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「……ハリソンが、本国では小麦が手に入りにくいと、言っていた。欧州の大戦は、色々と生活に支障をきたしているようだが、しかし、まさか日本の洋食屋で、小麦が……。米は……、大丈夫だと思うが……。確保すべきか……」
金原は、考え込んでいる。
「お待たせしました。……そうですねぇ、すべては、欧州の大戦が原因ですから。あちらでは、米をあまり食べませんし、米の種類も異なります。日本に直接影響は、ないでしょうが、恐ろしいのは、デマですよ。誰が言ったか分からない話に乗せられて、米の売り渋り何てことも、あり得るかもしれませんね」
店主が、盆に料理を乗せて現れた。
少し、鼻をつく、しかし、まろやかな、櫻子の知らない香りが広がっていたが、聞いてはいけないというより、加わってはいけないような話を店主は配膳しながら金原と交わしている。
「……なるほどなぁ。確かに、始まりは、たんなるデマ、という事が多い」
金原は、置かれたライスカレーを、繁々と見ていた。
「ああ、そちら様の分も、すぐに、お運びしますから……」
うん、と、金原は頷くが、やや、間をおいて、
「妻は、本格的な洋食屋に慣れていない。無作法は許してやってくれ」
と、厨房へ向かおうとする店主を引き留めた。
「えっ?!奥様?!金原の社長!いつの間に!というか、それは、こちらこそ配慮が足りませんで!申し訳ありません!」
「……慌てる事でもないだろう。さては、お忍びとかいうやつと思ったか?」
いやいやいや、と、店主は、誤魔化しながら、逃げるように厨房へ戻った。
「うまそうだろ?」
金原が、満面の笑みを浮かべ、櫻子へ問いかける。しかし、妻と、はっきり言われ、櫻子は戸惑いを隠せない。自分は、女中のつもりなのだが、金原は事あるごとに、妻だと言い張る。そもそも、祝言すら挙げていないのに……。
どうしても、あの手形を見せられ、差押えられたという事実を知らされた事が、櫻子の中では尾を引いていた。
とはいえ。
現れたライスカレーは、確かに美味しそうだった。
皿の上で、こんもり山形に盛り付けられたライスには、窪みがつけられている。その脇に、別の容器に入ったカレーが置かれてある。
「さあ、召し上がれ」
店主が現れ、櫻子へも配膳してくれた。そして、一礼すると静かに奥へ消えた。
「ライスにはな、塩と、胡椒を振りかけて、そして、カレーをこの窪みへ注ぎ入れる。あー、その時は、気をつけろ。着物に飛び散る」
金原は、熱っぽく語りながら、テーブルに置かれてある小瓶を手にする。
「うん、塩と胡椒をふりかけてやろう。この匙加減で、ライスカレーの味は決まるんだ」
言うと、真顔で、櫻子のライスへ塩と胡椒をふりかけた。
「あ、あの、次は……」
ライスの窪みへ、カレーを流し込むはずだが、熱い口調の金原を見ては、適当な事は出来ないと櫻子は、手順を確認する。
「ああ、その穴みたいな窪みへカレーを入れればいい。そして、スプーンで、ライスを少しづつ崩しながらカレーと混ぜて食べる。その時のライスの量に気をつけろ。大雑把に崩してはならん。一口分にすること。そして、スプーンに、滑りこませる。いいか、欲を出し、ライスを山盛りにすると、こぼしてしまうぞ」
子供のように、無邪気に、いや、むきになる金原の姿に、櫻子は、呆然とした。
ライスカレーの食べ方に、そんな作法があったと初めて知ったが、今まで、ムッツリしていた金原が、笑顔でライスカレーについて語っている。
(よっぽど、お好きなのかしら?)
金原の変貌ぶりに、櫻子は驚きつつ、置かれてあるスプーンを手に取った。
「さあ」
金原に急かされ、櫻子は教えられた作法に従いライスカレーを口にした。
香ばしいとはまた少し違う風味、それでいて、優しい味わいに、櫻子は、目を見開く。
初めての味は、とにかく、美味しいとしか言い現せないものだった。
「本場のカレーは、もっと、胡椒のようなものが効いていて、辛いそうなのだが、ここの店主は、下町の洋食屋の味にこだわった。誰でも食べられる、それでいて本格的な洋食を作りたいと、俺の所へ金を借りにやって来たんだ。何の担保もない男が、自分の夢だけ語って何ができる?初めは、俺もそう思ったがな、料理させてみたら、うまかった。だから、ここを貸してやった」
「まあ、そうだったのですか」
嬉しそうに語る金原に釣られ、櫻子も軽やかに返事をしていた。
と、二人同時に、はっとして、俯く。
「と、とにかく、急がなくてもいい、ゆっくり食べろ。のぼせた後だ、無理はするな……」
「は、はい……」
櫻子は、俯いたまま、小さく返事をし、互いに、ぎこちなく黙々と、ライスカレーを食した。
「……で、慣れた……か?」
金原が、遠慮気味に言葉を発して、沈黙を崩す。
「え?」
突然の事に、櫻子も、うっかり軽い返事をしてしまう。
しまった、と、思い、また俯いた。
そして……。
「あぁ、なんだ、その。洋食には、慣れたかと、つまり、その……ハリソンから招待を受けた。小さな集まりがあるそうだ。ドレスも用意する」
「え、えっと、それは……」
「二人で、一緒に行く」
それだけ言うと、金原は、黙々とライスカレーを食べ始める。皿は、空になろうとしていた。
聞かされた事は、結局、どうゆう事なのかと、櫻子は固まるが、金原は食事を終えようとしている。
ゆっくり食べろと、言われていたが、やはり、待たせてはならないと、櫻子は金原に追い付くよう、慌ててライスカレーを口へ運んだ。