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第一章 一話
「くだらないな……」
ささやくような声が、揺れる馬車の中に落ちた。
車輪が軋む音と、森を切り裂くように進む蹄の音だけが響いている。
「お心内が漏れておりますよ、閣下」
向かいに座る男――ジルフェールが、穏やかな声で応じた。
深い緑の外套に身を包み、その佇まいは簡素でありながらどこか気品を帯びている。肩口で揺れる小麦色の髪と、静かな眼差しは年齢すら曖昧に見せた。
レグニス・フォン・オルセンブルグは、小さく息を吐いた。
黒髪に鋭い眼差し。深い色合いの正装に身を纏い、片肘を肘掛けに預け、頬に指先を添えている。その佇まいからは、静粛とした空間の中で際立った威圧感を放っていた。
「……分かっているだろう、ジルフェール」
「我が国の現状を鑑みれば、同国同士の婚姻など、書状一つで済ませても差し支えなかったはずだ」
「しかしながら」
ジルフェールは静かに言葉を継ぐ。
「男が女を娶る際、自ら迎えに赴く――それがオルセンブルグ王国における長久の伝統と文化にございます。王族である閣下とて例外ではございません」
「正式な手続きを省略するようなことがあれば、相手はぞんざいに扱われたと受け取るでしょう。それは関係悪化のみならず、閣下ご自身の評価にも関わります」
「現在、閣下は次期国王候補としての地位を維持しておられますが――それは決して盤石なものではございません」
その眼差しが、わずかに鋭くなる。
「他の候補者たちも、水面下で着実に力を蓄えております。ほんの僅かな隙でも、立場が揺らぐ可能性は否定できません」
静かに言い切る。
「ゆえに本件は、閣下の基盤をより強固にするための重要な一手と存じます」
少しの静寂。
やがて、レグニスは小さく息を吐いた。
「……理解はしている」
視線を窓の外へ向ける。
「だが、今この状況でなお、伝統や体面を優先する貴族どもを見ると――どうにも、馬鹿馬鹿しく思えてな」
一瞬の間。
「……すまない。今のは、他家に対する非礼だった。忘れろ」
短く言い、視線を逸らす。
ジルフェールは何も言わず、静かに頷いた。
「それで――我が妻となる者は、アリシアと申したか」
レグニスが何気なく問いかける。
「アリシア・ウルスブルグ嬢、でございます」
「領民などに聞いた話では、身分の上下を問わず分け隔てなく接するお方であるとか。民を思う心優しき御方との評判にございます」
「……そうか」
レグニスはわずかに目を細めた。
「よく出来た話だ」
視線を外し嘲笑するように口を開いた。
「……」
ジルフェールは先の発言に疑問を呈しようとした。
レグニスは小さな、まるで囁くように応える。
「そのような“都合のいい令嬢”が、これからの自身の立場と状況を理解しているとは思えんな」
その声には、冷ややかな響きがあった。
やがてレグニスは目を閉じ、心の奥底で自身を鼓舞するように呟く。
『必ず約束は果たす….そうでなければ….俺はーー』
その時だった。
「――止まれ!!」
鋭い声と共に、馬車が大きく揺れた。
レグニスとジルフェールは即座に扉を開き、外へ出る。
森の空気が、明らかに変わっていた。
「報告しろ」
「はっ――魔物の群れです!ウルフ種、それに……数が異常です!」
視線の先。
木々の隙間から現れたのは、銀毛の魔狼――シュルスウルフ。
その数、一つや二つではない。
十、二十――さらに奥からも気配が迫る。
「……多すぎるな」
レグニスが低く呟く。
「本来、この規模が下層域に現れること自体、異常です」
ジルフェールの声にも、わずかな緊張が混じる。
「来ます!」
咆哮と共に、群れが一斉に飛びかかる。
「散開しろ!」
レグニスが踏み込む。
同時に、掌に魔力を巡らせる。
「――潰れろ」
拳に魔力が収束し、鋭い光が形を成す。瞬間、レグニスの拳が、頭部に振り落ちる。接近した一匹のシュルスウルフが地面に叩きつけられた。
続けざまに剣を抜き放つ。
一太刀。
二体、三体――抵抗すら許さず魔物が沈む。
護衛たちもまた連携し、魔法を織り交ぜながら迎撃していた。炎が走り、風が裂き、氷が地を縫う。
精鋭――その言葉に偽りはない。
だが。
「……増えている?」
誰かの声が震える。
気づけば、包囲されていた。
「おかしい……」
レグニスが眉をひそめる。
「この規模は異常だ」
その瞬間――
地面が震えた。
重い、圧倒的な気配。
現れたのは、
シュルスウルフより一回り大きく、禍々しい魔力を纏った存在。
「……上位種……!」
あり得ない。
ここは下層だ。
本来、こんな存在が現れる場所ではない。
空気が張り詰める。
「これは――」
ジルフェールが静かに言う。
「厄介ですね」
――ビュオオオオッ!。
大地をきり裂くような風圧。
土煙が激しく舞い視界を絶たれる。
「まずい……」
次の瞬間。
再び、轟音。
雷撃のような衝撃は遮っていた土煙を薙ぎ払う。
同時に微かに見える先の光景が徐々に鮮明なり、自然と目元を塞いでいた腕が下がる。
ようやく、完全に視界が晴れ、先を見渡す。
瞬時に剣を握り締め、追撃に備える。が……
上位種の首が、落ちていた。
「……え?」
誰かが呆然と呟く。
そこにいたのは――
一人の少女であった。
淡く赤に染められた髪。
薄く日焼けしたような肌。
軽装の下に隠しきれない、引き締まった体。
両手には、異様なほど均整の取れた二振りの剣。
「……あー」
少女は周囲を見渡す。
「やっぱり降りてきてるね、これ」
軽い口調だった。
まるで散歩の途中のように。
次の瞬間。
消えた。
否、速すぎて見えない。
気づけば。
魔物が、地に伏していた。
あれほどの数が――一体残らず。
静寂。
その場にいた者は声を発すことはなかった。
風が通り抜ける。
少女は何事もなかったかのように振り返った。
「大丈夫?」
その一言で、全員が現実に引き戻される。
この時、ジルフェールを含めた護衛の者たちは、この事態に安堵と困惑していた。そう、一名を除いて……
レグニスは、ただただ彼女を見つめていた。
「……美しい」
胸の奥が、ざわつく。
俺はこの光景を一度見たことがある。
だが、掴めない。
「……名を」
自然と、言葉が零れる。
少女は一瞬だけ考える素振りを見せ、
「ミラ」
短く名乗った。
その瞬間。
レグニスの中で、何かが繋がりかける。
――だが、同時に鈍い痛みが襲い届かない。
それでも。
確信だけが残る。
残る気がする。
一歩、また一歩と踏み出す。
「ミラ……」
真っ直ぐに見据え――
「俺はお前に惚れた」
沈黙。
空気が凍りつく。
ジルフェールが驚愕のあまり目を見開く。
(……閣下!?)
少女――ミラは、
数秒、無言で彼を見つめ、
そして、口を開いた。
「……え?」
#呪い