、ごめんね。
歩ちゃんのことは嘘なんだ」
悪びれる様子もなく、笑顔のままさらりと答えた。
状況が理解できない。
私はぽかんと口を開けたまま、何度も瞬きを繰り返した。
「えっ……待って……
何が嘘?
奥田さんの急変?
オペ?……
奥田さんは病室?……」
混乱した言葉だけが口から零れ落ちる。
「だから全部だよ。
歩ちゃんは急変なんてしてない。
今ごろ大好きなチーズケーキを丸ごと一個食べる夢でも見てるんじゃない?」
直江先生は頬杖をつき、くくっと喉を鳴らして笑った。
「全部……
急変が嘘ですって?……」
その言葉を聞いた瞬間、頭へ一気に血が上る。
「何なの、あなたは……
信じられない……
こんなことするなんて、何を考えてるの……」
首から上へ集中する血の熱さに、息が苦しくなる。
これほどまでの怒りを覚えたことが、今までにあっただろうか。
「緊急事態だって、あなたの言葉を信じて来たのに!
やっぱりあなたは最低よ!
絶対に許さない!」
頭の中で何かが切れる音がした。
その瞬間、私は怒りのまま声を張り上げた。
そんな私を、目の前の男は黙って見つめている。
やがて静かに私から視線を外し、再びモニターへ向き直ると、
「それが緊急事態なんだよ。
これはね、あなた自身の緊急事態なんだよ……
亜紀さん」
気味が悪いほど落ち着いた声でそう呟くと、直江先生は長い指を伸ばし、手元のスイッチを押した。
コメント
1件
直江先生、まさかの嘘だったんですね……!夜中に病院からの着信で心臓が止まるかと思いました。亜紀さんの「絶対に許さない!」って怒り、すごく伝わってきました。それにしても「あなた自身の緊急事態」って、どういう意味なんでしょう。気になりすぎて続きが待ちきれません!