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第9話:ことばにできない
その日、本を開くのがこわかった。
何が書かれているのか、もう想像がつくようで、でも知りたくない気持ちが胸の奥に残っていた。
物置の空気は、いつもより湿っていた。
西陽の光も弱く、まるで空が何かを隠そうとしているようだった。
ページを開いた瞬間、私は息をのんだ。
文字が、にじんでいる。
「い…」
「え…な…」
「…かっ…た」
線がゆがみ、文字が掠れ、意味を持たないような形で浮かんでいる。
墨をたらしたような黒い染みが、文字の間に滲んでいた。
ただ一文、かろうじて読めるページがあった。
「ことばにしたしゅんかん、こわれると わかっていた」
祖父は——何かをずっと、こらえていたのだ。
その何かを文字にすることが、すべてを壊すことだと知っていた。
だから、書けなかった。
でも、書かないままでは、きっと終われなかった。
*
私は目を閉じた。
祖母の姿が浮かぶ。
濃い灰色の着物、まっすぐな背筋。
髪を結い上げ、手元は乱れず、目だけが音を立てるように鋭い。
言葉を使わずに相手を制圧する——それが祖母のやり方だった。
祖父は、そこにずっといた。
声を上げず、怒らず、笑わず、ただ“家族”という形に従っていた。
*
翌日、私はまた祖父の家に足を運んだ。
光は昨日より強く、本の上に鮮明に落ちていた。
ページをめくる。
そこに、整った文字があった。
「つ」
「ま」
「よ」
一文字ずつ、別々のページに。
さらにめくる。
「で」
「て」
「い」
「け」
私は、立ち尽くした。
「つまよ でていけ」
音読してはいけない気がした。
口にすれば、祖父の沈黙を破壊してしまうようで。
でも、ページは確かにそう語っていた。
抑えきれず、こぼれ出た“願い”。
それは怒りではなく、嘆きでもなく、ただ——訴えだった。
*
ふと、物置の扉がわずかに開いた気配がした。
風はないはずだった。なのに、ふすまが音を立てた。
私はそっと振り返ったが、誰もいなかった。
ただ、ページの一番下に、かすれた文字が一つだけ追加されていた。
「わ」
それは、「わたし」かもしれない。
「わすれたい」かもしれない。
「わかって」かもしれない。
でも、その言葉の続きを、祖父は残さなかった。
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