テラーノベル
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上等な木箱の中には、煌びやかな握りが十五貫も詰まっていた。
「綺麗……」
ゴクッと喉が鳴る。
秘書の鴻上さんが温かいお茶を淹れてくれた。一緒に、醤油が入った小皿ももらう。
さすが専務室。
煎茶さえも光り輝いている。香りに緊張が解れる。
「さ、食べてくれ」
専務に促されて、私は箸を持った。
こんな高級なものをいただくほどのことはしていないけれど、折角用意してくださったのだから、ありがたくいただくことにした。
「い、いただきます!」
最初にイカを選ぶ。
見慣れているはずのイカなのに、ガラス細工のように透明感があって輝いているお姿に、本当にイカだろうかと思ったからだ。
「ふぅん……」
美味しすぎて、鼻から空気が漏れた。
柔らかい。
イカなのに、噛まなくても溶けそうだ。
「なにこれぇ……」
「美味いか?」
専務が箸も持たずに私を見て言った。
そこでやっと気づく。
上司を差し置いて、先に食べるとか!
「あっ、すみません。図々しく――」
「――ああ。そういう堅苦しいのはいいから」
専務は本当に気にしていないようで、表情を変えずに箸を持つ。
「専務として呼んだわけじゃないから」
「……?」
では、なぜ呼ばれたのだろう。
そう聞こうとして、思い直した。
「とても美味しいです」
まずは、聞かれたお寿司に対する感想を告げる。
「お聞きしてもよろしいですか?」
「なにかな?」
「鴻上さんと、専務の秘書の鴻上さんは、ご親戚か何かですか?」
「え――? あ、ああ」
専務は金色にも似た輝きを放つサーモンを口の前で止め、目を丸くした。
そんなにおかしなことを聞いただろうか。
「従姉弟です」と答えてくれたのは、秘書の鴻上さん。
「同じ名字で紛らわしいので、私のことは黎琳と呼んでください」
「え? いえっ! そんな恐れ多い!」
「え?」と、今度は秘書の鴻上さんが目を丸くした。
「あ、すみません。えっと――」
「――私はしがない専務秘書です。畏まっていただく必要はありませんので」
そう言うと、秘書の鴻上さんはマナー教室のお手本かというほど流れるような綺麗な仕草で肉厚なホタテを口に運んだ。
咀嚼する唇の動きに、同性ながらドキッとする。
「そうだよ。乾さんも俺たちも同じ会社で働く同僚なんだから、そんなに畏まらなくて――」
「――お前は少し、畏まれ」
専務がピシャリと鴻上さんの言葉を遮る。
「乾さん。凱人の言うように、私と乾さんは所属が違えど同僚です。それに、従姉弟を助けてくださったという意味では、感謝してもしきれません。どうぞ気にせずに名前で呼んでください」
重役の秘書という女性社員の憧れの立場でありながら、末端の冴えない私に微笑んでくれる黎琳さんは、聖母のようだ。
小説や漫画では、秘書は上司と恋仲になったり、上司の恋人に嫉妬して意地悪をする役どころだが、黎琳さんはとてもそうは見えない。
あ、いや! 上司と恋仲、の可能性は消えてない!
そう思ってしまうと、そう見えてくる。
専務と黎琳さん。
美男美女でお似合いだ。
ホテルのスイートルームで、バスローブ姿でワイングラスを傾ける二人を想像する。
もちろん、窓の向こうには百万ドルの夜景。
つい何日か前に読んだ小説のシチュエーション。
顔がニヤケてしまいそうになり、誤魔化すようにイクラを頬張る。
なに、この、プチプチ……。
「ところで乾さん。人事二課はどう?」
口の中でイクラを噛み弾きながら、『どう』とういう問いに『どう』答えるべきか考える。
ここは、一般的な回答をしておくべきか。
「やりがいのある仕事です」
専務はそれを聞いてもじっと私を見ている。
一般的な回答ではご満足いただけなかったようだ。
「少人数ながら、仕事の効率は良いと思います」
専務は「そうか」とは言ったが、私の答えは外れだったのではと感じた。
専務は何が聞きたいのだろう。
だが、そもそも、私は鴻上さんを助けたお礼という名目で呼ばれたはずだ。
箸を置き、ずずっとお茶を飲む。
「専務」
「ん?」
「人事部への配属は、誰に決定権があるのでしょう」
「ん?」
「人事部以外の部署に関しては、各上長の評価と人事部独自の評価から、適材適所へと異動がなされます。では、人事部員の配属は誰が決めているのかと、疑問に思いました」
二人の鴻上さんの手も止まり、部屋の中が静まり返る。
単純な疑問を、ちょっと堅苦しく聞いただけだが、おかしなことを聞いてしまったのだろうかと不安になる。
「すみません! 単なる好奇心というか――」
「――人事部員として相応しくない人がいる?」
「え?」
「だから、疑問に思った?」
専務が、なんだか楽しそうに言った。
「あ、凱人。食後のデザート買って来て」
急に話が変わり、しかも黎琳さんではなく、鴻上さんに言ったから驚いた。
「え? なんで俺?」と、やはり鴻上さんも不思議そう。
「休憩時間を削ると機嫌が悪くなるんだよ、俺の秘書殿は」
見ると、黎琳さんは会話が聞こえていない素振りでお寿司を食べている。
「乾さん。大トロ、美味しいわよ」
「え? あ、はい。いただきます」
促されて食べる。
本当だ。
一瞬にして溶けた。
「私、レアチーズプリンが食べたいわ」と、黎琳さんがすまし顔で言った。
「俺はわらび餅。あ、黒蜜つきな」と、専務。
「乾さんは?」
「え? あ、私は――」
チラリと鴻上さんを見ると、諦めた表情で私を見た。そして、立ち上がる。
「――好きなの言って?」
「私も、わらび餅でお願いします……」
「りょーかい!」
鴻上さんはお寿司に蓋をかぶせると、部屋を飛び出していった。
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