翌朝、職場へ向かう電車の中で杏樹は少しホッとしていた。
なぜなら家を出た時優弥に会わなかったからだ。彼は一体何時頃家を出ているのだろうか?
そんな事を考えながら電車に揺られているとあっという間に最寄り駅に着いた。
(凄く近くて楽だわ。家を出る時間も遅くていいしやっぱり引越して正解ね)
杏樹はご機嫌な様子で電車を降りると改札を出てから職場へ向かった。
制服に着替えた杏樹が階段を下りて行くと優弥が階段を上がって来た。
杏樹はドキッとする。
「お、おはようございます」
「おはよう、今日もよろしく」
隙のないスーツ姿に身を固めた優弥は普段通りに上司の顔で杏樹に接した。
(さすが、仕事には一切私情を持ち込まない男…って感じ)
その完璧なまでの対応に感心しながら杏樹は営業フロアへ向かった。
月曜日の窓口は朝は少し混雑したがそれを過ぎると穏やかな空気が流れ始める。
手持無沙汰だった杏樹は伝票にスタンプを押すだけの簡単な庶務の仕事を手伝う。
その時自動ドアが開き新たな客が入って来た。
「「いらっしゃいませ」」
入って来た客は早乙女家具の令嬢・早乙女莉乃(さおとめりの)だった。
莉乃は杏樹をチラッと一瞥してから真っ直ぐ美奈子の窓口へやって来た。
「早乙女と申しますが得意先課の森田さんはいらっしゃいますか?」
「はい、今お呼びいたしますのでおかけになってお待ち下さい」
「ありがとう」
莉乃は笑顔でソファーへ向かう。
今日の莉乃のスタイルはネイビーの小花柄のミニワンピースにピンクのストールを羽織っている。
薄い生地のワンピースはこの時期にしては少し寒そうだ。しかし莉乃はいつも父親に買ってもらった高級外車に乗って来るので寒くはないのだろう。
それよりも杏樹はその色の組み合わせが気になっていた。ネイビーに派手なピンクの組み合わせは杏樹の中ではNGだったからだ。
その時美奈子も同じ事を考えていたのかこう言った。
「紺にピンクは合わなくない?」
「ですよね。私もそう思いました」
二人にしか聞こえない声でやり取りをする。
しかしそのミスマッチな色の組み合わせを跳ねのけるほどのオーラを莉乃は持ち合わせていた。
誰に対しても物怖じしない性格、持って生まれた社交性と愛嬌、そして優雅で上品な立ち居振る舞いは莉乃が上流家庭で大切に育てられてきた証だ。
聞いた話によると莉乃は大学院を出て留学経験もあるようだ。もっともその大学院はお嬢様大学の大学院で卒業後は家業をほんの少し手伝っている程度なのでこれまでの経験は生かし切れていない。
杏樹達から見た莉乃の立ち位置はどう見ても『家事手伝い』だった。
莉乃はソファーへ座るとウェーブの掛かった長い髪に指を絡めてクルクルと弄んでいる。
その時後方のデスクへ内線電話をかけに行っていた美奈子が戻って来て杏樹に聞いた。
「大丈夫?」
その言葉に杏樹はハッとする。
(そっか、私はこの人に負けたんだったわ……)
その時杏樹は自分が振られたのはこの女性に負けたからなのだという事に気付いた。
「大丈夫です」
杏樹の笑顔を見た美奈子はホッとしている。
(フフッ、正直正輝に振られた事なんてすっかり忘れていたわ。でもどうして?)
その理由を考えてみると土日の出来事に行き当たる。
新しい家へ引っ越した事、そしてその家の隣人が上司でありワンナイトの相手でもある優弥だった事の方が衝撃が強過ぎたのだ。だから失恋の事などすっかり頭から吹き飛んでいた。
(あれ? もしかしてもう失恋から立ち直ってる?)
その事実に自分でも驚く。
その時二階から正輝が下りて来た。
正輝はカウンターの外へ出ると莉乃に近づいてから言った。
「早乙女様お待たせいたしました、さ、どうぞ応接室へ」
「こんにちはぁ。今日もよろしくお願いしまーす♡」
甘えるような可愛らしい声で莉乃はいそいそと正輝の後について行く。
その時ちょうど二階から優弥が降りて来て杏樹に向かって声を張り上げた。
「桐谷さーん、福山建設の払い出しの処理もう終わってるかな?」
杏樹はいきなり声をかけられたのでビクッとしたが、朝一番に得意先課から回って来た処理の事だ気づきすぐに返事をする。
「はい、もう用意してあります」
「ありがとう。じゃあ今日は課長の代わりに私が持って行くから貰えるかな?」
杏樹は用意した現金と通帳が入った袋を優弥に渡した。
優弥は袋の中から現金を取り出すと杏樹の隣に立ったまま現金を数え始めた。その手さばきは見事なものだった。
(支店勤務はあまり経験がないはずなのに随分上手いわね……)
優弥の長く美しい指が的確に札を数えるのを見てつい杏樹は見とれてしまう。
しかし優弥に見とれているのは杏樹だけではなかった。
応接室の一歩手前で足を止めた莉乃がじっと優弥を見つめていた。
そして傍にいた正輝に聞いている。
「あの方は?」
「ああ、新しく来た副支店長です」
「副支店長? 随分お若いのに?」
「はい」
「ふぅん、そうなんだ……」
莉乃が優弥にうっとりしているのを見て正輝は面白くないといった顔をしていた。
そして一度咳ばらいをしてから莉乃に告げる。
「早乙女様、どうぞ中へ」
「あ、はい……」
莉乃はまだ優弥を眺めていたいようだったが正輝に急き立てられたので仕方なく応接室へ入って行った。
一方優弥は現金を確認した後通帳の印字をチェックする。その時通帳に貼られている付箋に気付いた。
「この付箋は?」
「あ、それは以前社長さんに頼まれていたので」
「頼まれた?」
「はい。吉田土木さんからの入金があったら付箋を貼って欲しいと言われたので」
杏樹の説明を聞いた優弥が付箋を見るとそこにはこう書かれていた。
『10/25に吉田土木様よりご入金がありました』
その付箋は3つ貼られていた。
そしてメモ書きの最後には杏樹の豆印が押されている。メモの文字はとても美しく読みやすかった。
「そうなんだ、親切でいいね。じゃあ早速届けて来るよ」
「お願いします」
今日は得意先課長の代わりに副支店長が福山建設へ行くようだ。
福山建設は銀行から車で5分程の所にある地元で有名な建設会社だ。社長はたまに店にも顔を出すので杏樹はもうすっかり顔馴染みだ。
社長は杏樹の接客が気に入り来店する時はいつも番号札を無視して杏樹の窓口へ来る。
付箋の件もその時に直接社長から頼まれていた。
こういった窓口係のきめ細やかな対応が客の心を掴みその後大きな取引へと続く。
だからたかが窓口と言ってあなどってはいけない。
福山建設へ現金を届けに行った優弥は1時間ほどで戻って来た。
その後は副支店長席へどっしりと座りたまっていた書類に検印を押し始める。
その時応接室から莉乃と正輝が出て来た。応接室に入って一時間が経とうとしていた。
二人が応接室から出て来たのを見た優弥は少し怪訝な表情をしていた。そして近くにいた後方事務のパート女性に聞く。
「あの方は?」
「ああ、早乙女家具のお嬢さんですよ」
「早乙女家具? それって国道沿いにある家具屋の? 急に業務拡大をしたっていう?」
「そうです」
「ありがとう」
優弥は少し何かを考えてから突然席を立つと融資課長の元へ向かった。
優弥がまだ営業フロアにいる事に気付いた莉乃はうっとりした表情で優弥を見つめる。
それに気付いた美奈子が杏樹にだけ聞こえるように言った。
「元彼が振られる日も近いかもよ……」
美奈子がクスクス笑いながら言ったので杏樹も微笑みながら頷く。杏樹も同じ事を思ったからだ。
なぜなら今目の前で莉乃が、
「副支店長さんを紹介してよ」
と正輝に言っているのが聞こえたからだ。
そこで再び美奈子が言った。
「でももし『やり直そう』って言われても乗ったらダメよ。もしそんな事を言われたら振られた時の情景を思い出して!」
「もちろんわかってます。大丈夫ですよ」
杏樹は美奈子を安心させるように微笑む。
杏樹の心はもう既に正輝からは離れていた。今日正輝と莉乃が仲睦まじく応接室に入って行くのを見てほとんど何も感じなかった。
それよりも職場で公私混同している正輝の事を少し冷めた目で見ている自分がいた。
(付き合っている時には見えなかった事が今は凄く良く見えるわ)
改めて正輝を観察してみると自分はなぜあんな男と付き合っていたのかと思ってしまう。
それほど今の杏樹の目に映る正輝には何の魅力も感じなかった。
その時新たな客が入って来たので杏樹は気持ちを切り替えて声をかける。
「いらっしゃいませ」
声を張り上げた杏樹の顔は晴れ晴れとしたいい笑顔をしていた。
コメント
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お嬢様わかりやす🤣
お嬢様は、優弥さんに乗り換えようとしてますねぇ。 でも優弥さんは手に入りませんわよ。 正輝の振られる日も近いかも。 家具屋が急成長したのを怪しんでいる様子だから、正輝共々痛い目にあるのかな?
フフフ🤭杏樹の敵討ちしてくれそうね。融資不正で正輝きっと飛ばされるでしょー?お嬢が告白しても副支店長にバッサリ振られるでしょうし(*ФωФ)フフフ…