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庭師として認められた時に師から譲り受けた剪定バサミは、何十年という月日が経ってもその切れ味は変わらない。森の館の植木を整えながら、老人は前を堂々と横切って花壇の片隅に穴を掘ろうとしている縞模様を目で追っていた。
「こら、そこで用を足すな」
気持ち程度に掘られた小さな穴へお尻をかがめるトラ猫が、今まさに花壇の中で何をしようとしているのかに気付いて声を荒げた。
ティグはチラリと庭師の方に視線を送ったが、特に気にも留めてないようだった。すぐにまた体勢を整えて、眉間に力を込める。
「出したばかりのは肥料にはなんねえんだよ。花が枯れるから、やめてくれ……」
クロードの嘆きの言葉も、猫には届いていない。トラ猫は一度穴の中を確認した後、片手でささっと土を被せている。こんもりと積み上がった山が完成すると、満足そうに尻尾を伸ばして結界の外へと出て行った。
猫の後ろ姿を見送りながら、眉をひそめた老人は呟く。
「出掛けるんなら、森でしてきてくれよ……」
いつの間にか、館で見かける猫が増えていた。一匹だけの時は気にならなかったが、最近は花壇のあちらこちらで小山を発見するようになった。間違いなく、今の縞々が犯人だろう。
ベル達が森から連れて帰って来た中に、クロードも知っている顔があったのには驚いた。以前に本邸で見た時はジークから虎の子だと言われて素直に信じてしまったが、今見れば「どこが虎の子だ」と笑い飛ばす自信がある。
朝一で大人の猫達が朝食を貰っている間に、ホールの片隅に置かれた木箱の中を覗いてみた。毛布が敷き詰められたそこには、思い思いの体勢で眠る子猫が5匹もいた。
「幻獣って、何なんだろうな……」
今、その子猫達は彼が新しく作った浅い木箱を寝床にしていた。よじ登っても怪我しない高さのおかげで、自由に外を歩き回れるようになった。なので、ホールに入る時は足元に注意するようにとベルからもキツく言われている。
ソファーの真下に潜り込んで遊んでいるチビ達の様子を気にしながら、葉月はケヴィンから貰った書物を膝に置いたまま、隣で眠る愛猫の背を撫でていた。
――猫は自分が決断するのを待ってくれているような、そんな気がする。
すぐ帰ろうと簡単に言えるくらい、嫌な世界だったら良かった。すっかり馴染んでしまったこの世界との別れは、寂しいという言葉だけでは表せない。いろいろと変わりつつある状況をベルと共に見守って行きたかった。
押し黙っている葉月の顔を森の魔女は向かいの席から覗き込む。
「葉月……?」
「ベルさんとジョセフさんの今後とか、ガラス製品のこととか、気になることがいっぱいあって……」
「ガラスのことはともかく――ジョセフとは何も変わらないわよ」
ベルは少しむくれたように言うが、自分が来たことで変わり始めた事柄の行く末を見られないのは、とてつもなく残念だ。
――けど、お母さんとお父さん、心配してるだろうなぁ……。学校とか、どうなってるんだろう?
早いもので、この世界に転移してから2か月ほどが過ぎていた。高校は下手したら退学か、単位不足で留年だろうなと思うと、少しばかり帰るのが嫌にもなる。
ソファーに爪を立て始めた子猫達を制しながら、その内の一匹――三毛のオスを捕まえて、隣に眠るくーの横に置いてみる。くーは慣れたように子猫の顔を舐めてやり、子猫の方もじゃれつくように白黒の頭によじ登ろうとしていた。
子猫達の成長も見届けたい。けれど、そういうことを言えばキリが無いのも分かってる。
――だから、決めた。
葉月は向かいに座ってカップに口を付けているベルに、はっきりと告げた。
「元の世界に、帰りますね」
薬草茶を一口飲んでから、ベルは目を細めて小さく頷いた。弟子の決断は、黙って見守ることにしている。葉月以外にもいた過去の弟子達も、辞めたいと言えばすぐに受け入れたし、止めることはしなかった。今回も同じだ。
「くーちゃん、帰ろう」
三毛の相手をしている愛猫に、少しだけ震えた声を掛けた。宣言した後、ベルの顔がまともに見れなくなった。帰るなら、最後まで笑顔でいたい。
「みゃーん」
鳴いてからソファーの上で立ち上がると、くーのお腹に乗っていた三毛がころんと転がった。「みー、みー」と鳴く子猫の頭を指先で撫でてやると、不思議そうに葉月の顔を見上げていた。
トンと軽い足音を立てて降りると、愛猫の目の前、ホールの中央には見覚えのある光の塊が現れた。葉月が満月の夜に自室で見た、ぼんやりとした薄い光。発光しているようだが決して眩しくはなく、それはゆらゆらと揺らめいていた。その揺らめきが止まれば、元の世界への転移が可能になる合図だ。
揺らめきが止まった時、葉月は少し離れたところに控えているマーサを見た。目元を抑えながら、何度も頷いている世話係の傍にはナァーが寄り添っていた。
いつの間にか外から帰って来たティグは、ベルの足下でちょこんと座っている。三毛以外の子猫達はいきなり出現した光の塊に驚いたのか、ソファーの下から様子を伺っているようだった。
「ベルさん……」
「大丈夫よ。全ては上手くいくわ」
立ち上がった葉月の手に、ベルはケヴィンの書いた本を持たせた。これには葉月がここに居た証拠が詰まっている、と。
愛猫に続いて、光の塊へと近づいていく。これに触れたら、元の世界へと戻れるのだ。光の前で葉月を待つ猫が、促すように一鳴きする。
「みゃーん」
触れた瞬間に光量が上がった眩しさで、ぐっと目を瞑る。後ろから聞こえてきた、ベルの「あ!」という驚いたような声は聞き洩らさなかった。