「俺と恋人ごっこしませんか?」
目の前の男は、一体、何を言っているのだろう。外は土砂降りの雨で、私はいつものコインランドリーで洗濯が終わるのを、ただ待っていただけなのに。
地面に落ちる雨の音。洗濯機が回る機械音。ブルーのベンチとパイプ椅子。洗剤の香り、本のページをめくる音。
この物語は、そんな音が響く2人きりの空間で、名前も知らない男に耳を疑うようなセリフを言われた私が頷くまでの、数分前から始まる――。
「今日も雨かぁ」
ビニール傘で雨をしのぎつつ、家から徒歩3分の古いコインランドリーへ向かう私は、昼だというのに分厚い雨雲のせいで暗くなった空を見上げた。
10代の頃は、こんな雨の日が嫌いだった。濡れるし、じっとりとベタベタするし、髪はあちらこちらへと跳ねて言う事をきかない。次第に気分まで憂鬱になって、教室から見える大きな水たまりに顔をしかめたりして。
でも、それなりに年を重ねて24歳になった私に、そんな感情はなくなって、今では雨の日をどう過ごせばいいのかをすっかり心得て、居心地のいい空間まで見つけることができた。それがこのコインランドリーだ。ガラガラと騒がしい音が鳴る引き戸を開けて、中へ入る。
「……」
「……」
パイプ椅子に座る先客が、いつものように本を読んでいるのを横目に、出来るだけ邪魔にならないように洗濯機に服を入れ込んで硬貨を投入する。洗濯機が音を立てて回り出したのを確認してから、設置してあるベンチに腰掛け一息ついた。
最近、この近くには綺麗でおしゃれなコインランドリーが次々とオープンし、この古いコインランドリーの利用者はめっきり減ってしまったけれど、私には都合がいい。こうやって降り続く雨が地面に落ちて弾けるのを、ただぼーっと眺めている時間は、忙しない世界からこの空間だけが切り離されたような感覚になって心が休まる。この瞬間は私にとって大切なお気に入りの時間だ。こうしている間は、思い出したくないことを考えないで済む。そう、昨日のあの事 とか。
「はぁ」
言っているそばからからうっかり思い出してしまって、思わず深いため息が出る。もう、余計なことは考えたくないのに。
「こうも長雨だと、憂鬱にもなるよなぁ。深いため息ついちゃうくらい」
大きな独り言を話す常連客の言葉を聞き流しながら、更に激しく降る雨を眺める。洗濯が終わって帰る頃にはもう少しくらい収まっているといいな。
「これじゃあ家に帰るまでの間に、せっかく綺麗になった服が濡れちゃうし」
ほんとその通り。自宅まで徒歩3分だとは言え、これだけの激しい雨だと傘だけではどうにもならない。
「いつも熱心に眺めてるけど、好きなの?」
換気の為に少しだけ開けた引き戸から強い風が吹いたと同時に、雨が中へ入ってきそうで心配になる。閉めた方がいいかな?
「あのー、ちょっと。おーい、聞いてます?……目を開けながら寝る人なのかな?」
失礼な。大きな独り言を話す人かと思って、気を遣って聞かないフリをしてただけなのに。
「もしかして、さっきから私に話しかけてます?」
「ええ、もちろん。ここには俺とあなたしかいない」
柔らかく微笑む男に警戒心を抱いた視線を向けたが、男は気にしていない様子で続けた。
「それで、好き?」
「え?」
急に始まった会話が思わぬ言葉で驚く。
「雨が好きなのかなって」
さっきまで読んでいた本を閉じて、こちらに向き直った男は、本格的に私と会話をするともりらしい。人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、私の返答を待っている。
「……別に、特にやることもないのでぼーっとしてるだけです」
なんとなく冷たい言い方になってしまったような気がする。でも言い訳をさせていただくとそうなったのにはちゃんとした理由がある。私たちはここの常連客同士でよく顔を合わせていることに間違いはないのだけれど、実際に言葉を交わすのは今日が初めてだ。暗黙のルール、勝手にそういうものがあるのだと思っていたから。
「ふーん、そうなんだ」
簡単な相づちのあとの沈黙。また少しだけ雨が強くなった。少しだけ気持ちが落ちてしまったのは強くなった雨のせいじゃない。今までこの人が同じ空間にいても気にならなかったのは、お互いに干渉したり気を遣ったりしなかったからだ。一度でも、その距離感を測り間違えてしまったら、もう前と同じでいられなくなるのはどうしてだろう……。今まで感じたことのない気まずい沈黙に耐えきれず、会話を切り出す。
「なんで今日は話しかけようと思ったんですか?いつも貴方は本を読んで、私は洗濯が終わるのをただ雨を眺めながら待つ。それだけだったのに」
私たちは友人でもないし、顔見知りと呼ぶにも近くない存在。だからこそ、お互い空気のように気にすることなく同じ空間にいられたのに。
「……もうすぐ、この本を全て読み終えてしまいそうで。だから、なんだか寂しくて」
男は少し俯きながら、困ったように微笑んだ。
ああ、それはなんだか分かる気がするな……。私は本は読まないけど、お気に入りのドラマの最終回とか、ずっと見たかった映画を見終わってしまうと、布団にくるまってその世界の続きに浸っていたくなる。そして、それから無性に――。
「人肌、恋しくなる」
重なる声が雨の音に乗せて響いた。
「あ」
「え」
その後のリアクションまで。
「俺たち気が合うね」
「いや、違いますよ。今のはちょっと思い出しただけで――」
「あ、俺、今イイこと思いついた。雨が降った日、ここにいる間だけ――」
あれ?なんだかとてつもなく嫌な予感がする。
「俺と恋人ごっこしませんか?」
この人は一体なにを言っているんだろうか。冗談にしては斬新すぎる。
「……これはー、今、流行りのナンパとかですか?」
「まさか。もし俺がその気なら、もっと成功率の高い方法で誘いますよ」
どうしよう。今までこの男は無害だと思っていたけど、もしかして相当危ない奴なのでは?
「そんなに警戒しないで。ただ、暇をつぶすためのお遊びだよ」
「それって楽しいですかね?」
「それはー……、やってみないと分かんない」
「まるで、ギャンブル」
「お、いい表現」
仲のいい友達と話すような軽快なトークに、男は楽しそうに笑う。つられて笑いそうになる顔を引き締め、不信感を露わにした視線を男に投げかけると慌てたように表情を作った。
「約束するよ。あなたを楽しませる努力は惜しまない」
何の宣言だ。そう呟いてみたけれど、この時の私には”約束”という言葉の響きがなんだか懐かしくて。
「……いいですよ」
「え、本当に?」
ああ、ここで止めとけばいいのに。
自暴自棄ってホントによくない。
「冗談だったんですか?」
一瞬、戸惑っているように見えた男の表情だったが、からかわれたと思い不機嫌に膨らむ私の顔を見て、ふっと噴き出して笑った。
「ううん、冗談なんかじゃないよ。よし、じゃあ俺たちは今この瞬間から恋人同士だ」
引き返すチャンスは、これが最後だったのかもしれない。
「……あの、次からってことにしませんか?」
「えー、どうして?早速人肌で温めてもらおうと――」
「やっぱり止めま――」
「冗談だって」
どうして、こんなバカげた提案に私は頷いてしまったのか。たぶんそれは、昨日突然に恋人から切り出された別れ話と、ずっと降り続いているこのうるさい雨のせい――。
「あ、ちなみに明日も降りますよ、雨」
微笑みながら、私の目の前にかざされた男の携帯の画面には、明日の日付と傘のマーク、その下に100%の数字が並んでいた。
「よろしくね。俺の愛しい人」
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