テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ライトノベル
こはる
610
#異世界
あのち
1,452
上野文
4,351
#探偵
橘靖竜
4,825
コメント
1件
めっちゃ笑ったwwくしゃみで封印解除って楓ちゃんらしすぎるし、しかも罰個体に「寝直していいか」って言わせるところがもうね…。イオナ姉との温度差漫才もウィルソンのノリも全部刺さる。そして「虫王カエデ」って称号、めっちゃ称号っぽくて草。次はどうやってあの魔物から逃げるのか気になるわ🔥
「落ちるのは、しばらく遠慮したいです」
そう言ったばかりなのに、奈落の底はまだ終わっていませんでした。
前には、暗い通路が一本だけ続いています。
左右は崩れた岩で塞がっています。
後ろは、さっき落ちてきた穴です。
つまり、選択肢はありません。
私は、仕方なく前に進みました。
足元には、さっきの崩落で砕けた岩がごろごろ転がっています。
土煙もまだ少し残っていました。
なんか、鼻がむずむずします。
「……う」
『カエデ。呼吸が乱れています』
イオナお姉ちゃんの声が、胸元から静かに響きました。
「土ぼこりが……」
『呼吸を整えなさい』
「くしゃみって、呼吸でどうにかなるものなの……?」
『気合いです』
「イオナお姉ちゃん、たまに根性論になるよね……」
くしゃみをしたらダメな気がします。
だって、こういう時のくしゃみは、だいたいよくないことを起こします。
なぜ分かるかというと、私だからです。
私の人生は、だいたい小さなことから崩れます。
「止まって……」
鼻の奥が、むずむずします。
「今は、やめて……」
むずむずが、どんどん強くなります。
『背筋を伸ばしなさい』
「くしゃみの時も……?」
『もちろんです。崩れた姿勢でのくしゃみは、体幹に悪……』
「へっくしゅん」
イオナお姉ちゃんの言葉を遮って、小さなくしゃみが出ました。
ほんとうに、小さなくしゃみです。
かわいいくらいのやつでした。
たぶん、近所の子犬の方が大きい音を出します。
世界に迷惑をかける規模ではありません。
──そのはずでした。
ピコン。
くしゃみと同時に、目の前に、青白いログが出ました。
【幸運値−530,000による理不尽な確率干渉を確認】
「……今の、くしゃみだよ?」
『あなたの場合、呼吸も確率事象です』
「息するだけで事象……?」
くしゃみの風で、足元の小さな砂粒がひとつ転がりました。
ころ。
その砂粒が、近くの小石に当たりました。
こん。
小石が、さらに別の石に当たりました。
かこん。
その石が、割れた骨みたいな棒を押しました。
こつん。
棒の先に止まっていた、小さな白い羽虫が驚いて飛び上がりました。
「あ、虫……」
羽虫はふらふらと飛び、私の顔の前を通り過ぎました。
「こっち来ないで……」
私は反射的に一歩下がりました。
その一歩で、足元の石を踏みました。
「……あ」
石が跳ねました。
ぴょん。
跳ねた石が、壁の古い鎖に当たりました。
からん。
鎖が外れました。
がしゃん。
鎖の先についていた錆びた鉄の輪が落ちました。
ごとん。
鉄の輪が、羽虫をびっくりさせました。
羽虫はさらに慌てて飛びました。
ふらふら。
ふらふら。
ふらふら。
「もう、どこかに止まって……」
私は祈りました。
そして、すぐに祈りは、届きました。
──最悪の形で。
ぽち。
羽虫は、壁に埋まっていた古い赤い突起に止まりました。
止まっただけです。
たぶん、羽虫も疲れていたんだと思います。飛び回らされて、びっくりさせられて、ようやく見つけた休憩場所です。
気持ちは、分かります。
でも、その突起は。
赤い押しボタンでした。
「…………」
『…………』
私とイオナお姉ちゃんは、同時に黙りました。
沈黙の中、羽虫だけが満足そうに羽を畳みました。
「……ねえ、イオナお姉ちゃん」
『なんですか』
「あのボタン……何のボタンだろうね……?」
『……』
「……イオナお姉ちゃん?」
『カエデ』
「うん」
『世の中には、知らない方がいいボタンがあります』
「あ、これ終わった?」
ゴウン。
地の底から響くような低い音が、奈落に響き渡りました。
壁一面に、古い文字が浮かび上がります。
青白い光が血管みたいに走り、地面のひび割れが順番に輝き始めました。
羽虫が、慌てて飛んでいきました。
「あ、逃げた」
『賢明な判断です』
光は、どんどん強くなっていきます。
「……私、押してないよ」
『羽虫ですね』
「虫だよね」
『はい。虫です』
「じゃあ、私じゃないよね……?」
『……』
ピコン。
無慈悲な電子音が鳴りました。
【封印残滓起動を確認】
「え?」
【起動要因:対象個体カエデのくしゃみによる連鎖的環境干渉】
「えぇ?」
【補足:羽虫の行動も、対象個体の幸運値低下による確率誘導の影響下にあります】
「虫まで私のせい……?」
【羽虫に罪はありません】
「私にもないと思う……」
【総合判定:だいたい対象個体のせい】
「だいたいで運命を決めないで……」
【なお、くしゃみ自体は健康的でした】
「フォローいらない」
地面が震えました。
さっきの崩落とは違う震え方です。
もっと重い。もっと古い。
なんか、封印とか禁忌とか、そういう言葉が似合う恐ろしい震え方です。
『カエデ。後退しなさい』
イオナお姉ちゃんの声が、少し低くなりました。
「後退って、どっち……?」
『安全な方向へ』
「それが分かる人は、たぶんここに落ちてないよ……」
正面の壁が、ゆっくり割れました。
ずずずずず、と石が左右に開いていきます。
奥から、赤黒い光が漏れました。
そして、巨大な影が現れました。
角。爪。岩みたいな肩。口元から漏れる、熱い息。
明らかに、普通のモンスターではありません。
「……あれは?」
『封印残滓に接続された懲罰個体です』
「言葉が全部こわい……」
影が、一歩前に出ました。
地面が沈みます。
私も少し沈みました。気持ちが。
巨大な魔物が、ゆっくり目を開きます。
『封印ヲ乱シタ者ヨ』
低い声が、腹の奥に直接響きました。
『名ヲ告ゲヨ』
「……カエデです」
『カエデ』
「はい……」
『貴様ガ、封印ヲ起動シタノカ』
「いいえ。それは虫です」
言ってから、私は自分でも弱い言い訳だと思いました。
でも、本当に虫です。私はくしゃみをしただけです。
『虫』
「はい。虫。」
『ナルホド、虫ヲ使役スル者カ』
「いいえ」
『ならば、虫ノ王カ』
「いいえ」
『虫王カエデ』
「この流れでなんで称号を増やしたのかな……」
『千年、待ッタ』
魔物の声が、少しだけ変わりました。
「え?」
『千年待ッテ、起コサレタ理由ガ……くしゃみ』
魔物が、ゆっくりと私を見下ろしました。
怒っているというよりも、どこかひどく悲しそうでした。
『勇者ノ剣デモナク。聖女ノ祈リデモナク。くしゃみ』
「ご、ごめんなさい……」
『我ノ千年トハ、ナンダッタノカ』
「そんなこと言われても……」
『封印トハ、モット、コウ……厳カニ解カレルモノデハナイノカ』
「私に聞かれても……」
魔物が頭を抱えました。
千年級の恐ろしい魔物が、物理的に頭を抱えました。
『おまけに、ボタンヲ押シタノハ虫』
「うん……」
『我ハ、虫ニ起コサレタ』
「結果的には……そう……」
『……寝直シテイイカ』
「いいよ!?」
私は食い気味に何度も頷きました。
寝てくれるなら、それが一番です。
みんな幸せです。封印も守られます。
しかし。
ピコン。
無情なシステム音が、その希望を打ち砕きました。
【封印残滓:再封印には起動者の魔力署名が必要です】
「…………」
『…………』
『……起動者トハ、誰ダ』
【起動者:羽虫(飛行中・現在位置不明)】
「逃げた虫!!」
『虫ヲ探セェエエ!!』
「無理だよ!! どの虫かもう分かんないよ!!」
『……デハ、代理署名ダ。連鎖ノ元ヲ辿ル』
【連鎖の起点:カエデのくしゃみ】
「戻ってきた……」
『虫王カエデヨ』
「だから虫王じゃ……」
『裁キヲ受ケヨ』
「話が戻った!!」
魔物は、寝直す道を完全に諦めたようでした。
ゆっくりと腕を上げます。
その腕だけで、私の身長より太いです。
イオナお姉ちゃんの装甲が、胸と肩をガッチリと固めました。
『カエデ。正面戦闘は危険です』
「うん……私もそう思う……」
『逃走経路を探しなさい』
「探してる……」
私は震えながら周囲を見ました。
右は、瓦礫。
左は、ひび割れた壁。
後ろは、さっき落ちてきた場所。
前は、巨大な魔物。
そして、魔物の背後。
そこにだけ、ちょうど人ひとりが隠れられそうな岩陰がありました。
「…………」
『カエデ?』
「イオナお姉ちゃん」
『なんですか』
「逃げ場所が……」
私は、魔物の背中側を指さしました。
「なぜか、あっちにしかない……」
魔物の背後。
そこだけが、妙に安全そうに見えました。
たぶん、全然安全ではありません。
でも、今の私にはそこしか見えませんでした。
『背後を取るのですね』
「違うよ……隠れたいだけだよ……」
『高度な暗殺判断です』
「だから違うよ……」
『敵の死角へ回り込み、無防備な背面を確保する。教科書通りです』
「教科書、読んだことないよ……」
『本能で教科書を再現している。さすが我が妹です』
「何しても褒められる……こわい……」
巨大な魔物が、こちらへ一歩踏み出しました。
『虫王カエデヨ。裁キヲ受ケヨ』
「だから虫王じゃない……」
私は泣きそうになりながら、そっとポケットに手を入れました。
指先に、冷たい石の感触が触れました。
ウィルソンが、いました。
「……よかった」
『よくありません。状況は最悪です』
「でも、ウィルソンがいてくれる……」
誰かがそばにいてくれる──。
それだけで、少しだけ落ち着きました。
それだけで、人はちょっとだけ頑張れるんだと思います。
巨大な魔物が吠えました。
空気がびりびり震えて、足元の小石が跳ねます。
私は、魔物の背後にある岩陰を見ました。
逃げたい。隠れたい。食べられたくない。
そして、できれば何か食べたい。
「……行くよ、ウィルソン」
私はポケットの中の石を、ぎゅっと握りました。
『おぅ! カエデ! やってやろうぜ!!』
ウィルソンの声が、私の頭に響きました。
「やるっていうか……できれば逃げたいんだけど……」
『逃げるために、まず投げろ!!』
「理屈がサクラ寄り……」
勇者って、やっぱり難しいです。
(つづく)