テラーノベル
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翌日も、私は三〇七号室へ行った。
行くべきではなかった。
そう書くと、私はまるで後悔しているように見える。 違う。 後悔というのは、正常な人間が過去に貼る湿布のようなものだ。貼れば少し楽になる。自分は間違えた。次は気をつける。そう言って、間違えた自分を過去へ押し込める。
私は押し込めない。
押し込めたものは彼になる。
だから私は、正確に書く。
翌日、私は三〇七号室へ行った。 午後四時五十二分。 空は曇り。 階段の二段目に乾いた泥。 踊り場に煙草の吸い殻一本。 篠田さんの部屋からは、テレビの音が漏れていた。
呼び鈴を押す前に、私は手帳を開いた。
篠田重吉。 八十一歳。 三〇七号室。 妻、佳代子。九年前に死亡。 笑う時、喉の奥で紙が擦れる。 右手の震え。 豆腐、食パン、みかん三つ。 まだ消えていない。
読んでからでなければ、会ってはいけないと思った。
読まないまま会えば、昨日の篠田さんと今日の篠田さんが繋がらない。 昨日の篠田さんが剥がれ落ちる。 今日の篠田さんだけになる。 それは切断だ。 小さな死だ。
呼び鈴を押すと、しばらくして足音がした。
遅い。 右足を引きずる音。 いや、昨日は左足だった。 右か。左か。 間違えた。 私は昨日、左足と書いた。 では昨日の篠田さんの足は、私のせいで間違ったまま保存されたのか。
扉が開いた。
「また来たのか」
篠田さんは驚いたように言い、それから笑った。
紙が擦れる音。
よかった。 そこは合っていた。
「みかんを買ってきました」
「昨日も買ったよ」
「三つでした」
「よく覚えてるねえ」
覚えているのではない。 覚えておかなければならない。
部屋に入ると、仏壇の前に昨日と同じ湯呑みが置いてあった。写真の佳代子さんは、昨日と同じ顔で笑っていた。 同じ顔。 それが恐ろしかった。
写真は変化しない。 変化しないものは、生きていない。 生きていないものは、彼に近い。 佳代子さんはもう、佳代子さんの中から世界を見ていない。なのに笑っている。笑わされている。永遠に。
「奥さんは、どんな声でしたか」
私は聞いた。
篠田さんは少し黙った。
「声?」
「はい」
「普通だよ」
普通。
また、人を殺す言葉だと思った。
普通の声などない。 ひとりにひとつずつ、声はある。 朝の声。怒った時の声。眠い時の声。名前を呼ぶ時の声。死ぬ前の声。 普通と言った瞬間、それらはまとめて捨てられる。
「思い出してください」
「急に言われてもなあ」
「忘れたら、消えます」
篠田さんは私を見た。
その時の目を、私はすぐには書けなかった。
困惑。 警戒。 哀れみ。 少しの恐怖。 どれも違う。 人の目を言葉にした瞬間、目は死ぬ。だが書かなければ、もっと早く消える。
「兄ちゃんは、怖いんだな」
篠田さんが言った。
私は答えなかった。
「死ぬのが」
違う。
違うが、否定する言葉が喉に詰まった。
私は死ぬのが怖いのではない。 私が私でなくなるのが怖い。 篠田さんが篠田さんでなくなるのが怖い。 佳代子さんが、写真と名前と九年前という数字だけになるのが怖い。 昨日駅で見た傘の男が、もう私の中でほとんど染みになっているのが怖い。
でも、それを言えば篠田さんも怖くなる。
だから私は言った。
「覚えていたいだけです」
篠田さんは、湯を沸かしながら背中を向けた。
「忘れていいこともあるよ」
ない。
そんなものはない。
忘れていいと言う人間は、忘れられる側に立ったことがない。 自分が彼になるところを、外から見たことがない。
私は手帳に書いた。
篠田重吉。 午後五時九分。 「忘れていいこともある」と発言。 危険。
危険。
その言葉を書いた時、指が少し震えた。
なぜ危険なのか、その時の私はまだ分かっていなかった。 分かっていなかったことにしたい。 だが、たぶん分かっていた。
篠田さんは、自分から消えようとしていた。
私はそれを止めなければならなかった。
帰り際、篠田さんはみかんを一つ返してきた。
「持って帰りな。ひとりじゃ食いきれん」
私は受け取れなかった。
みかんは三つでなければならない。 昨日、みかんは三つだった。 今日、私が一つ持ち帰れば、篠田さんのみかんは二つになる。 記録がずれる。 昨日の篠田さんと今日の篠田さんの間に、穴が開く。
「いえ」
「遠慮しなくていい」
「三つで」
「え?」
「みかんは、三つでないと」
篠田さんは笑わなかった。
私はみかんを置いて、部屋を出た。
階段を降りながら、私は何度も手帳を見た。
篠田重吉。 まだ消えていない。 まだ消えていない。 まだ消えていない。
だがその日から、文字の最後に小さな黒い滲みが出るようになった。
コメント
1件
うわあああ…胸がぎゅーってなった😭💔 「まだ消えていない」って何度も書くところ、もうたまらなかった…。篠田さんが「忘れていいこともあるよ」って言った瞬間の温度差とか、みかんが三つじゃなきゃダメな執着とか、全部が怖くて切ない。主人公の「私が私でなくなるのが怖い」って言葉、すごく響いた…。こんなに繊細で痛い世界、続きが気になりすぎるよ〜〜!!🌸✨