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おずおずと私は足を踏み入れた。
都内が一望できる大きな窓の前に、パソコンや周辺機器が並ぶ大きなデスクがある。
部屋全体が書籍に覆われている研究室を想像していたけれど、書籍が詰まった本棚はひとつだけで、あとはコーヒーサーバーやきれいに清掃された洗面台があるだけで、開放的な雰囲気だった。
その部屋の真ん中に置かれている座り心地がよさそうなソファに座るように促すと、聡一朗さんは口を開いた。
「昼間、紗英子君になにか言われたんだね」
「……」
いきなり図星を言われて言葉に詰まってしまった。
それが十分な返答と思ったようで、聡一朗さんは続けた。
「実は彼女はうちの学部の主任教授のお嬢さんでね、卒業生でもあるんだ。そのためかこの大学に特別な思い入れと誇りを持っていてね、勤勉なのはいいが少し部外者に冷たいところがある」
どこかお嬢様然としていたのはそのためだったんだな、と思うものの、少し違和感を覚える。
紗英子さんの冷たい反応は、大学部外者にというより聡一朗さんにたかるお邪魔虫に対して、という方が強い気がした。
「図々しくはないさ。俺は君のような勤勉だが機会に恵まれていない学生を援助したいと思っているだけだ」
「でも私は学費も払っていませんし……」
「学費を払っているだけの者が学生だとは思っていない。学びたいという気持ちが重要なんだ。俺は君の意欲を応援したいと思ったんだよ。彼女が言ったことは気にしなくていい。これからも君は勉強を続けるべきだ」
相変わらず聡一朗さんの顔は無表情だった。けれどもその言葉はとても温かく、私を勇気づけてくれる力強さがあった。
思わず、鼻がつんと痛む。
両親が亡くなる直前の、この大学の入試判定はBだった。
あともう少し頑張れば夢に一歩近づく、と意気込んでいた時の訃報だった。
それだけに、心がぽっきりと折れてしまって、もうなににも気力がわかなくなってしまった。
こんな状態で万が一合格できたとしても勉強に身が入るとは思えなかった。
けして多くはない財産。
無駄にしたくないと思って納得した上での進学断念だった。
けれども、働いて少しずつ生きる気力を取り戻していく中で、失くしたはずの夢への想いがちらつき始めてきたのを自覚していた。
いまさら後悔はしていない、と言えば正直嘘になる。
だから独学ででも少しずつ勉強していこうと思い始めていた。
そんな時起こった、聡一朗さんとの出会いだった。
「大丈夫か?」
涙を堪えて言葉に詰まってしまっていた。
気遣ってくれる聡一朗さんに私は笑顔を向けた。
「ごめんなさい、ついうれしくて。……実は最初は同情してくださったのかな、と思っていたんです。けど聡一朗さんは私自身の気持ちに気付いてくださっていたんですね」
聡一朗さんは少し間を空けて、どこか遠い昔を思い出すような顔をして、そっと口を開いた。
「同情から始まったのは事実かもな」
「……?」
「同情、と言うか共感と言うのかな」
どういう意味だろう?
聡一朗さんはまた少し間を置くと静かに続けた。
「重なったんだ。君に俺と、俺の姉が」
聡一朗さんと聡一朗さんのお姉さんが?
「今だから言うが、最初に君に会った時にいろいろと詮索してしまったよ。うちに来ている清掃員で若いのは君だけだ。学校にも通わず日中に働いているということは、収入に困っているのだろう。若いから働き先などどこにでもあるはずなのに、わざわざ高収入とは言い難い清掃員を選んだのにも事情があるのだろう――」
聡一朗さんは歌うように推理を巡らす。
「――人付き合いが苦手なのか、単に清掃が好きなのか。前者なら内気に見えるはずだがそうは見えない。清掃が好きなら他のことに気を取られて飲み物をこぼしたりはしない。きっと大学、強いて言えばうちの大学に理由があるのかもしれない――」
詮索されている当人なのに、私は聡一朗さんのするどい洞察力に感激していた。
探偵のように口元に手をやりながら私を見つめるその鋭い視線にドキドキする。
「――うちの大学に執着する理由はなにか。君は絵本に気を取られていた。英語で書かれた絵本。うちには英文学科がある。君は翻訳家になりたいんだね。とりわけ絵本の」
「すごい! なにもかも当たっています!」
「さすが超エリート大学教授先生!」と拍手喝采でついはやし立ててしまって、はっと改める。
「まったくおっしゃる通りです……」
はにかみながらうなずいて、私は両親が死んだこと、大学進学を諦めて翻訳家の夢を一度断念したことを話した。
話し終わると、聡一朗さんはとても感慨深く思っている様子だった。
「……そうか。本当に似ているな、俺たちは。縁を感じてしまうよ」
「え?」