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教室の窓から射し込む夕陽が、机の上を朱に染めていた。
放課後の空気は冷たく、どこか張りつめている。
ほとんどの生徒が帰った後の静けさの中、遥はカバンを閉める手を止めた。
そのとき――廊下から、軽やかな足音。
「……やっぱり、まだいたんだ」
振り返ると、扉の向こうに怜央菜が立っていた。
他校の制服の上から羽織ったカーディガン。
柔らかく微笑むその表情には、どこか見慣れた温度と、得体の知れない冷たさが混ざっていた。
「何の用」
「そんな言い方しないの。ちょっと話がしたくて」
怜央菜は勝手に教室に入り、窓際の机に腰をかけた。
その動作が、まるで自分の部屋にいるかのように自然だった。
「……今日、日下部と話したでしょ?」
遥の肩がわずかに跳ねる。
「別に、見張ってたわけじゃないよ。日下部、帰りに私に声かけてきたの。あなたのこと、心配してた」
「……余計なこと言った?」
「いいえ。ただ“助けたい”って」
怜央菜はそこで小さく笑った。
夕陽に照らされた横顔は美しく、けれどその微笑みの奥には、どこか空洞のような静けさがあった。
「ねぇ遥。あなた、本当にあいつに“助けてもらいたい”の?」
「……」
「もし、そうなら止めたほうがいいと思う」
「なんで」
「だって、あいつは優しすぎる。あなたが抱えてるもの、きっと背負いきれない。……あなたのせいで、壊れるよ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
怜央菜はその反応を確かめるように、そっと距離を詰めてきた。
机の角に手を置き、腰を少し傾けながら、囁くように言う。
「あなたが傍にいるだけで、誰かが傷つくの。……それ、分かってるでしょ?」
「そんなの、俺のせいじゃ――」
「違う? 本当に?」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「晃司も、颯馬も、あんなふうになったのは……全部、あなたが中途半端に“守られようとした”から」
遥は息を詰まらせる。
怜央菜は笑わない。
目だけが、まっすぐ遥を射抜いていた。
「誰かがあなたを庇えば、誰かが代わりに痛い思いをする。
それがこの家の“秩序”なの。……わたしも、あなたも、それを壊すことはできない」
「……そんなの、秩序じゃない」
「でも現実よ。ねぇ遥、あなた、いつまで“夢”を見てるの?」
その“夢”という言葉に、心臓がひどく跳ねた。
昨夜の夢の断片が一瞬、脳裏をかすめる。
暗い廊下、日下部の声、触れられた手のぬくもり。
――“俺がいるから”。
その言葉だけが、痛みを和らげてくれた気がした。
怜央菜は、そんな遥の動揺を見逃さない。
静かに立ち上がり、耳元で囁く。
「日下部に、もう近づかないで。
あいつを守るなら、あなたが沈むしかないの。……それがいちばん、正しい形」
その声は、まるで祈りのように穏やかだった。
けれど、遥にはそれが“宣告”のように聞こえた。
怜央菜は扉の前で立ち止まり、軽く振り返る。
「……ねぇ、遥。
あなたが苦しむのは、みんなのためでもあるんだから。忘れないでね」
夕陽が沈み、教室は影に包まれた。
遥は机の上に両手を置き、深く息を吐いた。
怜央菜の残した香りが、まだ空気の中に残っている。
その匂いの向こうで、日下部の声が遠く響く。
――「俺は、聞きたいんだ」。
その優しさが、いまは何よりも痛かった。