閉店後、勘定が一度で合った店舗フロアではそれぞれ片付けを始めていた。
その時北門課長が杏樹を呼んだ。
「杏樹、これを得意先課の須田(すだ)さんに持って行ってくれないか?」
北門課長はそう言って今日新しく作ったばかりの顧客の通帳を杏樹に差し出した。
得意先課の須田は正輝の2年後輩で穏やかで優しい行員だ。
「私がですか?」
「そうだ。この3000万円の定期預金は杏樹の丁寧な接客に感動したお客様がわざわざ他の銀行からうちに移して下さったんだ。だから胸を張って持って行きなさい」
課長が褒めてくれたので杏樹は嬉しかったが2階には正輝がいる。だからなるべくなら行きたくない。
しかしここでごねる訳にもいかないので仕方なく通帳を受け取る。
「わかりました」
杏樹は一度窓口へ戻ると美奈子に声をかけた。
「ちょっと2階に行ってきます」
「え? 2階に?」
美奈子は心配そうな顔をしていたが杏樹がニッコリ微笑んだので少しホッとしたようだ。
営業フロアを出て杏樹は階段を上がりながら重いため息をつく。
「須田さんに渡すだけだからなんてことないわ」
杏樹はそう自分に言い聞かせると2階の廊下を進み得意先課の部屋の前まで行った。
開いたドアの向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。副支店長の優弥の声だ。
「今後は女性客と男子行員が応接室に二人きりになるような事は避けて下さい。あの部屋にはカメラがありませんから男女が二人きりで密室にこもる事のないように! 徹底してよろしくお願いいたします」
その後得意先課の課長の声が続く。
「申し訳ありませんでした、私の監督不行き届きです。ほら、森田君も謝罪して」
「______申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
正輝の声を聞いた杏樹は思った。
(あれは納得がいかない時の正輝さんの声ね)
すると優弥が再び口を開く。
「以前他の銀行で密室でのトラブルが問題になった事がありました。例えこちらが何もしていなくても女性客側から訴えられれば立場が弱いのはこちらです。ですからつけ込まれる隙があってはいけません。もちろん柔軟なコミュニケーションも大切ですが誤解されないような最低限の対策は取っておくべきかなと。いちいち口うるさくて申し訳ないですがそこのところをよろしくお願いします」
「「「わかりましたっ」」」
正輝以外の社員が返事をする。
正輝だけはまだ納得していないようだった。
あまりにも緊張感に包まれた室内の雰囲気に杏樹は入るのをためらってしまう。しかし優弥の話が終わったようなので杏樹は意を決してノックをした。
「失礼します」
すぐに皆がこちらを見た。そして得意先課長が杏樹に声をかける。
「桐谷さん、どうした?」
「須田さんにこれを渡しに……」
杏樹は須田の傍まで行くと通帳を渡した。
「ああ、これですか。桐谷さんのお陰で取れた3000万の定期です。本当にありがとうございました」
須田は杏樹に微笑んで言った。須田の言葉を聞いた他の行員達が通帳を覗き込む。
優弥も一緒に見ている。そこで得意先課の課長が優弥に説明した。
「桐谷さんの窓口対応を気に入ったお客さんが他行の預金をうちに移して下さったんですよ」
「なるほど」
急に恥ずかしくなった杏樹は慌てて言った。
「いえ、たまたまです。私がお客様に接客した翌日須田さんが偶然飛び込み営業でそのお宅に行ったようで、須田さんの感じが良かったから移すわーって仰って再び窓口に来て下さったんです」
「そうなのか?」
それは初耳だったらしく課長が須田に聞いた。
すると須田は照れたように言った。
「たまたま飛び込みで行ったのは本当ですがお客様は桐谷さんの対応が素晴らしかったからだと仰っていました。だから桐谷さんのお手柄ですねー」
そこで話しを聞いていた優弥が口を開く。
「連係プレーの勝利でしょうね。二人ともよくやってくれました。今後も期待していますよ」
優弥はフッと微笑んでから得意先課を後にした。
須田は褒められた事がよほど嬉しかったのか優弥の背中に向かって叫んだ。
「あ、ありがとうございますっ!」
そして杏樹にも言った。
「桐谷さんのお陰で副支店長に褒められましたよ。ありがとうございます」
「いえ私は何も。今後は須田さん担当のお客様にになりますのでよろしくお願いします」
杏樹は笑顔でペコリとお辞儀をすると出口へ向かった。
「「桐谷さんお疲れー」」
「失礼します」
部屋を出る杏樹の後ろ姿を正輝は複雑な表情で見つめていた。
なんとか正輝と目を合わせずに済んだ杏樹はホッとしながら階段へ向かう。
階段まで行くと手すりにもたれかかっている優弥がいた。
「あ…お疲れ様です」
「お疲れ。3000万、お手柄だったな」
「いえ、本当にたまたまです」
「で、あいつか?」
「えっ?」
「あの時言ってた『マサキ』っていう元彼は森田の事だろう?」
「…………」
杏樹は驚いて何も言えなかった。あの夜は酔った勢いで恋人の名前まで口にしていたのかと愕然とする。
「どうなんだ?」
「……そうです」
その時優弥は杏樹の頭をポンポンと軽く撫でると言った。
「まあ、あまり気にすんな」
優弥は爽やかな笑みを見せると先に階段を下りて行った。
(あれ? もしかして今慰めてくれたの?)
思わず杏樹の頬が緩む。頭をポンポンと撫でられたのは子供の時以来だ。
優弥に頭を撫でられた瞬間から杏樹の心はなんだかぽかぽかと温かくなっていった。
(フフッ、馬鹿ね、子ども扱いされただけよ)
心の中でそう呟くと、杏樹は軽快に階段を下りて行った。
コメント
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業務中に1時間も応接室で何してたの?仕事せい。手柄を我が物にするのではなく仲間を尊重するところが素敵✨
瑠璃先生追いかけて、こちらのサイトに来たのはいいけど、すぐに前のページに戻れなかったり、読んでる途中のページに戻るのも手間がかかるし等々、読みづらいのは私だけ?
いやいや絶対子供扱いなんかじゃない٩(ˊᗜˋ*)و それはさておき優弥さんに叱られた直後に元カノが褒められるシーンを目撃した正輝が妙な方向にモヤモヤを持っていかないことを祈るのみです!! いや、本当…orz