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翌朝、空は怖いくらいに高く、澄み渡っていた。刷毛で掃いたような薄雲が、高いところをゆっくりと流れていく。風は穏やかで、夏の名残を帯びた淡い金色の陽射しが、村の屋根を等しく撫でていた。世界が息を止めているかのような、何も起きていない朝だった。
だからこそ、その異物は風景の中で際立った。村の外れ、騎士団の幕舎の前に、一頭の伝令馬が止まっている。泡を吹くまで駆けた形跡はない。だが、鞍袋の留め金に刻まれた王都の紋章だけが、牧歌的な朝の空気の中で、冷ややかな重みを放っていた。
アルベルトは、遠目にそれを見ただけで、すべてを悟った。――来たか。覚悟していたはずの心が、水底へ沈む石のように、重く冷えていく。
「隊長」
部下の控えめな声に促され、彼は幕舎を出た。朝の空気はまだひんやりとしていて、踏まれた草の青い匂いが鼻を掠める。伝令の騎士は、感情のない敬礼をしてから、短く名を告げた。労いの言葉も、旅の雑談もない。
「王都アーデルハイムより、達し」
差し出されたのは、一本の巻かれた羊皮紙。赤い封蝋は、すでに割られていた。それは、開封を許された通知ではない。”今すぐ読め”という無言の強制だった。アルベルトは、肺一杯に朝の冷気を吸い込み、それから羊皮紙を受け取った。 記された文字は簡潔にして冷徹だった。
日時。
期限。
同行者は不要。
そして末尾に添えられた、決定的な一文。
『第一騎士隊長アルベルトは、速やかに王都へ帰還し、本件に関する仔細報告、ならびに事情説明を行うこと』
それだけだった。理由も、評価も、感情も削ぎ落とされた命令。だが、行間から滲み出る意味を、アルベルトは痛いほど理解していた。現地での裁量、その猶予期間は終わったのだ。
伝令は、役目を終えると何も言わずに馬を返した。乾いた蹄の音が、静かな朝に吸い込まれていく。村人たちは、まだ畑には出ていない。そろそろ朝の祈りを終えた者たちが、ちらほらと家から顔を出し始める時間帯だ。
数人が、遠巻きにこちらの様子を窺っている。誰も近づかない。けれど、その視線は蜘蛛の糸のように絡みつき、ここへ集まっていた。羊皮紙を丁寧に畳み、アルベルトは、胸元のポケットへしまった。心臓のすぐ上で、紙きれ一枚が鉛のように重い。
この紙ひとつで、村の明日が、尖塔の運命が、そして――あの少女の行き着く先が、遠い王都の机上で決められてしまう。
「……俺の留守の間」
彼は、不安げな部下たちを静かに見渡した。
「通行制限は維持しろ。剣は抜くな。だが――譲るな」
誰も異を唱えなかった。短く、研ぎ澄まされた命令。それが却って、残される者たちの肩に重くのしかかる。
馬に跨る直前、アルベルトは一度だけ振り返った。朝霧の向こう、黒煉瓦の尖塔が立っている。陽光を浴びても尚、その塔だけは影を纏い、長い沈黙を守っていた。だが彼には分かる。あの静寂の殻の下で、どれほど危ういものが必死に息を殺して耐えているのか。そして今、それを支えていた最後の支柱が、引き抜かれようとしている。
革の鞍が、きしりと鳴いた。別れの言葉はない。号令もいらない。ただ一人の騎士が、村を去る。蹄の音が遠ざかり、風に溶けて消える頃。ライトリム村は、再び穏やかな朝の顔を取り戻す。
畑へ向かう者。
水を汲む者。
そして、塔へ向かって無心に祈る者。
誰もが、まだ知らない。この美しく晴れた空の下で、最後の”何も起きなかった朝”が、音もなく終わろうとしていることを。
⬛︎
王都アーデルハイムは、石と沈黙で編まれた街だった。視界を埋め尽くすのは、目が痛くなるほどの白亜の城壁と、定規で引いたように整然と並ぶ街路。どこまでも続く石畳は、埃ひとつ許さぬほどに磨き上げられ、歩く者の足音だけを冷たく反響させる。 ここでは、色彩さえもが音を潜めていた。極彩色の感情が渦巻く地方の村とは違う。この街にあるのは、光と影、そして記録という名の”事実”だけだ。
時折、大聖堂の鐘が鳴る。ごーん、ごーん、と重たい音が空気を震わせ、人々の生活を切り分ける。そのたびに街全体が息を止め、規律という名の神に頭を垂れるかのようだった。
街の心臓部に位置する、聖律騎士団本部。そこは、王都の縮図とも言える場所だった。分厚い石壁に囲まれた回廊には、羊皮紙の乾いた匂いと、微かな鉄の匂いが漂っている。すれ違う騎士たちは無言で敬礼を交わし、書記官たちは影のように過ぎ去っていく。
幾重にも重なる重厚な扉を抜け、アルベルトはその最奥へと辿り着いた。扉の向こうから、気配が漏れているわけではない。だが、皮膚を粟立たせる圧力が、そこにあることだけは分かった。
「……入れ」
ノックに応じたのは、石と石が擦れ合う、低く、よく通る声だった。アルベルトは扉を開き、一礼してその空洞へと足を踏み入れた。
団長執務室。そこは、広い部屋ではなかった。だが、天井は闇に吸われるほど高く、外界を覗く窓は一切ない。頼りない光源は壁際の燭台のみ。風の入らない密室で、その炎は凍りついたように直立し、揺らぐことを忘れている。
机の向こう、闇を背負って座る男が、聖律騎士団長ジークだった。壮年。鋼を鍛え上げたような、無駄のない体躯。今は鎧を纏ってはおらず、簡素な執務服だけだ。それなのに、その存在自体が、抜き身の刃物のように鋭く、すでに武装しているかのように見えた。彼がいるだけで、部屋の空気が鉛のように重くなる。
「第一騎士隊長アルベルト。命により参上しました」
「座れ」
短い命令。アルベルトは革張りの椅子に腰を下ろした。背もたれは冷たく硬く、疲弊した身体を預ける気にはなれなかった。あるいは、この男の前で安らぐことなど許されないと、本能が告げているのかもしれない。
ジークは、しばらく何も言わなかった。ただ、書類をめくる乾いた音だけが、静寂を裂いて響く。机上には、すでに情報の山が築かれていた。現地の報告書。過去の類似案件の資料。そして――まだインクの匂いが残る、アルベルト自身がしたためた、あの村の記録。
「……読んだ」
数分とも数時間ともつかぬ沈黙のあと、ようやくジークが口を開いた。視線は書類に落とされたままだ。
「率直に言おう。君は、判断が遅い」
心臓を素手で握られたような圧迫感に、アルベルトの呼吸が浅くなる。
「ですが」
続く言葉に、アルベルトは顔を上げた。
「怠慢ではない。……迷いだな」
ジークが顔を上げる。その眼差しは、燭台の火を映してなお、冷たい無機質さを湛えていた。感情を排した、断罪者の目。
「なぜ迷った」
問いは短く、矢のように速い。アルベルトは、喉の渇きを覚えた。答えは一つではない。しかし、この男の前で感情を語ることは許されない。
「……彼女が」
言葉を選ぶ。王都の論理で、少女を語る言葉を。
「”敵”として、あまりにも一貫していなかったからです」
ジークは、眉ひとつ動かさない。石像のように話を聞いている。
「守るために力を使い、傷つけることを避け、自身の犠牲すら厭わない。それでも結果として、周囲を依存させーー危険に晒している」
「矛盾ではない、と?」
「はい」
アルベルトは、はっきりと答えた。
「矛盾ではなく、未整理な巨大な力を抱えたまま、彼女なりの“正しさ”を選ぼうとしている。そう見えました」
沈黙。燭台の火が、ひとつ、ぱちりと音を立てて爆ぜた。その音が消えると同時に、ジークは椅子に深く腰掛け直した。革の軋む音が雷鳴のように響く。
「……君は」
低い声が、床を這う。
「彼女を、理解しようとしたな」
「職務の範囲で」
アルベルトの即答に、ジークは口元だけで笑った。冷笑ですらない。ただ筋肉が動いただけのような、無機質な笑み。
「それが、甘いと言っている」
とん、と指先で机を叩く。
「国は、理解を前提にしない」
その言葉は、”王都”そのものだった。個人の事情、感情、善意――そんな不確定なものは、石の街には不要なのだ。必要なのは、記録でき、予測でき、制御できる事実のみ。アルベルトは反論しなかった。だが、視線は逸らさない。逸らせば、あの村での自分が嘘になる気がした。
「君の報告にある”覚醒”という言葉。そして、対象が観測されていることを自覚し、行動を調整しているという点」
ジークは、書類の一枚を指先で摘み上げた。
「これは、放置できない」
それは宣告だった。
「魔女では済まない。だが、神として崇めるには、あまりに人間臭い」
書類が、パラリと机に戻される。その軽さが、かえって事の重大さを物語っていた。
「よって――魔女ソラスおよびライトリム村を、”特級異端隔離対象”第一種に指定する」
アルベルトの呼吸が、わずかに乱れた。
特級。
第一種。
それは、歴史の闇に葬られるべき禁忌の烙印。
「討伐、ではなく……隔離、ですか」
「現時点ではな。討伐も視野に入れる」
ジークは淡々と続ける。
「隔離とは、慈悲ではない。制圧の“成功形”にすぎない」
その言葉の重さを、アルベルトは嫌というほど理解していた。殺すよりも重い、存在の凍結。世界から切り離し、緩やかに、確実に無力化する。
「聖律騎士団特務隊”白耀剣”を編成する。隊長は、君だ」
一拍。
逃げ場を塞ぐような間を置いて、命令が下る。
「――拒否は、許されない」
アルベルトは、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、あの尖塔の長い影。夏の終わりの風の匂い。そして、すべてを見透かしたように微笑む、あの透き通った青い瞳。
ーーああ、やはり。彼女は、分かっていたのだ。こうなることを。
「……了解しました」
口をついて出たのは、騎士としての、形ばかりの返答だった。ジークが漆黒の髪を揺らし立ち上がる。その巨躯は、天井の闇に届きそうに見えた。
「覚えておけ、アルベルト」
その声は、もはや上官のものではなく、この石の街が発する呪詛のようだった。
「我々は、守るために斬るのではない」
ジークは、アルベルトを見下ろしたまま、静かに告げた。
「斬った結果を正しくするために守るのだ」
アルベルトは、返事をしなかった。できなかった。その沈黙こそが、今の彼に許された唯一の答えだったからだ。揺れない炎が、二人の影を石壁に濃く焼き付けていた。