テラーノベル
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33
Cafe Latteベース隊長
85
#聖女
桜井正宗@オートスキル1巻発売
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#ライトノベル
こはる
806
「落ちるのは、しばらく遠慮したいです」
そう言ったばかりなのに、奈落の底はまだ終わっていませんでした。
前には、暗い通路が一本だけ続いています。
左右は崩れた岩で塞がっています。
後ろは、さっき落ちてきた穴です。
つまり、選択肢はありません。
私は、仕方なく前に進みました。
足元には、さっきの崩落で砕けた岩がごろごろ転がっています。
土煙もまだ少し残っていました。
なんか、鼻がむずむずします。
「……う」
『カエデ。呼吸が乱れています』
イオナお姉ちゃんの声が、胸元から静かに響きました。
「土ぼこりが……」
『呼吸を整えなさい』
「くしゃみって、呼吸でどうにかなるものなの……?」
『気合いです』
「イオナお姉ちゃん、たまに根性論になるよね……」
くしゃみをしたらダメな気がします。
だって、こういう時のくしゃみは、だいたいよくないことを起こします。
なぜ分かるかというと、私だからです。
私の人生は、だいたい小さなことから崩れます。
「止まって……」
鼻の奥が、むずむずします。
「今は、やめて……」
むずむずが、どんどん強くなります。
『背筋を伸ばしなさい』
「くしゃみの時も……?」
『もちろんです。崩れた姿勢でのくしゃみは、体幹に悪……』
「へっくしゅん」
イオナお姉ちゃんの言葉を遮って、小さなくしゃみが出ました。
ほんとうに、小さなくしゃみです。
かわいいくらいのやつでした。
たぶん、近所の子犬の方が大きい音を出します。
世界に迷惑をかける規模ではありません。
──そのはずでした。
ピコン。
くしゃみと同時に、目の前に、青白いログが出ました。
【幸運値−530,000による理不尽な確率干渉を確認】
「……今の、くしゃみだよ?」
『あなたの場合、呼吸も確率事象です』
「息するだけで事象……?」
くしゃみの風で、足元の小さな砂粒がひとつ転がりました。
ころ。
その砂粒が、近くの小石に当たりました。
こん。
小石が、さらに別の石に当たりました。
かこん。
その石が、割れた骨みたいな棒を押しました。
こつん。
棒の先に止まっていた、小さな白い羽虫が驚いて飛び上がりました。
「あ、虫……」
羽虫はふらふらと飛び、私の顔の前を通り過ぎました。
「こっち来ないで……」
私は反射的に一歩下がりました。
その一歩で、足元の石を踏みました。
「……あ」
石が跳ねました。
ぴょん。
跳ねた石が、壁の古い鎖に当たりました。
からん。
鎖が外れました。
がしゃん。
鎖の先についていた錆びた鉄の輪が落ちました。
ごとん。
鉄の輪が、羽虫をびっくりさせました。
羽虫はさらに慌てて飛びました。
ふらふら。
ふらふら。
ふらふら。
「もう、どこかに止まって……」
私は祈りました。
そして、すぐに祈りは、届きました。
──最悪の形で。
ぽち。
羽虫は、壁に埋まっていた古い赤い突起に止まりました。
止まっただけです。
たぶん、羽虫も疲れていたんだと思います。飛び回らされて、びっくりさせられて、ようやく見つけた休憩場所です。
気持ちは、分かります。
でも、その突起は。
赤い押しボタンでした。
「…………」
『…………』
私とイオナお姉ちゃんは、同時に黙りました。
沈黙の中、羽虫だけが満足そうに羽を畳みました。
「……ねえ、イオナお姉ちゃん」
『なんですか』
「あのボタン……何のボタンだろうね……?」
『……』
「……イオナお姉ちゃん?」
『カエデ』
「うん」
『世の中には、知らない方がいいボタンがあります』
「あ、これ終わった?」
ゴウン。
地の底から響くような低い音が、奈落に響き渡りました。
壁一面に、古い文字が浮かび上がります。
青白い光が血管みたいに走り、地面のひび割れが順番に輝き始めました。
羽虫が、慌てて飛んでいきました。
「あ、逃げた」
『賢明な判断です』
光は、どんどん強くなっていきます。
「……私、押してないよ」
『羽虫ですね』
「虫だよね」
『はい。虫です』
「じゃあ、私じゃないよね……?」
『……』
ピコン。
無慈悲な電子音が鳴りました。
【封印残滓起動を確認】
「え?」
【起動要因:対象個体カエデのくしゃみによる連鎖的環境干渉】
「えぇ?」
【補足:羽虫の行動も、対象個体の幸運値低下による確率誘導の影響下にあります】
「虫まで私のせい……?」
【羽虫に罪はありません】
「私にもないと思う……」
【総合判定:だいたい対象個体のせい】
「だいたいで運命を決めないで……」
【なお、くしゃみ自体は健康的でした】
「フォローいらない」
地面が震えました。
さっきの崩落とは違う震え方です。
もっと重い。もっと古い。
なんか、封印とか禁忌とか、そういう言葉が似合う恐ろしい震え方です。
『カエデ。後退しなさい』
イオナお姉ちゃんの声が、少し低くなりました。
「後退って、どっち……?」
『安全な方向へ』
「それが分かる人は、たぶんここに落ちてないよ……」
正面の壁が、ゆっくり割れました。
ずずずずず、と石が左右に開いていきます。
奥から、赤黒い光が漏れました。
そして、巨大な影が現れました。
角。爪。岩みたいな肩。口元から漏れる、熱い息。
明らかに、普通のモンスターではありません。
「……あれは?」
『封印残滓に接続された懲罰個体です』
「言葉が全部こわい……」
影が、一歩前に出ました。
地面が沈みます。
私も少し沈みました。気持ちが。
巨大な魔物が、ゆっくり目を開きます。
『封印ヲ乱シタ者ヨ』
低い声が、腹の奥に直接響きました。
『名ヲ告ゲヨ』
「……カエデです」
『カエデ』
「はい……」
『貴様ガ、封印ヲ起動シタノカ』
「いいえ。それは虫です」
言ってから、私は自分でも弱い言い訳だと思いました。
でも、本当に虫です。私はくしゃみをしただけです。
『虫』
「はい。虫。」
『ナルホド、虫ヲ使役スル者カ』
「いいえ」
『ならば、虫ノ王カ』
「いいえ」
『虫王カエデ』
「この流れでなんで称号を増やしたのかな……」
『千年、待ッタ』
魔物の声が、少しだけ変わりました。
「え?」
『千年待ッテ、起コサレタ理由ガ……くしゃみ』
魔物が、ゆっくりと私を見下ろしました。
怒っているというよりも、どこかひどく悲しそうでした。
『勇者ノ剣デモナク。聖女ノ祈リデモナク。くしゃみ』
「ご、ごめんなさい……」
『我ノ千年トハ、ナンダッタノカ』
「そんなこと言われても……」
『封印トハ、モット、コウ……厳カニ解カレルモノデハナイノカ』
「私に聞かれても……」
魔物が頭を抱えました。
千年級の恐ろしい魔物が、物理的に頭を抱えました。
『おまけに、ボタンヲ押シタノハ虫』
「うん……」
『我ハ、虫ニ起コサレタ』
「結果的には……そう……」
『……寝直シテイイカ』
「いいよ!?」
私は食い気味に何度も頷きました。
寝てくれるなら、それが一番です。
みんな幸せです。封印も守られます。
しかし。
ピコン。
無情なシステム音が、その希望を打ち砕きました。
【封印残滓:再封印には起動者の魔力署名が必要です】
「…………」
『…………』
『……起動者トハ、誰ダ』
【起動者:羽虫(飛行中・現在位置不明)】
「逃げた虫!!」
『虫ヲ探セェエエ!!』
「無理だよ!! どの虫かもう分かんないよ!!」
『……デハ、代理署名ダ。連鎖ノ元ヲ辿ル』
【連鎖の起点:カエデのくしゃみ】
「戻ってきた……」
『虫王カエデヨ』
「だから虫王じゃ……」
『裁キヲ受ケヨ』
「話が戻った!!」
魔物は、寝直す道を完全に諦めたようでした。
ゆっくりと腕を上げます。
その腕だけで、私の身長より太いです。
イオナお姉ちゃんの装甲が、胸と肩をガッチリと固めました。
『カエデ。正面戦闘は危険です』
「うん……私もそう思う……」
『逃走経路を探しなさい』
「探してる……」
私は震えながら周囲を見ました。
右は、瓦礫。
左は、ひび割れた壁。
後ろは、さっき落ちてきた場所。
前は、巨大な魔物。
そして、魔物の背後。
そこにだけ、ちょうど人ひとりが隠れられそうな岩陰がありました。
「…………」
『カエデ?』
「イオナお姉ちゃん」
『なんですか』
「逃げ場所が……」
私は、魔物の背中側を指さしました。
「なぜか、あっちにしかない……」
魔物の背後。
そこだけが、妙に安全そうに見えました。
たぶん、全然安全ではありません。
でも、今の私にはそこしか見えませんでした。
『背後を取るのですね』
「違うよ……隠れたいだけだよ……」
『高度な暗殺判断です』
「だから違うよ……」
『敵の死角へ回り込み、無防備な背面を確保する。教科書通りです』
「教科書、読んだことないよ……」
『本能で教科書を再現している。さすが我が妹です』
「何しても褒められる……こわい……」
巨大な魔物が、こちらへ一歩踏み出しました。
『虫王カエデヨ。裁キヲ受ケヨ』
「だから虫王じゃない……」
私は泣きそうになりながら、そっとポケットに手を入れました。
指先に、冷たい石の感触が触れました。
ウィルソンが、いました。
「……よかった」
『よくありません。状況は最悪です』
「でも、ウィルソンがいてくれる……」
誰かがそばにいてくれる──。
それだけで、少しだけ落ち着きました。
それだけで、人はちょっとだけ頑張れるんだと思います。
巨大な魔物が吠えました。
空気がびりびり震えて、足元の小石が跳ねます。
私は、魔物の背後にある岩陰を見ました。
逃げたい。隠れたい。食べられたくない。
そして、できれば何か食べたい。
「……行くよ、ウィルソン」
私はポケットの中の石を、ぎゅっと握りました。
『おぅ! カエデ! やってやろうぜ!!』
ウィルソンの声が、私の頭に響きました。
「やるっていうか……できれば逃げたいんだけど……」
『逃げるために、まず投げろ!!』
「理屈がサクラ寄り……」
勇者って、やっぱり難しいです。
(つづく)
コメント
1件
めっちゃ笑ったwwくしゃみで封印解除って楓ちゃんらしすぎるし、しかも罰個体に「寝直していいか」って言わせるところがもうね…。イオナ姉との温度差漫才もウィルソンのノリも全部刺さる。そして「虫王カエデ」って称号、めっちゃ称号っぽくて草。次はどうやってあの魔物から逃げるのか気になるわ🔥