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「奥さんに同情するわ」
さすがに、怒ると思った。
離婚した元妻を引き合いに出されたら。
が、匡はふっと笑った。
「報いは受けたよ」
「え?」
「千恵と一緒。浮気された」
驚いた。
いつの時代も上位五位以内に必ずランクインしている離婚理由なのに。
なぜか、匡が浮気されるなんて思えなかった。
「どう……して」
「気になる?」
素直に気になると言えばいいものを、言えば今でも彼に気があると思われそうで、躊躇した。
「別に……」
「とにかく、ほら」
匡がバスルームの外に置かれているバスローブを取り、私の肩に掛ける。
私は合わせ目をギュッと握り、重ねた。
「髪、乾かしてやるから」
自分でやると言う前に、彼に引っ張られるようにしてベッドに座らされ、いつの間に用意していたのか、ベッドのヘッドボードのコンセントにコードを差してあるドライヤーを構えられる。
昔もこうして、髪を乾かしてもらった。
私は、大きな手で頭を撫でられるのが好きだった。
「懐かしいな」
ドライヤーを止めると、匡が言った。
「俺、千恵の髪乾かすの好きだった」
『私も』なんて言えない。
「ね。どうして飲み会に来たの?」
「え?」
「クラス違うし、元カノとなんて会いたくないでしょ、普通」
「そうか?」
わざと話題を変えたとわかっているだろうに、匡はドライヤーを片付けながら話し始めた。
「近藤がさ、槇野狙ってて」
「は?」
「一年前のクラス会の少し前に、槇野が近藤の店に行ったらしい。で、淡い初恋が再燃しちゃったカンジ?」
「え、そうなの?」
「そうなの。槇野って陸部だったろ? 走ってる姿に惚れたって、当時から聞かされてたんだけど。まさか、二十年以上経って、また同じ相談されるとは思わなかった」
はははっと笑う匡の声がすぐ耳元で聞こえて、ドキッとする。
後ろから抱き締められ、前のめりになって抵抗するも、あっけなく背中を彼の胸に預ける格好になった。
「匡!」
「けどさ? 近藤は調停中だったし、槇野は離婚直後で、お行儀よくしてたらしい。槇野にはこっそり店のクーポンとか渡して、定期的に来るように仕向けてたみたいだけど」
あのやんちゃだった近藤が、そんな常識的な行動をとるなんて。
それよりも、話に誤魔化されて、うまいこと抱き締められたままなのが気になったが、今更だと思って諦めた。
「店で、槇野から飲み会の話聞いて、近藤も参加したいって言ったらしい。で、同じくバツイチの俺にも声がかかったってわけ」
「わけ、じゃなくて。断ればよかったじゃない。元カノが来る飲み会なんて――」
「――会いたかったんだもん」
可愛らしいつもりの弾むような『もん』の後で、カプッと耳朶を食まれる。
「ちょ――」
「――近藤からメンバー聞いて、チャンスだと思って」
吹きかけるように耳元で話され、くすぐったい。
「あ、近藤と槇野もイチャついてるかな、今頃」
「え?」
「槇野、かなりハイペースで飲んでたからな。俺らが店を出る時には、目がヤバかったし」
「あんたも近藤も、いい年してお持ち帰りとか、恥ずかしくないわけ!?」
「全然? いい年だからだろ? チャンスは逃すな、ってね」
うなじに匡の唇が押し当てられる。
私の首元で、全然キマってないキメ顔をしているのが想像できる。
「この年でセフレとか、身体が――」
「――お前、セフレいたことあんの?」
「ないわよ!」
肩を抱いていた手がバスローブの合わせ目から侵入し、膨らみに触れる。
腰を抱いていた方の手は、同様に下腹部へ。
「じゃ、そこは普通に焼けぼっくりでいいじゃん」
「どこが普通? 別れた相手となんて、未来《さき》がないじゃない」
わざと言った同じ間違いはスルーして、私は少し低い声で、顔を見なくても真面目に言っているわかるように伝えた。
伝わったのだろう。
素肌から匡の手の温もりが離れ、肩を掴まれて強引に身体を回転させられた。
バランスを崩した私はあっけなくベッドに押し倒される。
私の顔の横に両手をついて、匡が圧し掛かり、私を見下ろす。
再会してから初めて見せる、この上なく真剣な、怒っているとも見える表情で。
「嫌いになって別れたわけじゃない」
確かにそうだ。
それでも、別れは別れだ。
引き裂かれたわけじゃない。
二人の意思で別れた。
「別れたことを後悔してるみたいな口ぶりね」
「後悔してるさ」と言った匡が、眉を顰める。
きっと、本心だ。
「じゃあ、どうして言ってくれなかったの? お父さんが倒れたこと」
匡の目が見開かれ、視線が僅かにずれた。
「結局、そんな大事なことも言えない程度の関係だったってことでしょ? 地元から離れた大学で見知った顔を見つけて、何となく一緒にいるようになって、何となく一緒に暮らした」
「違う! そんな軽い気持ちで――」
「――でも、言わなかったじゃない!」
十六年も前に終わったことだ。
それでも、こうして顔を合わせ、身体を重ねてしまったら、否が応でも思い出す。
大好きだったのに、どうして――――。
「相談されるわけでもなく、一緒に帰ってほしいと言われるわけでも、待っていてほしいと言われるでもなく! 『一緒に来るか?』なんて言われて尻尾振ってついて行く女だと思う? バカにしないでっ!」
仰向けに寝そべった状態で一気に捲し立て、私ははぁはぁと肩で呼吸を繰り返す。
思い出したくなかった過去を無理矢理引きずり出されて、脳内が荒んでいる。
札幌に帰って来てからずっと、だ。
離れ離れになった子供たちのことを考えまいとすればするほど、代わりに浮かぶのは幸せだった頃の匡の笑顔と甘い声。
けれど、懐かしんでいると思いたくなくて、悪夢だと笑い飛ばした。
十六年間くすぶっていた、疑問。
どうして、『待ってろ』って言ってくれなかったの――?
「一緒に来てほしいって頼んだら、来てくれたか? 待っていてほしいって泣いて縋ったら、待っていてくれたか?」
目に、声に怒りを感じた。
どうして匡が怒るのかと噛みついてやろうと、ひゅっと息を吸い込んだが、ぐっと歯を食いしばった彼の苦々しい表情を見たら、言えなくなった。
「言えるわけないだろ!! 頑張って内定もらった就職を蹴ってついて来てくれなんて! 生活の面倒を見れる保証もないのに!」
「面倒を見てくれなんて――」
「――言えるわけないだろ! 迎えに行ける確証もないのに!」
それでも、言ってほしかった。
そう思うのは、わがままだろうか。
「なんで今更……」
聞きたくなかった。
私を捨てた理由なんて、知りたくなかった。
だって、知っても、もうどうしようもない。
あの頃、匡と別れて傷つき、怒り、寂しさを紛らすように仕事に打ち込み、ついでに合コンにも励んだ。
そうして結婚し、離婚した。
匡の別れの理由に同情し、受け入れてしまったら、私の人生がバカみたいだ。
事情を知って、匡について行ったらどうなっていたのだろう。
そうしなくても、匡を待っていたら?
ついて行ってもうまくいかなかったかもしれない。
待っていても、後悔したかもしれない。
結局、確かなことなんて何もない。
だって、私は別れの理由を聞かされなかったし、ついて行くことも、待つこともしなかった。
したのは、就職と結婚と、離婚。
そう、今更だ。
私が身体の力を抜き、ふぅっと小さく息を吐くと、匡もまた表情を和らげた。
「けど一番は、ついてきてほしいとか、待っていてほしいとか言って拒まれるのが……怖かった」
それを聞いて、責める気は完全に失せた。
「そんな弱腰で、よくお父さんの会社を手伝おうなんて思ったわね」
「俺が弱腰になるのは、千恵にだけだ」
「……そうね」
気の強い私に、匡はいつも勝ちを譲ってくれた。
譲らなかったのは、別れの時だけだ。
「でも、いつまでもそれじゃダメなんだよな」
「え?」
「男は強引なくらいが格好いいだろ?」
真剣な面持ちはどこへやら。匡がニヤリと笑う。
「は?」