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尖塔の中は、しんと静まり返っていた。それは心安らぐ静けさではない。まるで、塔全体が息を詰めて、何かをじっと耐えているような、張り詰めた沈黙だった。
ソラスは冷たい石段に座り込み、指と指をきつく絡ませていた。指先が白くなるほど力を込めても、細かな震えが止まらない。胸の奥で、熱いものが燻っている。焚き火のような優しさではない。もっと出口のない、行き場を失った熱だ。胸の内側からじりじりと、焦がされるような感覚。
深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。ただそれだけの動きに合わせて、塔の壁がきしりと低い音を立てた。
――だめ。
声には出さず、喉の奥で飲み込む。この塔はソラスの気持ちに敏感すぎる。足裏から伝わる振動は、まるで大きな生き物が寝返りを打ったみたいだった。ソラスは縋るように辺りを見回す。
階段の上へ続く暗がり。
踊り場の影。
冷え切った手すり。
――いない。 いつもの夜なら、当然のようにそこにいたはずだ。音もなく現れて、金色の瞳で見下ろしていたはずの相棒。黒猫は、来ていなかった。胸が早鐘を打つ。呼べば、きっと来てくれる。名前を呼ばなくても、こちらの苦しさを察して姿を見せてくれるはずだ。 それなのに。
「……」
ソラスは唇をぎゅっと結ぶ。
呼べなかった。
今、声に出してしまえば、それが合図になって、せき止めている何かが溢れ出してしまいそうだった。自分がどれほど危ういものを溜め込んでいるか、彼女自身が一番よく分かっている。それは怒りでも、恐怖でもない。ただ堪えている何かが、糸の一本でも切れれば、連鎖的に全てがほどけてしまう。
ソラスは、薄い胸元に片手を押し当てた。心臓の音は速いけれど、リズムは一定だ。乱すことさえ許されない。ふと見ると、石の壁がぼんやりと青白く光っている。燭台に火はないのに、自分から漏れ出した力が、明かりになってしまっているのだ。そのことに気づき、ソラスは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめん」
誰に謝っているのか、自分でも分からない。そう呟いたことで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。塔がほっと息をついたようだった。
その瞬間。
外の森で、ずしんと大きな木が倒れる音がした。枝が折れ、葉がざわめく音が、分厚い壁越しに聞こえてくる。ソラスは奥歯を噛みしめた。指一本触れていない。それなのに、世界が勝手に傷ついていく。
彼女は両の手のひらを石段に押し付けた。吸い付くような石の冷たさだけが、浮き上がりそうな心をかろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。そしてもう一度、視線をさまよわせる。
上の階の闇。
影のたまり場。
――やっぱり、いない。
黒猫が来ない。それは、あまりに異常なことだった。彼女がここまで追い詰められる前に、いつだってあの黒い影はそばにいた。邪魔もせず、慰めもせず、ただそこに居てくれるだけで、彼女を支えていたのに。
ソラスは膝を抱え、ぎゅっとおでこを押し付けた。記憶を手繰り寄せる。
ユイスの声。
名前を呼ぶときの癖。
何でもない日々の、些細なやり取り。
それらを思い出すことで、自分がまだ人間としてここに居るのだと確かめようとする。しかし、思い出そうとするそばから、記憶の色が砂みたいにさらさらと抜け落ちていく気がした。力を抑え込むたびに、代わりの何かを手放している。それが溢れそうな力なのか、人としての感情なのか、それとも――ソラスという自分そのものなのか。
上の階で、かすかな音がした。弾かれたように顔を上げる。そこにいたのは、風に揺れる頼りない影だけだった。黒猫ではない。
ソラスは、がっかりした気持ちを飲み込むように、ゆっくりと息を吐いた。今、誰かに会ってしまえば、その誰かに向かって力が流れてしまう。
だからこそ、ひとりを選ぶ。
それが、今の彼女にできる精一杯の思いやりだった。ソラスはもう一度、両手を石段に押し当てた。ひんやりとした無機質な感触。それだけが、今の彼女を肯定してくれる。
――大丈夫。
心の中で、おまじないのように繰り返す。
――まだ選んでいない。
尖塔は、その言葉を否定しなかった。森もまた、沈黙したまま聞いている。ただ、本来ならそこにいるはずの半身たちだけが、寂しいほどに不在で、世界は不思議なほどの静謐さを保っていた。