連日続く雨のせいで蒸し暑い部屋の中、汗ばんだ肌に服が張り付く気持ちの悪さで目覚めた日曜日――。
せっかくの休みだし、とショッピングに出かける休日を思い浮かべたりもしたけど、結局、私の足はいつものコインランドリーへと向かっていた。わざわざ雨の日に行く必要もないかと、あっさりショッピングの選択肢を諦めた私は、透明なビニール傘に当たって伝い落ちる雨を眺める。
「やっぱりこっちが正解」
穏やかな心が呟く。
「よそ見しながら歩くと危ないよー」
「あ」
「こんにちは」
引き戸を開けたままにしたコインランドリーの入り口に、寄り掛かるようにして立っている人物は、爽やかな笑顔を浮かべ、こちらに向かって手招きする。
軽く会釈をしつつ男の横を通り抜け、持ってきた服を洗濯機へと入れ、硬貨を投入して洗濯を開始したところで、男は大げさに声をあげた。
「え?もしかして昨日のこと忘れちゃった?無かったことにしようとしてる?」
酷く傷ついた、みたいな言い方が鼻につく。
正直に言うと、昨日この男とここで話をした後、家に帰ってすぐ、なんて奇妙な遊びを始めてしまったのかと思い返して、出来れば無かったことにならないかと考えた。そうでなくても、今日顔を合わせた時、素知らぬ顔をしていれば無かったことになるのでは?と思っていたんだけど。
「……覚えてますよ、恋人ごっこでしょ?」
今更“やっぱりなしで”なんて、目の前で嬉しそうに笑う男には言えず、諦めのため息を吐きながら、いつものベンチへと座った。
雨の日のコインランドリーと言えば、用意されている洗濯機がフル稼働しているイメージがあるけど、私たち以外、滅多に人が寄り付かないこの場所はこの通り、ガラガラだ。
その内、稼働しているのは私が使用する洗濯機と、その3つ隣の洗濯機。室内には水流の音が響いている。私の洗濯する服は、白や黒色のものがほとんどなのに対して、男のものと思われる洗濯機の窓からは、鮮やかな色使いの服が泡の中を泳いでいるのが見えた。
花柄、ねぇ……
違和感を心の中で呟きながら、隣に腰掛ける男を横目で盗み見る。
くっきりとしたアーモンド形の目元に整った横顔、少し緩やかにウェーブしている黒髪は前髪だけが少しだけ重ためだ。
服装は白のTシャツにゆったりとした黒のパンツ、足元はサンダルというラフなスタイルで、おしゃれとはかけ離れた格好をしているはずが、様になって見えるから不思議だ。
今まで空気のような存在だったから気付かなかったけど、この男は間違いなく”イケメン”という分類に入ると思う。私の好みかどうかは別として、きっと女性には困らない人生を歩んできたに違いない。
それなのに、どうしてこの人は私に、”恋人ごっこ”なんて持ち掛けたのだろう。やっぱりからかわれているだけだったりして。だって、彼がいつも洗っている服。あれは――。
「そういえば、名前聞いてなかった」
「あ、水篠《みずしの》です、水篠麻衣《まい》」
「麻衣。可愛い名前」
やっぱりこの男……。
「うわぁ、凄い顔」
知り合ったばかりの女性の名前を、敬称すら付けずにさらっと呼ぶ不審者につい正直なリアクションをとってしまっていたようだ。
「もしかして俺をチャラい奴だと思ってる?」
「違うんですか?」
「違うって。信じて」
信じて、とか簡単に言う奴ほど疑わしいのは世の中の常識でしょ?
「そういうとこですよ」
「ひどいなー」
男は大げさに、ショックを受けてる風を演じた。
「冗談はさておき」
いや、冗談はひとつも言ってない。不信感しかないし、心の底からチャラい奴だと思っていますが?
「俺の名前は佐伯涼《さえきりょう》。涼って呼んでよ」
「……佐伯さんじゃ、ダメですか?」
「ダメだよ。恋人同士なのに苗字で呼ぶなんておかしいと思わない?」
「知り合ったばかりなのに、すぐに名前で呼び合う方が変だと思います」
「いいや!俺たちは雨の日にしか、こうして会うことが出来ないから、その会えない時間を埋めるためにも、麻衣は俺を“涼”と呼ぶべきだと思う」
まるで選挙の演説のように力説する男は、またもや、さらっと私を名前を呼んだ。そして――
「分かった?」
有無も言わさぬ笑顔で詰め寄って来る。何一つ悪いことなどしていないのに、責められているような感覚になって居心地が悪い。
「まぁ……、言いたいことは、何となく」
「よし、じゃあ練習しよう」
手のひらを反して、どうぞのポーズで私の言葉を待っている顔がとても楽しそうで、この人をそこまでさせる原動力は何なんだろうと、逆に興味が湧いてきた……気がする。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「佐伯さんっておいくつですか?」
「知りたい?じゃあ、俺のこと涼って呼んでくれたら教えてあげ――」
「じゃあ、いいですぅー」
「今年28歳になりました」
正直驚いた。それは、”もっと若く見える”とか”老けて見える”とかそう言う事じゃなくて、彼の纏っている雰囲気のせい。この関係を始める前、パイプ椅子に座って本を読む彼の横顔は、どこか儚げでミステリアスな空気感を纏っていた。
でも、こうして話すようになってからは、そういった雰囲気は一切なく、退屈な時間を潰すための遊びを、全力で楽しむ少年のような笑顔を見せたりもする。話せば話すほど掴めない人で、年齢不詳というのがぴったりだけど、年上と言うのであれば――
「私よりも年上の人を呼び捨てには出来ません。“佐伯さん”とお呼びします」
「そんなこと言うならズルい言い方するけど、年上の言う事は聞いておかなきゃ、でしょ?」
ズルいと分かっていてこの方法を使ってくるとか、いい性格してるわ。
まぁ、彼が最初に言っていたように、これがただの遊びというのなら、徹底的に恋人になり切ったもん勝ちなのかもしれない。チラリの目線を送ると”いつでもどうぞ”と訴える笑顔を向けられた私は、大きな息を吐きながら観念する。
「……りょう」
「うわ、なんか、感動……ッ。例えるなら、全然懐かない猫が手からご飯食べてくれたときみたいな……ッ」
「からかわないでください」
くすぐったい会話に戸惑う私を見て、涼はまた楽しそうに笑った。
「明日は忘れないでね。雨が降った日、ここにいる間は俺が麻衣の恋人だよ。ちゃんと覚えた?」
この男の距離感、どうなってるの。
じりじりと詰め寄って顔の正面でコテンと顔を傾けた。
「ちゃんと覚えました。だから、少し離れてください」
同じベンチに座っている涼は、尚も距離を詰めてきて、覚えたての言葉を催促するかように手を添えた耳を傾ける。まるで内緒話を聞く時みたいに。”もう一度”と、言われているみたいに。
「りょう、少し離れて」
「よくできました」
そう言って、頭に乗った手がくしゃくしゃと髪の毛をかき回す。
文句を言いながら髪を直している最中、鳩尾の奥の方がジリジリと熱くなったような感覚があって、これは何だろうと考え始めた瞬間に震えた携帯の画面を見てみると、明日も雨のお知らせ。
私たちは明日も、この場所で恋人ごっこをする。
コメント
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とても思い、楽しく、胸がドキドキします
このお話は、忘れられません