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お腹がぺこぺこになったので、その後は二人でお祝いのディナーに行って、夜遅くに帰ってきた。
一息つくなり、聡一朗さんが訊いてきた。
「そういえば、話したいことがあると言っていたけれど、なんだったんだい」
疲れた今でも聡一朗さんが覚えていてくれたことが嬉しかった。
できれば、帰宅したらすぐにお話したいと思っていたから。
「疲れているのにごめんなさい。実はお見せしたいものがあって」
「離婚届ならその場で破り捨てるつもりだが」
笑ってかぶりを振ると、私は木箱を持ってきた。
聡一朗さんの顔が強張る。
「ごめんなさい、勝手に持ち出して。でもこの箱を開ける鍵がどこにあったか、分かったから」
そうして私は例の絵本を見せた。
「まさかこれが……」
「私も同じのを持っていたんですけれども、全然違う鍵が付いていたから、もしかしてと思って」
「そう、だったのか……」
聡一朗さんはうなずいて「俺には絶対開けられなかったはずだ」と呟いた。
そして、心の準備をするようにしばらく箱を見つめ、聡一朗さんはゆっくりと木箱の蓋を持ち上げた。
「これは……」
そうして、中に収められていた便箋の束に、目を見開いた。
「聡一朗さんが出した、お姉さんへの手紙ですよね」
ああ、とうなずいて、聡一朗さんは思い出すように指を唇に当てた。
「姉の遺品を整理している時、俺からの手紙だけが見つからなかった。だから俺はてっきり姉さんは俺を恨んでいる、と思ったんだ。自分を犠牲にして好き勝手やっている弟からの手紙など忌々しいと破り捨ててしまったのだろうと。……その時は精神がかなり参っていたからね、そんな考えしか浮かばなかったんだ……」
目を閉じ、聡一朗さんは絞り出すように続けた。
「あの男――姉の元夫はひどい支配欲の塊でね、姉のあらゆるものを監視し、気に入らなければ所有物まで取り上げるような鬼畜だった。だから、ここに隠したんだな……誰もわからないように鍵を隠して」
「きっと、聡一朗さんからのお手紙が、なによりも大切だったんですね」
私はそっと気箱を撫でた。
お姉さんの大切な宝物を、静かに頑なに守ってくれた勤めを労わるように。
気が引けたけれども、何通か手紙を読ませてもらった。
そこには、聡一朗さんの留学先の様子や、嬉しかったこと楽しかったこと、悔しかったこと腹が立ったこと、努力に明け暮れ、充実している日々のことがつづられていた。
聡一朗さんの喜怒哀楽のすべてが、詰まっていた。
離れた地で孤独に暮らすお姉さんには、その一文一文が大切な聡一朗さんとの繋がりを感じさせるものだったのだろう。
辛い日々を乗り切るための糧そのものだったに違いない。
「この手紙は、聡一朗さんとお姉さんの絆の証だったんですね」
聡一朗さんは、押し黙り続けていた。
なにも言葉を紡げないようだった。
涙を堪えるのに必死で。
「聡一朗さん」
私はその頬を包んだ。
聡一朗さんが私にしてくれるみたいに、やさしく、守るように。
「泣いてもいいんですよ。お姉さんのために、泣いてもいいんです」
「……」
「私が代わりに泣く必要なんてないんです。お姉さんはずっとずっと最期まで聡一朗さんを愛していた。だから聡一朗さんは泣いていいんです。自分のために泣いて、たくさん泣いて、そして、笑ってください」
ぎゅうと抱き締められた。
折れんばかりに私を求める聡一朗さんの呼吸は荒く乱れていた。
涙を流していた。
「……そうか、ならもう誰かを愛しても許されるんだな」
「はい……」
「君を心の底から愛してもいいんだな」
泣き濡れた顔で、聡一朗さんは私を見つめた。
「君こそが鍵だったな」
「どういう、意味ですか?」
「君じゃなければ、あの箱は永久に開けられなかった。そして、孤独の殻に閉じこもっていた俺も、解放されることがなかった」
聡一朗さんは、幸せそうに笑った。
「君という鍵が、俺の世界をふたたび色づかせてくれたんだ」
抱き寄せ、私の頬を包んだ。
「愛しているよ。大学教授だなんて偉そうにしているくせにありきたりな言葉しか紡げないのが情けないが、もうこれしか言えないから――。愛している、美良。心の底から君を」
そうして下りてくる唇は、すでに熱を帯び始めていた。
唇だけでは足りず、首筋を、胸元を啄まれ、私は知ったばかりの快感に再び落ちていく。
私が鍵と言うのなら、聡一朗さんのキスは魔力を秘めた鍵だ。
人と交わることを知ったばかりの身体なのに、熟れた果実のように、聡一朗さんのその唇で淫靡な快感に意識を溶かしてしまうのだから――。
「んっ……」
仰け反る私の耳に唇を押し当て、聡一朗さんは熱い吐息まじりに言った。
「明日、指輪を選びに行こう」
「……でも、もう……っ、んッ……」
「だめだよ、あんな取り急ぎで買ったのじゃ」
蕩けた私の身体を愛撫し、乱れる意識にさらに焼き付けるように、愛の言葉をささやく。
「一緒にちゃんと二人が欲しい物を選びに行こう。君と俺を永遠につなぐ証なんだから」
そうして握ってきた手を夢中で握り返し、私は奥深くに入り込んできた聡一朗さんを受け入れる。
甘い甘い幸福に押し流され、その夜、私たちは初めて、心も身体もひとつに通じ合わせた。