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夜の校舎は、昼間の喧噪が嘘みたいに静かだった。 教室の窓から差しこむ街灯の光だけが、床を淡く照らしている。
ドアが小さく開いて、男子生徒が顔をのぞかせた。
「……ここ、まだやってる?」
遥は頷く。
「来いよ。寒いだろ」
少年はおそるおそる入ってきて、椅子に腰を下ろした。
膝の上で指を絡めながら、ため息を落とす。
「名前、嫌いなんだ」
遥は視線を外したまま、「どんなふうに?」とだけ聞いた。
「親が“強くなれ”って意味を込めてつけた名前らしい。
でも俺、強くなんかないし……呼ばれるたび、無理しろって命令されてるみたいで。
友達に呼ばれるのも、息苦しくなる」
教室を吹き抜ける冬の風が、ブラインドをかすかに揺らした。
遥はゆっくり言葉を探す。
「名前ってさ、産まれたときに勝手につけられるだろ。
親の願いや都合が全部、ラベルみたいにくっついてくる。
でも、それを“自分”って言い切れる人、そんなに多くない」
少年はうつむいたまま、小さく「……そうかな」とつぶやく。
「俺も、自分の名前が好きかって言われたら、答えにくい。
意味なんて考えないようにしてきた。
でも、使ってるうちにさ、俺の声や息の方が強く残っていく気がする」
遥はそこで初めて少年を見た。
「呼ばれることで消えるんじゃなくて、
呼ばれるたび、お前の時間や記憶が名前の中に積もっていく。
意味は後から、勝手に変わっていくもんだ」
少年は小さく息を吐いた。
「……後から、変えられる?」
「うん。
誰かが最初につけた意味より、
お前が生きてつけていく意味の方が強い。
その声や時間が、名前を塗り替えていく」
長い沈黙。
少年はかすかな笑みを浮かべて、肩の力を抜いた。
「……それなら、少しマシかもしれない」
遥は窓の外を見た。
街灯が揺れる。
「マシでいい。
好きになれなくても、自分のものにできれば、それでいい」
少年は立ち上がり、鞄の紐を握った。
「ありがとう。名前、少しだけ言ってみたくなった」
ドアが閉まり、静けさが戻る。
遥はひとつ息を吐いた。
――名前は与えられたもの。
でも、そこに生きてきた自分を刻むのは、自分だけ。