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第178話 人の影
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前の輪郭は、さらに長く残るようになっていた。
ロータリーの白線。
バス停の標識。
駅舎の柱。
駅名標の文字。
どれもまだ完全ではない。
けれど、もう一瞬だけ見えて消えるものではなくなっている。
避難者たちは、規制線の後ろでその光景を見ていた。
泣く者。
手を合わせる者。
黙ってスマホを握る者。
誰もが、前に出たい気持ちを必死で抑えている。
「戻すために、今やっています!」
警官が繰り返し声を張る。
「この位置を保ってください!」
「押さないでください!」
「順番に確認します!」
その言葉は、少しずつ人々の中に浸透していた。
戻るのを待つのではない。
誰かが戻している。
だから、今は邪魔しないように待つ。
そう理解した人たちが、周りにも声をかけ始めていた。
「押さないで」
「今は待とう」
「動いたら危ないって」
希望が、人を前へ押すだけではなく、踏みとどまらせてもいた。
その中で、木崎は別のものを見ていた。
規制線の向こう。
駅員。
警官。
対策班。
避難者を誘導する係員。
誰もが忙しく動いている。
だが、その動きの中に、ほんの小さな違和感が混じっていた。
駅員の一人が、同じ案内を三回繰り返している。
言葉は正しい。
「こちらには進まないでください」
「安全確認中です」
「こちらには進まないでください」
だが、間が妙に一定だった。
声の高さも、視線の動きも、まるで録音を再生しているように変わらない。
木崎はカメラを向ける。
レンズ越しに見ても、駅員の顔は普通だった。
疲れている。
緊張している。
それだけに見える。
だが、視線が合った瞬間、その駅員はすぐに別の人へ同じ言葉を繰り返した。
「こちらには進まないでください」
「安全確認中です」
木崎は小さく眉を寄せる。
「……まだ切れないな」
隣にいた隊員が聞く。
「何か見えましたか」
「いや」
木崎は答えた。
「見えてはいない。
でも、少し引っかかる」
その程度だった。
騒ぐには弱い。
異常と言い切るには小さい。
けれど、記録には残すべき違和感だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側の駅周辺でも、人々の空気は変わっていた。
石畳の上に浮かんだ現実の白線は、今も消えていない。
現実の駅前ロータリーの一部が、異世界の広場の上に重なっている。
その奥には、駅舎の柱のような影が見えた。
避難者たちは、防衛線の後ろで静かに見守っている。
子どもが母親の手を握りながら、小さく聞く。
「道、できた?」
母親は答えられない。
かわりに、近くの兵士が少しだけ膝を折った。
「まだ作ってる途中だ」
「だから、今は踏まないで待っててくれ」
子どもは真剣に頷いた。
「うん。壊したらだめだもんね」
兵士は一瞬、言葉に詰まった。
そして、少しだけ笑った。
「ああ。そうだ」
そのすぐ後ろで、術師が光具を見守っていた。
白い光は安定している。
だが、光の外側にある影が、さっきより少し濃く見える。
術師は目を細めた。
「……今、揺れたか?」
隣の術師が光具を覗き込む。
「いや、数値は変わっていない」
「そうか」
それだけで終わった。
けれど、その術師はもう一度、光の外側を見た。
人々の足元。
兵士たちの影。
駅の輪郭。
そのどこかで、ほんの一瞬だけ、誰かの影が人の動きと合わなかったように見えた。
見間違いかもしれない。
疲れかもしれない。
けれど、何かが少しだけ引っかかった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園では、光路の維持が続いていた。
ハレルは主鍵を握り、リオは副鍵の反応を保っている。
ダミエはレアの箱を見張りながら、外側の光具と結界杭の流れを確かめていた。
サキは少し離れた机で、現実側と駅周辺から来る情報を書き留めていた。
駅名標。
白線。
バス停。
駅舎の柱。
避難者の反応。
小さなノイズ。
人流の乱れ。
書きながら、サキはふと手を止める。
箱の中のレアが、ずっと床の光を見ていたからだ。
いつものように笑っているわけではない。
挑発するわけでもない。
ただ、光の線を目で追っている。
サキは少し迷ってから、レアの箱のそばへ近づいた。
もちろん、近づきすぎない。
ダミエの結界線の外側で止まる。
レアが顔を上げる。
「なに?」
サキはスマホを胸元に抱えたまま言った。
「少しだけ聞きたいことがある」
「尋問?」
「違う」
サキは首を振った。
「……たぶん、違う」
レアは少しだけ面白そうに目を細めた。
「じゃあ何」
サキは一度、言葉を探した。
レアは敵だ。
何度も怖い思いをさせられた。
完全に信用できる相手ではない。
それでも、今のレアを見ていると、ただの敵として片づけられないものがある。
身体を走る数列。
黒く沈んだ片目。
穴の向こうから戻ってきた存在。
そして、時々見せる、妙に遠い目。
サキは静かに聞いた。
「レアは、私たちと会う前のこと、どれくらい覚えてるの」
レアの表情が、ほんの少しだけ止まった。
ハレルがそれに気づき、こちらを見る。
リオもわずかに眉をひそめる。
ダミエは何も言わない。
ただ、結界の光を少しだけ強めた。
レアは、すぐには答えなかった。
箱の中で膝を抱えたまま、視線を床へ戻す。
「どれくらいって、難しい聞き方だね」
「覚えてないの?」
「覚えてるものもある」
レアは言った。
「でも、順番が変」
「順番?」
「うん」
レアは指先で、自分の膝を軽く叩いた。
「普通はさ、昨日があって、その前があって、もっと前があるでしょ」
「私の記憶は、そうじゃない」
「部屋があって、声があって、役割があって、誰かの顔があって」
「でも、それがどの順番だったのか、時々分からなくなる」
サキは紙に書こうとして、やめた。
今は記録係として聞いているわけではない気がした。
「最初に覚えてるのは?」
レアは目を細めた。
「白い部屋」
ハレルの手が、主鍵の上で少し強くなる。
レアは続ける。
「何もないみたいに白いのに、何かがいっぱい流れてる部屋」
「線とか、数字とか、名前とか」
「声もあった」
「でも、誰の声かは分からない」
サキは静かに聞く。
「カシウス?」
レアは少しだけ首を傾げる。
「たぶん、近いところにはいた」
「でも、最初の声がカシウスだったかは分からない」
「もっとたくさんあった気がする」
「誰かが私に、何かを決めようとしてた」
「何を?」
「役割」
その一言で、体育館の空気が少し冷えた。
レアは、自分の胸元を見た。
「どの顔で立つか」
「どの言葉を使うか」
「誰に近づくか」
「何を壊すか」
「そういうのを、先に決められてた感じ」
サキは喉が詰まるような感覚を覚えた。
レアは笑った。
けれど、その笑いはいつものものより薄い。
「変でしょ」
「自分のことなのに、自分で選んだ感じがあんまりない」
リオが低く言う。
「それで人を傷つけたことが消えるわけじゃない」
「分かってるよ」
レアはすぐに返した。
「消えない」
「でも、覚えてる私と、やった私が、時々同じ場所にいない」
サキはスマホを強く握った。
「……それは、穴の向こうに落ちたから?」
「それもある」
レアは答える。
「でも、たぶん最初から少しそうだった」
「私の中に、私以外のものが混じってた」
ハレルが口を開く。
「サロゲートみたいなものか」
レアは少し考える。
「似てるけど、違う」
「サロゲートはもっと役割の塊って感じ」
「私は……もっと、余り物を繋いだ感じ」
「余り物?」
サキが聞く。
レアは、少しだけ目を伏せた。
「誰かの顔の残り」
「誰かの声の残り」
「使われなかった命令」
「壊れた観測」
「そういうものを、形にしたみたいな」
体育館のどこかで、光具が小さく明滅した。
サキは、思わず言った。
「……怖くなかったの」
レアは、少しだけ笑う。
「怖いって分かる前は、怖くないよ」
その答えに、サキは何も返せなかった。
レアは続ける。
「でも、後から怖くなった」
「自分が喋ってる言葉が、本当に自分の言葉か分からない時」
「笑ってるのに、なんで笑ってるのか分からない時」
「誰かを傷つけてるのに、止まる理由が見つからない時」
レアの黒い片目の奥で、影がゆっくり動いた。
「そういう時は、少し怖かったかもね」
サキは、小さく息を吸った。
同情してはいけない。
そう思う自分がいる。
でも、何も感じないでいることもできない。
「じゃあ、今は?」
レアが顔を上げる。
「今?」
「今のレアは、自分で喋ってるの?」
その問いに、レアは初めて少し困ったような顔をした。
「……たぶん」
「たぶん?」
「うん」
レアは肩をすくめる。
「たぶん、今は私が喋ってる」
「少なくとも、こう答えようって考えたのは私」
サキは黙って頷いた。
レアはそんなサキを見て、少しだけ目を細める。
「変だね」
「何が」
「私、あなたに怖がられる方が慣れてる」
「こういう聞かれ方は、少し変」
「私も怖いよ」
サキは正直に言った。
「でも、知らないまま全部を決めるのも怖い」
その言葉に、レアはしばらく黙った。
そして、ぽつりと呟く。
「サキは、怖いのに見るんだね」
「見ないと、もっと怖いから」
レアは小さく笑った。
今度の笑いは、ほんの少しだけ人間のものに近かった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
資材ヤードでは、駅周辺の範囲測定が続いていた。
日下部は画面の数値を追いながら、何度も同じ言葉を繰り返している。
「広げない」
「維持だけ」
「見えている範囲を測るだけ」
佐伯が横で記録を取る。
「駅周辺、視認構造増加」
「避難者反応、抑制継続」
「人流データ、小ノイズあり」
村瀬がそこで顔を上げた。
「小ノイズ、増えてませんか」
日下部はすぐに画面を切り替える。
人流データ。
避難者の密度。
警官の移動。
駅員の誘導。
その流れの中に、小さな乱れがいくつか点のように現れている。
大きな異常ではない。
暴走でもない。
だが、さっきより数が増えていた。
「……微細な乱れが複数」
日下部が言う。
「でも、光路自体は安定しています」
木崎がすぐに聞く。
「人の動きか」
「はい」
「設備じゃなく、人の流れの方です」
木崎は眉を寄せた。
設備ではなく、人。
それが嫌だった。
ラストは金属と導線を食った。
でも、今の乱れは別の気配がする。
「映像は?」
佐伯がすぐに駅周辺の映像を出す。
警官が誘導している。
駅員が説明している。
避難者が下がっている。
どれも普通だ。
普通に見える。
木崎は画面の中の一人の駅員を指した。
「こいつ、さっきも同じ場所にいなかったか」
村瀬が別の映像を戻す。
同じ駅員が映っている。
ただし、位置が少し違う。
表情は変わらない。
手の動きも同じ。
言葉の間も同じに見える。
日下部が小さく言った。
「……疲労で動きが単調になってるだけかもしれません」
木崎は頷く。
「ああ。今はまだそれでいい」
「ただ、印をつけろ」
城ヶ峰も短く言う。
「小さく扱え」
「現場を止めるな」
日下部はその駅員の動きに印をつけた。
小さな違和感。
まだ敵とは呼べないもの。
けれど、記録にだけは残る。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側でも、似たようなことが起きていた。
避難者の列を整理していた兵士の一人が、同じ言葉を繰り返している。
「その場で待て」
「その場で待て」
「その場で待て」
命令としては正しい。
混乱を抑えるには必要な言葉だ。
だが、隣にいた別の兵士が、その声に少しだけ違和感を覚えた。
「おい、少し水を飲め」
声をかけると、その兵士は振り向く。
顔は普通だった。
目も黒くない。
影も走っていない。
ただ、少し疲れているだけに見える。
「大丈夫だ」
その兵士は答えた。
「その場で待て」
「俺に言うな」
「あ……ああ」
兵士は一瞬だけ戸惑ったように見えた。
そして、水袋を受け取る。
異常ではない。
まだ、異常ではない。
だが、声をかけた兵士は、その場を離れず様子を見ることにした。
光路の外側で、人の動きがほんの少しだけ揺れていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
サキとレアの会話は、まだ続いていた。
ハレルもリオも、口を挟まない。
ダミエだけが結界の状態を確認しながら、二人の声を聞いている。
サキは少し迷ってから聞いた。
「レアは、戻りたい場所ってあるの?」
レアは瞬きをした。
「戻りたい場所?」
「うん」
サキは言う。
「私たちは現実へ戻りたい。
リオはユナさんのところへちゃんと戻りたい。
みんな、それぞれあるでしょ」
「レアには、そういう場所はあるの?」
レアは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、さっきまでより長かった。
「……ないと思ってた」
「思ってた?」
「うん」
レアは床の光を見る。
「私には、戻る場所なんかないって思ってた」
「白い部屋も、穴の向こうも、誰かの命令も、どれも場所って感じじゃないから」
サキは黙って聞く。
「でも」
レアは続ける。
「今、こうやって箱の中にいて、外でみんなが何かを戻そうとしてるのを見てると」
「戻る場所がないっていうのは、少し寒いね」
その声は、とても小さかった。
サキは、胸の奥が痛くなるのを感じた。
レアは敵だ。
それは変わらない。
でも、戻る場所がないという言葉だけは、簡単に切り捨てられなかった。
「……これから作れるかもしれないよ」
サキが言うと、レアは驚いたようにサキを見た。
「私が?」
「分からない」
サキは正直に言った。
「でも、今のレアが自分で喋ってるなら」
「これからのことも、少しは自分で決められるんじゃないの」
レアはしばらくサキを見ていた。
そして、小さく笑った。
「甘いね」
「そうかも」
「でも」
レアは言った。
「嫌いじゃないよ、そういうの」
その瞬間、レアの身体を走る数列が、ほんの少しだけ穏やかになったように見えた。
サキはそれを見て、すぐにノノへ伝えようとした。
けれど、その前にレアが口を開く。
「でも、サキ」
「何」
「戻る場所を作る時は、気をつけて」
サキの手が止まる。
レアは静かに言う。
「場所って、人がいるから場所になる」
「人がたくさん動くと、そこに役割も集まる」
「役割が集まると、影も寄ってくる」
ハレルがすぐに顔を上げた。
「それは、今の駅周辺の話か」
レアは肩をすくめる。
「分からない」
「でも、そういうものだと思う」
リオが低く言う。
「もっとはっきり言え」
「はっきりは知らない」
レアは答えた。
「ただ、光が道を作るなら、そこを通りたいものは人だけじゃない」
その言葉に、体育館の空気が静かに重くなった。
ノノの声が、イヤーカフから入る。
『今の、聞いた』
『駅周辺の人流データに小さい乱れが出てる』
『まだ大きな異常じゃない。でも、注意する』
サキはスマホを握りしめる。
今、戻り始めた場所。
希望が集まる場所。
そこに、人だけではない何かも寄り始めているかもしれない。
まだ、確かな異変ではない。
けれど、ただの気のせいとも言い切れなくなってきた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/薄い演算空間】
パイソンは、白い配置図を見ていた。
駅周辺の光は、前より少し濃い。
人々の流れも生まれている。
警官、駅員、兵士、避難者。
それぞれが、それぞれの役割で動き始めている。
パイソンは、その流れの中に生まれた小さな乱れを見た。
まだ点だ。
線ではない。
形も持っていない。
だが、点は増え始めている。
「希望は、動きを作る」
パイソンは静かに呟いた。
「動きは、役割を呼ぶ」
白い光の外側に、薄い影が一つ、また一つと滲む。
まだ誰にも見えない。
まだ誰も、それを敵とは呼ばない。
だからこそ、都合がいい。
パイソンは指先で、駅周辺の人流をほんの少しなぞった。
「焦らなくていい」
「まだ、戻っているように見えればいい」
その声は静かだった。
光が強くなるほど、
その外側にできる影も、少しずつ濃くなっていく。
◆ ◆ ◆
駅周辺は、戻り始めていた。
人々は希望を見て、踏みとどまった。
警官も兵士も、言葉を選びながらその希望を支えた。
学園では、サキがレアの過去に触れ、レアは初めて少しだけ、自分の記憶を語った。
白い部屋。
役割。
余り物を繋いだような自分。
戻る場所のない寒さ。
そして、光の道に寄ってくるもの。
まだ、大きな異変は起きていない。
けれど、人の流れの中に、小さな乱れが増え始めていた。
誰もそれを、まだ影とは呼ばなかった。
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