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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
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廃工場の外壁は、かつて何かの化学品を扱っていたらしく、コンクリートの表面が長年の腐食で鱗のように剥落し、剥き出しになった鉄筋が錆の染みを滲ませていた。工場群全体を囲む古い金網フェンスには、ところどころ不格好な補修の跡がある。しかしその補修が”クロムウェル”の手によるものであることは、使われている工具の種類と固定の角度を見れば明らかだった——素人目には同じ金網でも、軍の訓練を受けた人間は侵入者を想定した補強の癖が出る。遥はフェンスの外周を音もなく半周しながら、その癖を確認した。
南壁沿いの排気ダクトから滑り込んだのは、凪の誘導よりも三分早かった。パネルの隙間は成人男性の肩幅より僅かに狭い。しかし遥は息を細く吐き、肩の関節を意図的に抜くようにして身体を薄くし、音ひとつ立てず内部へと入り込んだ。ダクトの内壁は埃と油煙で黒く塗り固められており、這い進む度に錆の粉末が鼻腔を刺す。しかし遥の呼吸は一切乱れない。数秒ごとに静止し、金属の共鳴を聴く。足音。通信機のノイズ。銃の安全装置を弄る、乾いたクリック音。全て別々の方向から聞こえてくる。
「遥、ダクト出口の正面——約八メートル先に一人。壁を背に立ってる。煙草吸いながらスマホ見てるよ。最高に隙だらけ」
凪の声が耳の奥で静かに告げた。
「東側の通路を塞ぐ形で、もう一人が巡回中。今は十五メートル先、東向きに歩いてる。周期は凡そ九十秒。……タイミング的に、出口正面の奴を処理してから三十秒以内に東の巡回が戻ってくる計算」
遥は返事をしなかった。代わりに、ダクト内の進行速度がほんの少しだけ上がった。出口のルーバーは内側から指二本分押せば外れる——ダクトの設計図には記載のない、経年による歪みだ。遥はそれを指先の感触だけで確認し、静かに外した。
ダクトの出口は、工場一階の東棟と中央棟を繋ぐ連絡通路に面していた。かつては資材の搬送に使われていたのだろう、天井から無数のチェーンブロックが垂れ下がり、錆びついたまま固まっている。床には砕けたコンクリートの破片と、踏み荒らされた薄い砂埃の層。蛍光灯は半分以上が死んでいて、辛うじて生きているものも、痙攣するような点滅を繰り返すだけだ。その不規則な明滅が、通路全体に歪んだ影を踊らせている。
壁を背にして立っていた男は、思ったより若かった。二十代後半。迷彩柄のコンバットシャツに厚手の防弾ベスト。腰のホルスターには大口径のセミオートマチック。左手にはスマートフォン、右手には吸いかけの煙草。画面の光が彼の顎の下を青白く照らし、目元には長距離移動の疲れが色濃く残っている。
傭兵崩れの実戦経験者ではあるのだろう。しかし今夜この男に足りないのは、たったひとつ――この空間に入り込んでいる”何か”が人間のそれではないという、その認識だった。
遥はチェーンブロックの影を経由し、音もなく男の背後三メートルに降り立った。足音はない。着地の衝撃は膝と爪先で完全に吸収されている。安全靴のゴム底が、砂埃の上を滑るように進む。男がスマートフォンのページをスクロールした、その一瞬の視線の動きに合わせて。
遥の左腕が、男の顎の下に深く滑り込んだ。
首への圧迫は三秒。それ以下でもそれ以上でもない。男は声帯を使う間もなく意識を落とし、崩れるように膝から崩れた。遥は片腕でその体重を受け止め、音を立てずに床へ横たえる。煙草が指先から離れる前に、遥は左手で掴み止めた。先端の火を、男の防弾ベストのベルクロの角で静かに揉み消す。
「処理完了。東の巡回まで残り何秒」
「二十二秒。……今の、本当に足音ゼロだったな」
「うるさい。隠せる場所」
「東棟に向かって左手、金属棚の影。棚の後ろに隙間ある。センサーには引っかからない位置」
遥は男の身体を引きずった。摩擦を最小限にするよう、背中ではなく側面を床に接地させ、腰を低くして滑らせる。棚の影は丁度一人分の死角を作っていた。遥は男をその奥へと押し込み、防弾ベストの胸元に手を突っ込んで通信機を引き抜いた。電源を切り、ポケットへ。
九秒後、東側から巡回の足音が戻ってきた。
「次、中央棟に二人固まってる。片方は機材チェックしてるっぽい、もう片方が真後ろで立ってる。……同僚同士で話してるっぽいな、身体の向きがリラックスしてる。でも隠密で二人同時は厳しくない?」
「問題ない」
「ほんとに?」
「灯りを落とせるか」
凪の指が一瞬止まった。それから、にやりとした気配が通信越しに伝わってきた。
「当然。中央棟の第二系統だけ、ピンポイントで落とせる」
「合図したら、落とせ。三秒だけでいい。戻して構わない」
中央棟への移動は、南側の搬入口経由で行った。かつてフォークリフトが通っていた幅広の開口部は、今は鉄板で塞がれているが、下端の溶接が一部剥がれている。遥は身体を水平に近い角度まで傾け、隙間を音もなく通り抜けた。
中央棟の内部は、東棟より遥かに広い。天井高は十メートルを超え、かつて大型機械が据え付けられていたであろう基礎の跡が、等間隔に床を穿って並んでいる。奥には錆びた鉄骨の梁が幾本も空中に渡されており、その一部には今夜”クロムウェル”が持ち込んだらしい折り畳み式の作業テーブルと、軍用品の入ったらしき無骨な木箱が積み上げられていた。
二人の男は、その木箱の手前にいた。一人は膝をついてリストを確認している。もう一人は腕を組んで立ち、ヘルメットを脱いで小脇に抱えたままだ。会話の内容までは聞き取れないが、声のトーンは低く、苛立ちが混じっている——取引相手が現れなかったことへの不満だろう。
遥は天井の梁を見上げた。錆びているが、荷重には十分耐えられる太さだ。梁と梁の間に渡された、古い搬送レールの支柱。遥は跳躍し、音もなく支柱を掴むと、そのまま身体を水平に保ちながら梁の上へと移動した。ほとんど逆上がりに近い動きが、何の予備動作も助走もなく成立している。
「いつでも」
遥が極小の声で言った。
「了解。三、二――」
バチン、と遠くでブレーカーが落ちる微かな音がした。中央棟の蛍光灯が、全て同時に死んだ。
闇の中、遥はすでに梁の上から床へ向けて降下している。落下の軌道は二人の男を結ぶ直線の真上。着地は膝をクッションにして完全に無音。一人目の男の頸部に、肘の内側をカマのように引っかけて後方へ引き倒す。倒れる身体が二人目の男に当たる一瞬の隙を、遥は逃さない——二人目の男の後頭部を右手で掴み、コンクリートの柱へ向けて一呼吸で叩きつけた。
蛍光灯が戻った時、二人の男は床の上にいた。
「うわ……見えなかった。暗視フィルターでも何も見えなかった」
凪の声に珍しく純粋な驚きの色がある。
「動いてたからな」
「え? ……体温コントロールしてたの? 今?」
遥は答えなかった。二人の身体を木箱の陰に引き込みながら、それぞれの通信機と、腰のホルスターから抜いた銃器を回収する。銃は安全装置をかけたまま、木箱の隙間へ押し込んだ。使えなくすれば十分だ。
「残りの熱源を確認してくれ」
「今やってる。……東棟の上階に二人、並んで動いてる。たぶん巡回ペアだ。それから——中央棟の北側、一段上がった監視デッキっぽいとこに一人。ここが厄介。ポジション的に中央棟全体を俯瞰できる位置だ」
「武装は」
「肩幅と熱源の形から推定すると、長銃持ってる。スナイパーかサブマシンガンか、どっちかだな」
「監視デッキへの上がり口は」
「北壁沿いに鉄製の外付け階段がある。ただし、デッキ上の人間から丸見えになる位置に出口がある。……正面突破は無理だと思う」
「梁から行く。今いる位置から繋がってるか」
凪はタブレットの画面を素早く切り替え、事前に入手していた建築図面——と、そこに自分で書き込んだ修正データを重ね合わせた。
「……繋がってる。ただ途中一箇所、梁と梁の間に三メートルの隙間がある。図面上は補助ワイヤーが張られてたはずだけど、今もあるかどうかは確認できてない」
「あれば使う。なければ飛ぶ」
「飛べるの、三メートル」
「横幅なら」
また凪が黙った。遥が何を言っているのか、一秒後には理解した。梁の上で横向きに跳躍すれば、三メートルは不可能ではない。ただし着地する梁の幅は二十センチ以下だ。暗い工場の天井、十メートル超の高さで。
「ええ……人間辞めてるでしょ」
呟きは独り言だった。通信に乗せるつもりもなかったが、遥には届いていたらしい。
「うるさい」
低く返ってきた声に、凪は思わず片頬を緩めた。
梁の上の移動は、地上から見れば影が動いているようにしか見えない。遥は鉄骨の表面を素足のような精度で踏みしめながら、北壁側へと進んだ。古い塗装が剥落し、剥き出しの鉄が夜気を吸って冷えている。掌が触れた感触だけで、そこに自重を預けられるかどうかを判断する。
補助ワイヤーは、残っていた。 ただし一本が完全に腐食し、触れた瞬間に音を立てて千切れた。遥は千切れたワイヤーが床に落ちるより早く、空中で掴み止めた。もう一本のワイヤーだけを片手で掴み、振り子の要領で隙間を渡る。梁への着地は、両足の爪先だけで衝撃を殺した。
「北壁の監視デッキ、そっから見えてる?」
「ああ。対象は今、北側の窓から外を見ている。振り返りまで……十秒もなさそうだ」
遥の眼下に、監視デッキの手すりが見えた。金属製のグレーチング床材。その上に、一人の男が立っている。長銃——サブマシンガンだ。無骨な銃床のシルエット。男の首の後ろには深い日焼けの跡と、特徴的な形の傷痕がある。紛争地帯で活動してきた人間特有の、肌に刻まれた経歴だ。
「行く」
「待って、もうちょっと――」
遥はすでに梁から離れていた。
落下は完全に垂直。グレーチングの床材の、男の背後ぎりぎりに両足が同時に落ちる。足音は、ほとんどない。しかし金属格子の僅かな振動は殺せない——男が反応するより、遥の右腕が先だった。首に回した腕で気道を完全に塞ぎ、サブマシンガンのストラップを左手で掴んで銃を奪いながら、男の身体を静かに床へ下ろしていく。
意識が落ちるまでの間、男は腕を振り回した。遥の右腕を掴もうとし、壁を蹴り、足首で蹴り上げた。しかし全ての抵抗は、最小限の体さばきで受け流された。二度目の強い蹴りが遥の脇腹に入ったが、彼は微動だにしなかった。
静寂。
遥は男をデッキの隅に引き込み、奪ったサブマシンガンのマガジンを抜いて放り、銃身を手すりの鉄格子に無造作に叩きつけて機関部を歪ませた。もう使えない。
「……デッキ上、対象の沈黙を確認」
凪の声に初めて微かな緊張の解け方があった。
「遥、今の脇腹、蹴られてたよね」
「問題ない」
「一応聞いただけ。……残りの熱源、整理するよ」
凪はタブレットを操作しながら、声のトーンを切り替えた。
「東棟二階に巡回ペアが二人。それから——中央棟の奥、ここまで動いていない三つの熱源がある。位置と間隔からして、壁際のテーブルに座ってるか、あるいは立ったまま話し合ってる感じ。……たぶんここが、ブリッジ、ペイン、ヴァルキリーの三人だ」
遥はデッキの手すりに片手をかけ、暗い中央棟の奥を見下ろした。
「巡回の二人は」
「こっちで何とかする」
慧の声が、初めて割り込んできた。通信の向こうに、乾いた紙の音が重なった。
「今夜の会合に使っているはずの、彼らの連絡用回線に……ちょうど今、”取引相手から緊急の折り返し連絡”が入ることになっている。発信元は偽装済み。内容は東棟正面入り口への誘導だ。巡回中の二人には、そちらへ向かうよう指示が飛ぶはずだよ」
「……お堅いさんがそんなことできるんだ」
凪が素直に感嘆した。
「ソフィアが書類の準備をしながら余った手でやってくれた。……彼女は本当に、マルチタスクが得意だね」
「チームの平均スペックが高すぎる。バランス崩壊してる」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
数十秒後、東棟の二つの熱源が動いた。凪がリアルタイムで追いながら告げる。
「動いた。正面入り口方向に向かってる。……遥、中央棟の奥、今が一番人が少ない」
遥は手すりから手を離した。降りる足音はやはりない。中央棟の奥、三つの熱源を目掛け、遥は暗がりの中を獣のように滑らかに進んでいく。
■
中央棟の最奥は、かつてボイラー室として使われていた区画だった。
重厚な鉄扉は蝶番ごと外されて壁に立てかけられており、内部は外壁の厚みのせいで外気より僅かに温度が高い。天井は低く、三メートルほど。剥き出しのパイプが頭上を這い、煤で黒く変色した壁には古い計器盤の残骸がそのまま残されている。床の中央には折り畳み式の作業テーブルが広げられ、その上には開かれたノートパソコン、紙の地図、それから無骨な金属ケースが一つ置かれていた。
そこに三人の人間がいた。
テーブルの正面に立つのは、鷹羽勁。中肉中背で、一見すると目立たない体格だ。短く刈り込んだ黒髪、日焼けで色の濃くなった顎の線、表情の読みにくい細い目。しかしその立ち姿には、長年前線に立ち続けてきた者だけが持つ、無駄を削ぎ落とした静けさがある。コンバットブーツのつま先がごく僅かに外を向いており、いつでも重心を動かせる構えを保ちながら、一見してただ地図を見ているように見せている。
テーブルの左端、壁に背をもたせかけるようにして立っているのが、”ペイン”と呼ばれる男。細身で背が高く、顔の輪郭を隠すようにバラクラバを顎まで下げている。眼光だけが際立って鋭く、室内のどこを見ているのかがわからない。足元には折り畳んだ大型のケースが立てかけられていた——狙撃ライフルを収めるには十分な大きさだ。しかし今、彼の腰のホルスターには短い銃身のピストルが一丁。接近戦での備えを最小限にしか持たない男が、今夜室内に留まっているということ自体が、一種の警告だった。
そして部屋の右奥、壁に設置された古い配電盤の上に腰掛けているのが、エイメ・ソレル。短く切り揃えた濃い栗色の髪、欧州特有の濃く白い肌、目の下に走る細い傷跡。くたびれた戦闘ジャケットのポケットには、起爆用のリモコンらしき矩形の膨らみがある。足を組んで退屈そうに爪の汚れを確かめていた彼女は、鷹羽が地図の一点を指で叩く音に顔を上げた。
「取引相手が現れないなら、今夜の会合は中止だ。荷物を纏めて――」
鷹羽の言葉が止まった。部屋の空気そのものが、一瞬で別のものへと変質する。彼の細い目が低い天井の方へと向いた。ペインの右手が反射的にホルスターへと動く。エイメが組んでいた足を解き、配電盤から無音で床に降り立つ。
三人の訓練された本能が、同じものを感じ取っていた。
気配ではない。むしろその逆――気配が消えた、という異常を。
室内に入り込んできた”何か”は、音も、殺気も、体温の揺らぎすら持っていない。
「上だ」
鷹羽が低く言い切った瞬間、天井のパイプから影が落ちる。
遥が最初に狙ったのは、ペインだった。
理由は単純だ――この三人の中で、遠距離から自分を殺せる人間を最初に潰す。鷹羽の分析通り、接近戦の備えが薄いペインが室内にいる今夜は、むしろ好機だった。
天井のパイプを蹴台にして降下しながら、遥の右足は真っ直ぐペインの側頭部へと向かう。
しかしペインは、寸前でそれを避けた。
完璧なタイミングで一歩後退し、蹴りの軌道を完全に外した。予備動作のない、着地前の蹴りを。驚くべきはその反応速度ではなく、彼が最初から遥の着地点を読んでいた、という事実だった。天井を見上げた瞬間に、落下の軌道を計算していたのだ。
「っ……」
遥の足がペインの肩を掠め、床に着地する。その瞬間を待ち構えていたように、ペインのピストルが抜かれた。銃口が遥の頭部を正確に捉える。
射線上から身体を外すより早く、パン、と乾いた銃声が狭い室内に弾けた。瞬時に遥は頭ではなく、上体だけを僅かに右へ傾ける。弾丸は遥の左頬を——皮膚一枚分の厚みで掠めた。
熱い。
鋭い焼け切るような痛みが、頬骨の下を一閃する。切れた、とわかる。血が顎の線に沿って伝い始める感触がある。しかし遥の目から、温度は消えたままだった。
「……惜しいな」
遥が静かに言った。
ペインの眼光が、初めて僅かに揺れた。ほとんど人間と思えない初速で間合いを詰めてきた男が、今、自分が撃った銃弾の傷を気にもしていない。その事実が、初めてペインの計算を狂わせた。
二発目を撃つより早く、遥の右手が伸びた。
銃身を掴むでなく――ペインの手首ごと、銃を内側に向けて巻き込んだ。関節の可動域を超えた方向に、骨が悲鳴を上げる角度で。
ゴキャッ、という音と同時に、ペインの手から銃が落ちた。
遥は奪った銃を後方へ無造作に放り投げながら、折れた手首を掴んだまま踏み込む。ペインは苦痛の中でも冷静に、折れた側の腕の肘を遥の顎へ向けて叩き込もうとした。熟練の身体が反射的に動いた、最後の抵抗だった。
遥はそれを顎ではなく、額の中央で受けた。
頑丈な額の骨で、肘の内側の細い骨が砕ける嫌な音が鳴る。ペインの口から声にならない呻きが漏れた。その隙を遥は一切逃さない。右の掌底がペインの鼻骨を真上から叩き潰した。頭蓋への衝撃が脳幹を揺らし、ペインの長身がくの字に折れて崩れ落ちた。床に膝をついた彼の後頭部に、遥の膝が落ちる。
動かなくなった。全て、四秒の出来事だった。
しかし遥はすでに、その短い間に起きていた別の動きを把握していた。
散開する他の二人。エイメが反射的に部屋の右奥へと走ったのと同時に、鷹羽はテーブルを蹴り倒して盾にしながら、腰のホルスターへ手を伸ばしていた。遥の背後に回り込むための横移動——直接の攻撃ではなく、エイメが動き始めた時間を使って、射線を取るための体捌き。正面切って戦うのではなく、相棒の動きに連動して遥を挟み込む。戦術家の判断だった。
速い。そして、静かだ。
遥はペインの崩れ落ちた身体を蹴って距離を作りながら、右手を腰のホルスターへ伸ばした。今夜初めて、銃を抜く。
狙いは一瞬で二点に割れた。
まず――右の鷹羽。
銃口がホルスターから抜け切る寸前、遥の弾丸が鷹羽のピストルのスライド部を正確に打ち抜いた。金属の破砕音が室内に弾け、鷹羽の手から銃が弾き飛ぶ。鷹羽の細い目が、僅かに見開かれた。銃を抜く動作が完了する前に、銃そのものを撃ち落とされた。それが何を意味するのか——彼は一瞬で理解し、両手を静かに開いた。
次いで――左のエイメ。
配電盤の陰へ滑り込もうとしていた彼女の左肩に、二発目が吸い込まれた。鈍く肉を抉る音。
「ッ——ァ……!」
エイメの身体が、壁に激突するように横へ跳ねた。左肩から先の感覚が消え、リモコンを握っていた左手の力が一瞬で抜ける。彼女は壁に背をぶつけながらも、膝をついて崩れることなく、右手でナイフを抜いた。
やはり、速い。
肩を撃たれた直後に獲物を抜く。痛みと出血と、それでも消えない戦闘意志。エイメ・ソレルという人間の練度が、その一動作に凝縮されていた。
「……凪」
遥が一言だけ放った。返事はない。代わりに、工場の外から微かな駆動音が入り込んできた。
凪が事前に仕込んでいた超小型の偵察ドローン――手のひらに収まる大きさで、プロペラのノイズを限界まで絞った自作機――が、中央棟の換気口を経由して室内へと侵入していた。熱源センサーとカメラを搭載したそれは、凪のタブレット画面に配電盤裏へ向かうエイメの位置をリアルタイムで映し出している。
「右奥の配電盤、ちょうど裏に回り込もうとしてる。ポケットのリモコン、取り出そうとしてる——たぶん事前に仕込んだ爆発物のトリガー」
凪の声は珍しく速かった。
「壁に何か貼り付けてある。熱源に小さい輝点が三つ、出入口付近と天井の梁に。……C4か、似た系統の成形炸薬だと思う。遥、今いる位置から出口方向に動くな」
遥は動かない。エイメが配電盤の陰でリモコンの安全ピンを抜こうとする音が、静寂の中に届いた。
「消せるか」
「電源系統から信管に干渉できるかもしれない。……でも確実じゃない、五秒くれ」
「ない」
遥が踏み込んだ。テーブルを跨ぎ、床を三歩で詰める。肩を撃ち抜かれながらも配電盤の陰から正面に飛び出したエイメが、リモコンを左手に握りしめたまま振り返る。左肩からは血が止まらないが、右手のコンバットナイフの切っ先は一切揺れていなかった。その目に恐怖は滲んでいない。
薫り高い、一流の刃さばきだった。
アンダーハンドから跳ね上げる軌道——刃が遥の腹部を斜めに裂こうとする角度は、防御の手を入れにくい訓練の結晶だった。遥は身体を半身に引き、刃の軌道を腹から外す。しかしエイメはその回避を読んでいた。跳ね上げた刃をそのままスナップで返し、二の太刀が遥の利き腕の内側を狙う。
すると、遥の右腕の刺青が歪んだ。刃が来るよりも速く、遥の左手がエイメの右手首を骨ごと包み込むように掴んだのだ。
指が食い込み、エイメの顔が苦痛に歪んだ。撃たれた左肩への振動が走り、彼女の呼吸が一瞬乱れる。
「ッ……離せ、この――」
フランス訛りの混じった罵倒が切れた。遥の注意がリモコンに向いた刹那、彼女の膝が遥の鳩尾を狙って跳ね上がる。しかし遥は一歩も退かなかった。腹筋の壁で膝を受け止めたまま、エイメの右手首を握り込んだ左手を、そのまま下方へ向けて全体重でねじ込んだ。
関節が限界を超え、リモコンが床に落ちた。
エイメの口から獣のような叫びが出る前に、遥の右肘が彼女の側頭部を打ち抜いた。壁への激突音が室内に響き、鮮血を引きながら、彼女の身体がずるずると床へ崩れる。遥はエイメが手放したリモコンを踏み潰し、内部の基板を完全に砕いた。
床の上でエイメは、短く、激しく痙攣し――その動きを止めた。熱い目で天井を見たまま息の気配が消える。
「起爆信号、消えた。……俺も今ちょうど干渉かけたとこだったけど、要らなかったな」
凪の声が届いた。遅れて電子的な妨害をかけたらしい。間に合ったのか間に合わなかったのかは、もはやどちらでも同じだった。
「壁の爆発物は?」
「仕掛けは残ってる。でも信管の電源切った。物理的には安全。……後で慧に処理頼んで」
「ああ」
遥は顎の血を手の甲で拭った。頬の傷はまだ滲んでいる。深くはないが、痛みは継続していた。
そして、残された鷹羽勁。彼は部屋の中央に立っていた。銃を弾き飛ばされた右手を静かに下げ、両手を開いたまま、遥を正面から見据える。瞬く間にペインが沈み、エイメが床に伏した。その全てを、鷹羽は動かずに見届けていた。いや、正確には――見ながら計算していた。今尚この状況で。
「……強いな」
鷹羽の声には、感情的な揺れが一切なかった。
「俺の記憶の中で、ペインに二発撃たせたのはお前が初めてだ。一発目は弾を掠らせた。それは……わざとか?」
遥は答えなかった。頬の傷から血が一筋、顎に向かって流れていく。鷹羽は静かに鼻を鳴らすと、その場にゆっくりと腰を下ろした。
「何もしないのか」
「抵抗は無駄だとわかった。……それに俺は、話せる」
鷹羽の細い目が、遥の目を正面から捉えた。諦めの感情は読み取れない。それは、追い詰められた戦術家が選んだ――最後の、最善の手だった。
「お前たちが欲しい情報を持っている。クロムウェルを動かしている依頼主の名前、資金の流れ、次の標的リスト。全部だ。……交換条件を聞いてくれるか」
「話せ」
遥は近づきながら、静かに言った。
「交換条件は、後で聞く」
鷹羽の目が一瞬だけ笑った気がした。
「……わかった」
それから十分間、ボイラー室の奥で交わされた会話を、凪はイヤピース越しに全て記録した。慧は同時に、鷹羽の発した固有名詞と数字をリアルタイムで検索にかけていく。
鷹羽は嘘をつかなかった。
嘘をつく必要がないほど、彼は賢かった。クロムウェルの上位依頼主の名前、複数の口座番号、暗号化された通信サーバーのアクセスキー、そして今後三件分の暗殺依頼のターゲットリスト――それらを、順を追って、正確に、一切の淀みなく吐き出した。自分が今夜ここで何かを失うことは最初から織り込み済みで、それでも失わずに済むものを精確に選び取っているような、静かな潔さがあった。
「……以上だ。俺が持っている情報は全て渡した」
鷹羽は壁に背をもたせかけたまま言った。
「交換条件だが――」
「聞いた」
遥が静かに遮る。鷹羽の目が僅かに揺れた。戦術家として最善を尽くし、持てる全てを差し出した男の、最期の一瞬だった。その揺れはすぐに静まり、鷹羽勁という人間の瞳から、ゆっくりと光が引いていく。火薬と血の匂いだけを残し、やがてボイラー室に静寂が戻った。
「……全部取れたよ。音声も、数字も、アクセスキーも、全部」
凪の声が通信に乗ってきた。記録を確認しているのか、タブレットを操作する微かな音が混じっている。
「慧、データ送った。そっちで照合してくれ」
「受け取った。……見事な情報量だ。上位依頼主の名前は、六課の烏丸さんが聞いたら顔色を変えるかもしれないな」
慧の声は穏やかだった。しかしその穏やかさの底に、今夜の収穫の大きさを静かに測っている冷たさが流れていた。
「では、後始末を始めよう」
数秒の間があった。それから——工場内に張り巡らされたクロムウェルの通信回線に、鷹羽の声が流れる。
正確には、鷹羽の声を完璧に再現した音声だった。慧が今夜の会話を記録し、僅か数分で構築したフェイク音声。抑揚、呼吸の間合い、周波数の癖——どれをとっても、本人と区別がつかない。通信訓練を積んだ構成員の耳にすら、それは鷹羽 勁の声として届くはずだった。
『取引相手から連絡が取れた。一時撤収する。各員、第二集合点へ移動。繰り返す、第二集合点へ――』
「……東棟の二人、動いた。他倉庫の面々も。工場から出てく」
凪の声に、珍しく感嘆に近い色があった。
「これ……すごいな。本人の声と区別つかない」
「だろ? 今夜のサンプルが予想以上に取れたからね」
慧の声に、いつもの飄々とした色が静かに戻っていた。
「後は六課に任せよう。爆発物の処理も含めて、烏丸さんへの手土産としては十分すぎるくらいだ」
「相変わらず、えげつない仕事するな慧さんは」
「はは。光栄だよ」
短い沈黙があり、慧の声が少しだけ温度を変えた。
「……遥。頬の傷、深くないか」
「浅い」
「ならいいが。帰ったらソフィアに見せなさい。あの子、放っておくと夜通し心配するから」
「……うるさい」
短く返すが、しかし拒絶の声音ではなかった。
そのまま工場を抜け出た遥は、廃工場街を縫う路地を音もなく歩いた。夜風が頬の傷を撫でる。ペインの弾丸が残した一閃——浅く、しかし確かに皮膚を裂いた跡は、すでに血が固まり始めていた。遥は指先でその縁をごく軽く触れ、それ以上は気にしなかった。
空はまだ白み始めてはいない。闇の底だ。廃工場の鉄骨が風に唸り、遠くで貨物列車の低い音が地面を伝ってくる。ネオンの色すら届かない暗がりの中、遥は煙草を一本取り出した。ジッポライターの炎が、頬の傷と、右腕の刺青を一瞬だけ照らし出す。
紫煙を深く吸い込み、空に向けて吐き出した。今夜片付けたものの重さを、遥は計算しない。計算する必要を感じない。ただこの乾いた時代の底で、命を金に換える者たちが一つ減った。それだけだ。
遥は踵を返し、暗い路地の奥へと歩き始めた。帰る場所がある。待っている人間がいる。それだけが、この青年を修羅の道から完全に呑み込ませずにいる、細い細い一本の糸だった。今夜もまた、血の匂いを纏いながら、黒瀬遥は夜の中へ消えていった。