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「これは有名な作家だね。俺も知っているよ」
「本当ですか? じゃあこの作家も?」
絵本を手に取りうなずく聡一朗さんに私は感激する。
絵本作家は認知度が低いのに、さすが大学教授さんって博識なんだな。
今、私と聡一朗さんは大学の図書館に来ていた。今週借りていただく本を探すためだ。
あれから絵本をお返しに伺うと「今度は自分で好きなものを選ぶといい」と図書館に連れて行ってもらい、それが毎週になって習慣化していた。
「ああ、これはストーリーも知っているよ。兎が亀に負ける話だろう?」
「ふふふ違います。狐ですよ。それじゃあ日本昔話です」
「そうだったな」
と、聡一朗さんの目尻が下がる。
笑ったと言っていいほどではないけれど、聡一朗さんの表情は最初の頃よりずっと柔らかくなったと感じる。
こうして会う回数を重ねて気付いたことがある。
ともすれば冷淡にも見える聡一朗さんの表情には、なにか見えないヴェールのようなものが貼り付いているようだと。
そしてそのヴェールは聡一朗さんだけが抱えている、なにかなんだろうな、とも。
きっとそれは触れてはいけない部分。
私ごときなら、なおさら。
でも、ただ残念に思う。
聡一朗さんの笑顔は、きっとすごく素敵だと思うから。
と、聡一朗さんを見つめていたら、その背中越しに女性が歩いて来るのが見えた。
私を見据えているその視線に、思わずドキと緊張を覚える。
もしかして、睨まれている……?
胸が大きく空いたブラウスに長い脚が映えるぴったりとしたパンツを履いていて、綺麗にカールされた長い髪が似合う美女だった。
それだけに鋭い視線には迫力があって、私は思わず聡一朗さんとの会話をやめて視線を泳がせた。
そんな私の様子に気付いて、聡一朗さんは背後を振り返った。
すると女性は急に笑顔になって、甘いという形容がぴったりの声で呼びかけた。
「先生、こんなところにいらしてたんですか? 英文学の書庫にご用事があったなんて、おっしゃってくだされば私がお手伝いしましたのに」
「紗英子君。仕事で来たんではないんだ。こちらの学生さんの勉強を少し協力していてね」
と、聡一朗さんは私を見やり、
「紹介しよう。学科の助手をしてくれている天田紗英子君だ。紗英子君、こちら竹咲美良さん。正式なうちの学生ではないんだが、英文学に興味があって独学しているんだ」
「まぁ、うちの学生ではないんですか? ……それは関心ですねぇ」
紗英子さんは笑顔を見せてくれるけど、目が笑っていない。
私が部外者と知ってなおさら疎ましさ感じたようで、早々と用件を切り出した。
「ゼミの学生が今度の発表のことで質問があるとのことでお待ちですよ。なんでも先生とお約束していたとか」
「ああそうだった。もうそんな時間か」
聡一朗さんは腕時計を一瞥すると、私を見やって、
「すまない、司書には言っておくから本はこのまま持っていくといい。また来週」
「あ、はい、ありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げる私を残して、聡一朗さんは足早に書庫から出て行った。
紗英子さんもついて行くと思ったら、残って私と向き合ったままでいる。
狭い書庫の中で、途端に私は追い詰められた小動物のような心地になった。
「あなた、ここじゃないならどこの学生なの?」
さっきの甘たるいのとは打って変わって、刺すように冷たい声で質問された。
私は目を伏せつつ小さい声で答えた。
「あの、学生ではないんです……。こちらの清掃をさせてもらっているんですけれども」
「清掃員?」
ありえない、とでも言いたげに紗英子さんは声を大きくした。
どうしてそんな身分の者が、聡一朗さんと親しげに話しているのか? という蔑みが露骨に出ていた。
私は委縮しつつも、かいつまんでこれまでの経緯を話した。
どうして初対面の彼女にこんな尋問に答えるような雰囲気で話さなければならないのかと思ったけれど、弁明でもしない限りこの場から解放してくれなさそうな気がした。
「聡一朗さんは私を不憫に思ってくださって協力してくれているだけなんです……」
「ふぅん」
大柄な態度でうなずくと、紗英子さんはあからさまに私を見回した。
「そんなことだろうと思ったわ。あなた、どう見たって学生って感じがしないもの。ましてやうちの生徒とは大違い」
たしかに、キャンパス内を歩いていると、流行の服や小綺麗な身だしなみをしている学生が目立つ。
着古したカットソーにジーパン、無造作にひとつに縛っただけの髪という格好の私とは雲泥の差だ。
紗英子さんは貧乏人にひけらかすように言った。
「図々しいわね。あなた、聡一朗先生がどういうお方か知らないの?」
「よくは……」
経済学で若くして教授にまでなる方なので、並みの優秀な方ではないのはよく分かっていた。
後で知ったことだけれど、メディアにも引っ張りだこで出した書籍もベストセラーになるほどで、世間からの認知も凄かった。
「芸能人みたいな人ぐらいの認識しかないだろうけど、あの方はそんな程度の人物じゃないのよ。海外の大学を主席卒業して、その後も目覚ましい研究結果を発表し、世界中から期待を寄せられている偉大な方なの。そんな欧米の一流大学の教授ポストについても遜色ない方に、あなたみたいな小娘に割く時間なんて本来なら一秒もないはずなのよ。それをあなたが図々しく来るから仕方が無く面倒みてあげているってこと、少しは自覚しなさい」
「……」
「先生とあなたとじゃ、住む世界が違うのよ」
吐き捨てるように言うと、紗英子さんはコツコツとヒールを鳴らして出て行った。
ほっとする。
けど、胸は苦しかった。
彼女言うことは、間違っていなかった。
考えないようにしていたけど、気にしていたことだった。
聡一朗さんはきっとすごく優しい方だから、こんな私に良くしてくれたのだろう。
けれども、いつまでも甘えるわけにはいかないんだ。
私は絵本をぎゅうと抱き締めた。
その日の夕方、仕事が終わると真っ直ぐに聡一朗さんの研究室に向かった。
「どうしたんだい? 急に」
絵本を差し出した。
「やっぱり、もうお借りできません。つい甘えていたけれど図々しかったです。聡一朗さんはご多忙の身なのに、今まですみませんでした。もう、会いにも来ません」
一気に言うと、聡一朗さんは小さくふうと溜息をついた。
「分かった」と返事が返ってくるかと思ったけれど、
「入って」
扉を開いて、私を促した。