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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
翌朝、遥が目を覚ましたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、フローリングの上に細長い白い線を引いている。昨夜まで暗闇に沈んでいたリビングは、今は埃っぽい穏やかな光に満ちていた。遥はしばらく天井を見つめ、自分の右腕の上に乗った重みに気づいて視線を落とした。
小夜が、眠っている。
遥の腕を枕代わりに、古いギターと並んで床に倒れ込んでいる妹の顔は、起きている時には決して見せない無防備な穏やかさを帯びていた。しなやかな指先は、遥の袖口をかすかに握り込んでいる。その節に乾いた血が薄くこびりついていた。弦を押さえすぎた、昨夜の傷跡だ。
彼はゆっくりと、音を立てずに身を起こした。小夜の指が一瞬ぴくりと動いたが、彼女の呼吸は乱れない。彼は袖口をそっと解放し、代わりに丸めた上着を彼女の腕の下に滑り込ませる。立ち上がりながら、薄暗いキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。昨夜と同じ、ほぼ空の棚。賞味期限が今日までの豆腐が一丁と、麦茶のペットボトル。それから、端に三個だけ残っている卵。遥はため息をつき、静かにコンロの火を点けた。手早くネギと豆腐を切り、味噌を溶かし、乾いた和布を放り込む。小鍋が落ち着いたところで、フライパンを取り出した。
卵を二個割る。菜箸で手早く溶き、塩をひとつまみ。砂糖は入れない。遥の玉子焼きは甘くない。それが小夜の好みだということを、特に確認したことはないが、小夜が文句を言ったこともない。フライパンに薄く油を引き、中火で熱する。溶き卵を流し込み、端から丁寧に巻いていく。何度も繰り返した、無駄のない動作だった。大した料理ではない。ただの玉子焼きだ。しかしその手つきだけは、不思議と丁寧だった。
湯気が立ち昇りはじめたころ、スマートフォンが振動した。画面に表示された送信者名を一瞥し、彼は鍋にかけた火を弱める。
『昨夜の件、処理完了。次の標的の件で話がある。また今夜、事務所に来てくれ。――慧』
短い文面。だが、桐生慧が”話がある”と送ってくるとき、それが世間話であった試しは一度もない。遥はスマートフォンをカウンターに伏せて置き、小鍋の味噌汁を椀によそった。玉子焼きを切り分けて小皿に並べる。もう一椀分と、もう一皿分を用意して、リビングへと持っていく。
「……小夜。飯」
低い声で呼ぶと、小夜がゆっくりと目を開けた。黒い瞳が焦点を結ぶまでの数秒間、彼女はいつも、この世界に存在することを確認するかのように瞬きをする。遥がそこにいることを視認して、初めて彼女の表情がほんの僅かに弛緩した。
「……遥」
「ほら食え。また抜くなよ」
小夜は返事の代わりに身を起こし、差し出された椀を無言で受け取った。その細い指が、温かい陶器をゆっくりと包み込む。湯気を吸い込んで、小夜がふと目を伏せた。
「……味噌の匂い、する」
「当たり前だろ」
「あと……遥の匂い」
遥は短く息を吐いた。小夜の視線が、椀の隣に置かれた小皿へと移った。玉子焼きが、不揃いではないが特別きれいでもない形で、三切れ並んでいる。小夜はしばらくそれを見てから、箸を取った。何も言わなかった。しかし一切れ口に入れた後、ほんの少しだけ、椀を持つ指先の力が緩んだ。それだけだった。遥にはそれで十分だった。
二人は並んでフローリングに座り、言葉もなく椀を傾けた。外では冬の風が電線を鳴らしている。室内には薄い陽光と、湯気の立つ味噌汁と、古いギターの冷たい輪郭だけがあった。
これが黒瀬遥の日常の、最も静かな断片だった。
■
「――凪。北側の第三倉庫、今どうなってる」
耳の奥に差し込んだ極小のイヤピースから、遥の低い声が届いた瞬間、灰谷凪の指先がキーボードの上を疾走した。
「見えてる見えてる、ちょっと待って」
廃工場街から三ブロック離れた雑居ビルの屋上。凪は防水シートの上にあぐらをかき、膝の上に乗せた薄型のタブレット端末へと視線を落としていた。首にかけたゴツいノイズキャンセリングヘッドホンは今夜、耳ではなく首の後ろにかけたまま。代わりに両耳には、通信用のイヤピースがしっかりと収まっている。夜風がパーカーのフードを攫おうとするが、凪は片手でフードを押さえながら、もう片方の手でスワイプを続けた。
「北側第三倉庫、熱源……六。いや、七か。うちひとつは壁際でほぼ静止してる。見張り兼スナイパーのポジション。窓枠から銃身がちょっとだけ出てる、雑だな」
「位置は」
「北北東……数えて三枚目の窓。距離はそっちから約四十メートル。あ、でも今夜は雲多いし、おまけに向こうは暗視ゴーグル装備してる可能性が高い。工場跡地の電灯、軒並み死んでるからな」
凪はタブレットの画面を二本指で拡大し、工場一帯に点在する熱源の光点をひとつひとつ確認する。これは彼が事前に仕込んだ超小型の複合センサー——気温差と微弱な電磁波を組み合わせて人体を検知する、既製品など欠片も入っていない完全な自作品だ。
「ていうか遥、もう潜ってるじゃん! 連絡遅いよ」
「……着いたのが今だ」
通信越しの声は、最低限の音量に絞り込まれている。遥が今どこにいるのか、凪はモニタリングしている熱源の中から一点を探した。工場外壁の陰、熱源の光点が限りなく薄い——通常の人間なら検知できないレベルまで体温を落とすような、あの異常な気配殺しが稼働している。
「……いた。外壁南側の死角。ちゃんとセンサーの盲点に入ってる、合格」
「慧は」
凪がそう呟いた瞬間、別の通信回線が繋がる音がした。
「ここにいるよ、黒瀬遥クン」
桐生慧の声は、いつも通り穏やかで、感情的な起伏がほとんどない。しかしその静けさの底には、今夜の場を完全に把握して俯瞰している者特有の、薄ら冷たい確信のようなものが流れていた。
「今夜の標的について、改めて整理しておこうか。凪、遥、聞いてくれ」
通信回線の向こうで、慧が重厚な封筒を開く、かすかな紙の音がした。
「組織名”クロムウェル”。三ヶ月ほど前に関東圏へ流入してきた、傭兵崩れの武装殺し屋集団だ。……ただし、そこら辺の”安売り殺し屋”とは毛色が違う」
「ふむふむ。どう違うの?」
「まず、母体が違う。構成員の大半はかつて民間軍事会社に所属していた元傭兵。各国の紛争地帯を転戦してきた実戦経験者たちが、金と腕前だけを頼りに再集結した組織だ。依頼の受け方も、単純な暗殺請負に留まらない。武装制圧、拉致、施設破壊、証拠湮滅……依頼主が望むなら戦場ひとつ丸ごとこなせる、小規模な軍隊に近い編成を取っている」
遥の通信に、短い沈黙があった。それから、ひどく静かな声が返ってきた。
「六課案件か」
「烏丸さんからの情報提供が入り口にはなってる。ただ例の如く、正式な依頼という体裁は取っていない。……”この辺りを綺麗にしてもらえると助かる”と書かれたメモが、事務所の郵便受けに入っていただけだ。受け取り人の名前もない。裏金の出所も追えない。実に烏丸さんらしい差し入れだよね」
「クソみたいな仕事の振り方するなあ、この国の公安さんは」
凪が素直な感想を呟いた。慧は小さく笑った。
「同感。でも、クロムウェルが今夜この廃工場に主力を集めているのは確かだ。理由は……彼らが横流しにした軍用品の最終受け渡しが、今夜ここで行われる予定だったから。その取引相手を、ソフィアが法的に完全に締め上げた結果、相手が会合に現れなかった。クロムウェルは今、想定外の事態に痺れを切らして内部で紛糾している最中のはずだ」
「混乱に乗じる、ということか」
「正確には……混乱を最大限に利用しながら、彼らが保有している情報を一滴残らず絞り出した上で、処理する。特に幹部クラスが保持しているだろう、上位依頼主のリストと通信記録が目当てだ。クロムウェルはあくまで末端の実行部隊に過ぎない。その向こう側に、もっと大きな何かがある」
数拍の間を置き、慧の声が一段低くなる。
「今夜の主目的は”情報の回収”。排除はその後だ、遥」
「……順番が逆になるかもしれねえ」
「それでも構わない。ただ、幹部の少なくとも一人は、話せる状態で残してくれると嬉しい」
「善処する」
「その言葉が一番信用できないんだけど、まあいいや」
凪がぽつりと呟き、タブレットの画面をスクロールした。
「そんでさ、慧。今夜の幹部って、具体的に誰が来てる?」
凪の問いに、慧は手元の資料を繰るような間を置いてから答えた。
「確認できているのは三人だ」
一呼吸。
「まず一人目。”クロムウェル”東日本方面の実動指揮官——コードネーム”ブリッジ”。本名、鷹羽 勁。三十二歳、元陸上自衛隊特殊部隊員。除隊後、東南アジアを中心に複数の紛争地帯で実戦を積んだ後、クロムウェルへ合流している。専門は接近戦と制圧戦術。部下の統率力が極めて高く、チームを使った包囲殲滅を得意とする。……厄介なのは、彼が戦術家である点だ。本人が最前線に立つよりも、部下を最適に配置して戦場全体を支配するタイプだと僕は見るね」
「はーん。なるほど。チェスプレイヤーか」
「そう。そして僕と似た匂いがする、という点で個人的に最も警戒している」
慧が淡々と続ける。
「二人目は”ペイン”。本名不明。推定年齢二十六歳から三十歳。国籍も不明、素性も不明。クロムウェル内でナンバーツーに位置する実力者だが、組織の外部に顔と名前が漏れることを極端に嫌う。……唯一判明しているのは、得物が対装甲用の狙撃ライフルであること、そして過去に彼が狙った標的で生き残った人間が、今のところ一人も存在しないということ」
「対装甲スペックのライフル……」
遥の声が静かに繰り返した。
「ああ。車両を一発で止め、コンクリートブロックを貫通する弾を使う男だ。遥、くれぐれも――」
「分かってる」
「固定物の陰に長居するな。壁が盾にならないから」
「……分かってると言った」
少しだけ、遥の声に面倒臭そうな響きが混ざった。
「三人目、”ヴァルキリー”。本名、エイメ・ソレル。二十四歳、フランス国籍。元対テロ特殊部隊崩れ。得物は近接格闘と爆発物の複合運用。……記録によれば、彼女が単独で制圧した施設の数は二桁を超える。爆発物を使った閉所制圧を得意とするが、接近戦の練度も相当だ。感情的で直情径行な戦い方をする傾向があるが、その判断の速さは一流だと思っていい」
「三人か」
「今夜確認できている分はな。末端の構成員は別として、この三人が今夜の標的だ。……順序は現場に任せるよ。凪、引き続き電子制圧を頼む」
「任せてよ。てかもう七割は終わってるし」
凪は片頬を吊り上げ、タブレットの画面に視線を戻す。工場一帯の監視カメラは、彼がアクセスした時点ですでに全て掌握済みだった。本来であれば”クロムウェル”が設置したはずのカメラの映像は、今や全て凪の手の中にある。彼らが見ているモニターには、加工された静止画が映し出され続けているだけだ。
「ブリッジ――鷹羽くんのチームが今夜使ってる暗号化通信、さっき解析完了したよ。使ってる暗号化の規格、二世代前の軍用規格で止まってた。……まあ、プロの傭兵にしては雑」
「ほう」
「チャンネル丸ごと乗っ取ってリアルタイムで傍受できる。それどころか、向こうが送信しようとしたデータを差し替えることも可能。試してみる?」
「……後で使う場面があるかもしれない。今は温存しておいてくれ」
「りょーかい。あと建物内の電源系統、第二ブレーカーまで掌握済み。言ってくれたらいつでも任意のゾーンを暗転できる。もちろん、俺のモニタリングには影響なし」
「完璧だ、凪」
慧の声に珍しく感嘆の色が混じった。凪は鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。……で、遥。今の位置教えて。そろそろルート案内してあげる」
通信の向こうで、ごく僅かな衣擦れの音がした。それだけで凪にはわかる。遥が動き始めた音だ。
「南壁の排気ダクト。外から三枚目のパネルが外れている」
「……見つけるの早すぎ。そこ、建築図面にも載ってないんだけど」
「目で見りゃわかる」
凪は思わず苦笑した。タブレットの熱源センサーが、南壁付近の光点がゆっくりと移動を始めたことを示している。音もなく、気配もなく、ただ静かに。
「……ほんとチートだよな、お前の五感」
呟きは通信に乗らなかった。凪はヘッドホンを首から外し、代わりにイヤピースのボリュームを絞り、集中のスイッチを深く入れた。夜風が廃工場の鉄骨を低く唸らせる。三つの熱源が内部で蠢いている。そしてもうひとつ――ほとんどセンサーに映らない、限りなく稀薄な影が、今夜も疾く静かに、獲物の方へ滑り込んでいった。