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第5話:雲の下、たしかに
天球第八観測領域《ハイルノア》では、
今朝、禁忌の映像が記録された。
「観測泡、崩壊していません」
技術補佐官の少女、ネビは驚きの声を押し殺した。
ネビ・ソルト=14歳。
濃い灰緑の目と、額の中央に生まれつき淡い菱形の痣。
その上からは、《エアロハード社》の気流制御バンドが巻かれている。
制服は“観測泡安定課”のもので、微細気流の色を視認できる特殊素材が用いられていた。
彼女の体は軽く、歩くよりも“浮いたまま滑る”ように動く。
浮力維持スコアは上位1%。
つまり、極めて信頼される空の子だった。
だが今、ネビは見てしまった。
“雲の下”の映像を。
泡観測装置《フロートル・タイプ8》に映ったのは、
大気の裂け目の下、波のような動きの地層。
そして、その水面に浮かぶ影。
──人のようだった。
すぐさま上席がやってきて、泡を破壊しようとする。
だが泡は弾けなかった。
「これは、海から来た“記録泡”です」
「外から……届いた?」
天球では“雲の下”は空白。
そこに存在を見た者はいない。
見たという者はすべて、「溶けて消えた」とされている。
月の儀式では、“海の夢を見た者”は星を祀る資格を失う。
地に引かれた者は、夜空に手を伸ばすべきでないという教えだ。
ネビは迷った。
観測士として、泡を報告し、破壊すべきだった。
だがその影──雲の下に立っていた誰かは、
自分を見上げて、手を振っていた。
—
《ネフリオ社》の泡記録室には、その映像が残されたままだった。
本来、ネフリオ社の泡映像は「消える」ことが前提。
だがこの記録だけは、繰り返し再生されていた。
その原因は、古い記号の中にあった。
映像の下に浮かび上がる、円に点のマーク。
地球でいう「@」だった。
現在では《泡神の目》として祀られているこの記号は、
本来“位置”を示す地球文字だった。
ネビは泡を手に取り、ひとりで滑空台へ向かった。
《滑空台-ソラー跡地》はかつて、風力舞踏の流行地だったが、
現在は沈みかけの浮島として封鎖されている。
泡をそこで再生した瞬間、
気流が乱れ、空がひとつだけへこんだ。
そこに、海の音が聞こえた。
「雲の下に何かある。
それを、見たってだけで罪なら——
私は、罪人でいい。」
夜、ネビは“星沈めの申請”を却下された。
「あなたはもう、天を仰ぐ資格を失っています」と月官は告げた。
ネビはそれでも、空に泡を放った。
その泡は昇らず、雲のすき間に吸い込まれていった。
—
観測記録は抹消された。
だが、夜風の中で誰かが囁く。
「あの泡は、確かに届いた。 雲の下にいた“あの子”に——」