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マイホームを購入するということは、決して安い買い物ではないのは勿論のこと、人生の中で一大決心を有する場面だったりもする。
間取りや使い勝手は勿論のこと、周辺環境や近隣に暮らす住人の様子など、相当の下調べや熟考の末に購入を決める。そんな人がほとんどだろう。
それだけ、マイホームとはその人の人生に影響を与えるもので、思い付きで気軽に購入するものでもないのだ。
そんな人生の柱とも言えるマイホームを購入したいと、数ヶ月前に私の元へと訪れたある一人の女性は、長年不動産を営んでいる私から見てもとても珍しい客だった。
間取りは1ルーム希望とシンプルなもので、購入を考えているにしてはいささか小さすぎる。それに加えてもっと奇妙だったのは、キッチンは不用ということだった。中には一切自炊をしない人もいるだろうし、それ自体にはさほど驚きはしない。だが、奇妙だったのはその理由の方だった。
「虫が嫌いなんです」
「虫、ですか?」
「ええ、虫です。私、死ぬほど虫が嫌いなんです」
今までこうして無事に生きているのだから、死ぬほどといった表現は大袈裟すぎやしないだろうか? とはいえ、それほど虫が苦手だという意味なのだろう。だが、いくら虫が嫌いだからだとはいえ、それが理由でキッチン不用とは、また随分と突飛な発想だとは思った。
どうやら、換気扇があるとそこから虫が侵入してくる可能性があるので、それならいっそのことキッチンを作らなければいい、という結論に至ったらしい。
その後、女性の要望に応える形で話しを進めてゆくと、最終的に出来上がった図面は、バス・トイレ・キッチン無しといったシンプルすぎる部屋となった。
これを”家”と呼んでもいいのだろうか……? 目の前に置かれた図面を眺めながら、私はそんな風に思った。
正直、“箱”と呼ぶ方が相応しく思えたのだ。
長年不動産を営んではいるが、こんな注文を受けたのは初めてのことで、お抱え建築士と顔を見合わせた私は狼狽《うろた》えた。
「あの……ご希望のマイホームは、本当にこちらでよろしいんでしょうか?」
「ええ、それでお願いします。それと、万が一にでも虫が入らないように一切の隙間なくお願いします。それで完璧です」
その要望に応えることのできなかった私は、結果的にその女性にマイホームを提供することは叶わなかった。だが、あれほど奇妙な注文をされれば嫌でも頭に残り、その後あの女性がどうなったのかが気掛かりではあった。
そんなある日、テレビに映し出されるニュースを流し見ていた私は、聞き覚えのある名前にピタリと動きを止めると画面に食い入った。そこに表示されていたのは、あの奇妙な注文をした女性の名前だったのだ。
そのニュースによれば、死後数週間ほどとみられる女性の遺体が発見され、その死因は窒息死とのことだった。そんなニュースを見つめながら、私は何とも言えない無力感に襲われた。
だが、あの女性は念願だったマイホームを手に入れることができたのだ。死ぬほど虫が嫌いだと言った彼女の言葉は、どうやら嘘ではなかったらしい。
【解説】
換気扇がないのは勿論のこと一切の隙間がないとは、つまり空気さえ入らないということ。
当然そんな家を造るわけにもゆかず断ったが、その女性が窒息死したということは、つまり希望通りのマイホームを手に入れ、その家で亡くなったということ。