第4話:星の下で名を呼べば
その夜、浮遊都市《ウレナス環》では星が異常に多かった。
星は天球において「浮かびきれなかった夢」の象徴。
多すぎる星空は、**“未練が集まりすぎている兆し”**とされ、風詠官たちはざわついていた。
街角で空を見上げていたのは少女エルア。
濃い霧色の長髪を揺らしながら、細身の身体に風遮布を巻きつけていた。
風の流れが速すぎる場所では布が音を奏でる──これは「ソラー社」製の音律布《ソナリフ》。
音が重くなると、その者の浮力が低下している証拠になる。
エルアの布は、音を立てていた。
“沈みかけている”ということだ。
彼女には「名前」がなかった。
名は生まれた時に泡文字として授かるのが天球のしきたりだが、
その泡が弾ける前に風に流され、誰にも読まれなかった。
読み取られなかった泡は、**“名前を持たなかった者”**として記録に残らない。
名を持たぬ者たちは、星に名を預ける。
《星沈めの夜》──年に一度、満月の夜に行われる静かな祈りの儀式。
星をひとつ選び、そこに名前を“仮置き”する。
星が流れ落ちれば、その名は回収される。
残れば、永遠に空に漂い続ける。
エルアは、静かに星を見つめていた。
選んだのは、他の星よりもやや黄色がかった小さな光。
彼女は小さな気流管から泡を吹き出し、そこに名前を込める。
「リオ」
その瞬間、泡が“流星化”するはずだった。
だが泡は、逆に上へ向かって昇っていった。
ざわめきが起こる。
泡が“落ちる”ことで願いは託される。
だが、上昇する泡は“天の逆意”とされ、記憶の反転を招く兆候だった。
翌日、《記録層フロートル》では騒ぎが起きていた。
誰もが記録したはずの「昨夜の名前」が読み出せないのだ。
エルアは、あの日の星を探す。
記憶にはあるが、誰にも共有できない光。
その夜、月は濁っていた。
満月には“記録の再読”が許されるとされていたが、
今夜の月は記憶の塊が重すぎて光を返さないという珍現象に包まれていた。
風詠官が言う。
「これは“沈みかけた名”の重み。
星にすら置き去られた言葉が、空を曇らせているのだ。」
エルアは自室に戻り、小さな泡装置《ネフリオmini》を起動した。
本来は娯楽泡を流す装置だが、過去に地球の映像断片を一度だけ映したことがあるという。
映像は、海だった。
泡の中に映る水の景色に、彼女は自分の名を感じる。
「この声が、もしも沈むのなら、
それでも、名前を持っていていいですか?」
—
泡は、はじけなかった。
ネフリオminiの内部ログにはこう刻まれていた。
“記録されなかった名が、ひとつ。 名を持たぬ者が、記憶の隙間で揺れている。”
—
彼女はそれでも名を名乗った。
「リオと呼んで。たとえ、それが記録されなくても。」
そしてその日から、風は彼女の布に音を鳴らさなくなった。
エルア=リオは、少しだけ軽くなったのだ。
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