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五年前、私たちの世界は、潮の匂いとシャープペンの芯が削れる音だけで完結していた。
地元の私立高校。放課後の図書室は、西日が差し込んで埃が金色の粒子のように舞っている。一番奥の、誰にも邪魔されない窓際の席が、私とみなとの「指定席」だった。 みなとは、受験勉強の参考書を脇に追いやり、いつも方眼紙に奇妙な図面を引いていた。
「これ、なあに?」 私が覗き込むと、みなとは少し照れくさそうに、けれど誇らしげにシャープペンを動かした。 「……美術館。いつか俺が、この街の海岸沿いに建てるんだ。ガラス張りで、中に入ると波の音だけが響くような、静かな場所」 「みなとらしいね」
私は、彼の描く線の美しさにいつも見惚れていた。みなとの指は細くて長く、ペンを握る指先には、彼にしか見えていない未来が宿っているように見えた。 一方の私はといえば、彼のような才能も、燃えるような夢も持っていなかった。ただ、みなとの隣で歴史の用語集を眺めながら、この穏やかな時間が永遠に続けばいいと、それだけを願っていた。
「りこ、もし俺が本当に建築家になったら、最初に設計するのは……」 みなとが不意に手を止めて、私を真っ直ぐに見つめた。 「りこの住む家がいい」 「えっ、私の?」 「そう。お前、よく『朝の光で目が覚めるのが理想』って言ってたろ? 東側に大きな窓を作って、冬でも寒くないように断熱もしっかりして……。お前が一生、笑って過ごせるような、世界で一番安全な場所を作る」
その言葉は、どんな愛の言葉よりも熱く、私の胸に深く沈んだ。 みなとの瞳は、どこまでも澄んでいた。彼は本気だった。自分の才能を、自分の人生を、私の幸せのために使おうとしていた。
けれど、現実は無慈悲に足音を立てて近づいてくる。 三者面談が始まり、進路希望調査票が配られる季節。みなとの成績は学年でもトップクラスで、東京の超難関国立大学への進学も夢ではなかった。そこは、世界的な建築家を何人も輩出している、彼にとっての「聖地」だ。
「みなと、東京に行くんでしょ?」 ある日の帰り道、防波堤に座って海を眺めながら、私は聞いた。 「……迷ってる。あそこに行けば、確かにもっと学べることは多い。でも、四年も、いや院まで入れたら六年も、お前を一人にするのは嫌だ」
みなとの家が決して裕福ではないことを、私は知っていた。お父さんが体を壊して以来、お母さんがパートを掛け持ちして彼を支えている。東京での一人暮らしは、彼の一家にとって大きな賭けだ。 そして何より、みなとは優しすぎた。 「俺、地元の大学でもいいかなって思ってるんだ。そこなら家から通えるし、お前と一緒にいられるから」
バカだ。 隣で笑う彼の横顔を見ながら、私は叫び出したいような衝動に駆られた。 あなたのその手は、地元の小さな工務店で終わっていいものじゃない。あなたは、もっと広い空へ、見たこともないような美しい建物を建てるべき人なんだ。 私という「重り」のせいで、彼の翼を折ってはいけない。
その夜、私は自室で一人、自分の受験票を見つめていた。 私の学力では、彼の行く大学の足元にも及ばない。滑り止めとして受けた地元の大学の結果は、数日前に「不合格」の通知が届いていた。 私は、彼と一緒に歩む資格を失っていた。
「……みなとを、解放してあげなきゃ」
暗い部屋の中で、私は自分の左耳のイヤリングを外した。 数日前、みなとが「合格祈願」と言ってプレゼントしてくれた、パールのイヤリング。 「これ、二つで一つだろ。片方は俺が持ってる。大学が決まって、落ち着いたら……また二人で、対のやつを買おう」
掌の中で、小さなパールが鈍く光っている。 私は決めた。 彼が私のために夢を捨てようとするなら、私は彼のために、彼から嫌われよう。 彼が後ろを振り返らずに飛び立てるように、私が彼の「帰る場所」を焼き払ってしまおう。
窓の外では、冬の潮風が冷たく吹き荒れていた。 それは、五年前の私たちが、最後に共有した季節の匂いだった。