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低気圧
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第5話 昨日のことは
窓の外が白み始めた頃、小型霊獣は目を覚ました。
隣には、まだ眠っている大型霊獣の体温があった。夜の記憶は輪郭がぼやけたまま、体の奥に重く残っている。何があったのか、正確に言葉にできるほど頭は働いていなかった。それでも、悪いことではなかったと、なぜか分かった。
身じろぎすると、大型霊獣の腕にわずかに力が入った。
「……起きたか」
低い声。まだ半分眠っているような響きだった。
「離れろ」
「まだ早い」
いつもと同じやり取りだった。だが、声の温度が、昨夜より一段柔らかい。
「昨日のことは」
「覚えている」
「一言も言うな」
「言わない」
そう答えながら、大型霊獣は小さく笑ったようだった。小型霊獣は、その気配に気づかないふりをして、窓の外の光をじっと見つめていた。
逆に、大型霊獣の変化が進む日もあった。骨格の大きさが変わる分、負担も大きい。低く唸るような声を我慢しきれずに漏らす夜、今度は小型霊獣がその部屋の隅に座った。
「うるさいか」
「うるさくない」
「なら黙って座っていろ」
「言われなくても」
会話らしい会話はなかった。それでも、痛みに耐える時間の分だけ、隣に誰かがいるということが、思っていたより大きな意味を持つのだと、二人とも少しずつ気づいていった。
言葉を交わさなくても伝わるものがある――それを覚えたのは、この頃だった。
大型霊獣だった男は、長身で肩幅の広い青年へ。小型霊獣だった男は、それより一回り小柄な、細身の青年へ。耳もない。尾もない。橙色の獣毛も、鋭く逆立っていた毛並みも、今はもうない。完全な人型だ。
だが、由来まで消えたわけではなかった。
小型霊獣だった男には、理珀という名がついた。大型霊獣だった男は、彪守。
言葉を得て、名を得て、人の姿を得ても――二人の性質は、あの頃から変わっていない。
*
「開始します」
訓練場に合図が響く。同時に、三体の訓練用香影が動いた。一体が正面、二体が左右へ展開する。
彪守が、即座に前へ出た。
「右、二体」
背後から声が飛ぶ。
「見えている」
「奥が先だ」
男の足が、一瞬で進路を変えた。直後、右奥にいた香影が前方へ飛び出す。振り下ろされた模擬刃を腕で逸らし、そのまま身体を捻って一撃――香影が崩れた。
「後ろ」
振り返らない。彪守はその場で身体を沈める。頭上を模擬刃が通過した、その瞬間、理珀が横から入り込んで相手の腕を取った。
力では敵わない。だから、力では競わない。肘を押し、重心だけを崩す。
「今だ」
「ああ」
彪守の肩が入り、二体目の香影が吹き飛んだ。残り一体。
理珀が一歩下がると、彪守は逆に前へ出る。
「待て」
その一言で止まった。正面の香影が攻撃姿勢を取る。
「左へ三歩」
「理由は」
「行けば分かる」
「……分かった」
三歩下がると、香影が追う。その足元で、訓練床の香紋が光った――拘束用の模擬香陣だ。香影の脚が止まる。
彪守が、理珀を見た。
「知っていたのか」
「さっき職員が設置していた」
「いつ見た」
「お前が正面しか見ていなかった時だ」
「…………」
「行け」
「言われなくても」
彪守が踏み込み、最後の一体が崩れる。
「終了」
訓練場に声が響いた。二人は同時に、大きく息を吐いた。汗の匂いに、香影の焚いた香の残り香が混じっていた。
コメント
1件
ふふ、もう朝のベッドシーンから、心臓がぎゅっとなりましたね。「覚えている」「言わない」――その短いやり取りに、昨日の夜の重みが全部詰まっていて、読んでいて胸が熱くなりました。 訓練の連携も、言葉より察し合う空気感が本当に素敵で。理珀が「左へ三歩」と言うときの、あの「行けば分かる」の信頼感……きゅんとしました。二人の距離が少しずつ変わっていくのを、読者にそっと見せてくれるのが、Hp2さんらしい繊細さだなあと思いました。