テラーノベル
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時間にも余裕があるからできることだ。
普段はパンと紅茶で済ませてしまうことが多いから
こんなに手の込んだ朝食を用意できるのは、やはり特別な日だからだろう。
(でもちんたらはしてられないし、早く食べて片付けよっと……!)
心の中でそう呟きながら、ゆっくりと朝食を味わった。
一口ごとに、尊さんとのデートへの期待が膨らんでいくようだった。
食器の片付け、歯を磨いて顔を洗い終えて時計を見るともう8時半だったので
俺はそのまま出かける準備を始めた。
尊さんとの初めてのデートだし……と鏡の前で髪型や服装をチェックする。
ラフに着た白シャツとスリムパンツの上からグレーのテーラードジャケットを羽織る。
鏡に映る自分は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
お気に入りのスニーカーだ。
カジュアルな色が、今日の特別な一日を象徴しているかのようだった。
そして仕上げに慣れない香水を振りかけ、ごほごほと少し噎せてしまった。
尊さんはいつも良い香りがするから俺も真似してつけてみたけど、ちょっとつけすぎたかな……。
でもこれくらいが丁度良いかもしれない。
なんてことを考えながら、髪に櫛を通して丁寧に整えていく。
後は財布とスマホをカバンに入れて、玄関で靴を履く。
よし、これで準備万端だ。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
「いってきます」
誰もいない部屋にそう告げて、俺は家を出た。
ドアを閉めると、カチャリと静かな音が響き、日常が切り替わるのを感じた。
朝の清々しい空気が頬を撫でる。
まだ少し肌寒いけれど、それが心地よかった。
空は澄み渡り、雲一つない青空が広がっている。
鳥のさえずりが聞こえ、遠くからは車の走る音が微かに聞こえる。
普段は気づかないような小さな音や風景が、今日はやけに鮮明に感じられた。
一歩一歩、駅へと向かう足取りは、軽やかで弾んでいた。
街路樹の緑が目に鮮やかで、道行く人々も皆どこか楽しそうに見える。
いや、きっと俺の心がそう見せているだけだろう。
駅に着くと、まだ10時前だというのに人でごった返していた。
まだ9時50分。
待ち合わせの時間には少し早い。
俺は、駅の改札前でそわそわと落ち着かない様子で立っていた。
心臓が胸の内で小さく跳ねるのを何度も感じながら、スマートフォンの画面を何度も確認する。
表示される時刻は、さっきから一向に進まないように思えた。
ちょっと早すぎたかな、と自嘲気味に息を吐く。
休日の駅は普段の通勤時間帯とは異なり、どこか緩やかな空気が流れている。
行き交う人々も皆、楽しそうな顔をしているように見えた。
そんな光景をぼんやりと眺めていると、不意に背後から、ポンと軽く肩を叩かれた。
ビクッ、と体が跳ね上がり、反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、まさに今、俺が待ち焦がれていた尊さんだった。
「まさかこんな早く来てるとはな」
尊さんは、少し驚いたような
それでいてどこか面白がるような表情で言った。
その声は、いつも職場で聞くそれよりも一段と低く
休日の気だるさを帯びていて、俺の心臓をさらに高鳴らせた。
「あ、尊さん…!おはようございます!」
俺は、興奮と緊張が入り混じった声で挨拶した。
顔に熱が集まるのを感じる。
「おう、おはよ」
尊さんは短く返事を返すと
俺の全身をゆっくりと見回した。
その格好に、俺は息を飲んだ。
(た、尊さんの私服…!!)
俺の脳裏に、これまで職場で見てきた尊さんのスーツ姿が鮮明に浮かび上がる。
いつも完璧に着こなされたスーツは、彼の知性と威厳を際立たせていたが
今日の姿はそれとは全く違う魅力に満ちていた。
ネイビーのジャケットは、肩のラインに吸い付くようにフィットし
インナーの同系色のカットソーが首元をすっきりと見せている。
ボトムスも同じくネイビーのパンツで、全体的にシンプルなワントーンコーデだ。
それなのに、だらしなさは微塵もなく
むしろ洗練された大人の男性の魅力が際立っている。
足元に合わせたカジュアルなスニーカーが、全体の印象を程よく崩し
こなれた雰囲気を醸し出していた。
清潔感と抜け感
その完璧なバランスに、彼のセンスの良さがうかがえる。
かっこよさが渋滞していて
俺の心臓はバクバクと音を立て、今にも破裂しそうだった。
全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、視線が尊さんの姿に釘付けになる。
すると、尊さんを凝視して固まっている俺に
尊さんは少し照れたように、頬を掻きながら言った。
「そんなに見るなよ……。変か?」
その言葉にハッと我に返った俺は、慌てて首を横に振った。
「いっいえ!尊さんの私服、想像以上にかっこよくて…びっくりしちゃって」
俺の言葉に、尊さんは一瞬
目を見開いて驚いた顔をしたが
すぐに優しい表情になって微笑んだ。
その口元が、わずかに弧を描く。
「そりゃよかった」
その仕草にドキッとしてしまい、俺は思わず目を逸らしてしまった。
顔の熱がさらに増すのを感じる。
すると突然、尊さんの手が俺の頭に触れた。
「雪白、いつも白いもんばっか着てるが、黒も似合ってるな」
ポンポン、と優しく頭を撫でられる。
その手の温かさが、俺の頭から全身へとじんわりと広がっていくようだった。
「あ……ありがとうございます……!」
嬉しくて、顔が熱くなるのを感じた。
心臓の鼓動がさらに早まる。
「じゃあ行くか」
尊さんはそう言って、改札に向かって歩き出した。
その背中を慌てて追いかけるように、俺も足を踏み出す。
ホームに着くと、ちょうど電車が来たところだった。
休日の電車はそれなりに混んでいて
座れる席は無かったが、ドア付近に二人で立つことにした。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。
車内は暖房が効いているのか、少し暑いくらいで
外との温度差に思わず身震いしそうになる。
「結構暖かいな」
尊さんがぽつりと呟いた。
「そうですね」
俺は短く応じる。そんな会話をしている間にも
どんどん乗客は増え続け、あっという間に満員になった。
俺はドア付近から動くことができず
そのままの状態で立ち続けることになってしまったのだが…
(うぅ……なんか、すごい見られてる気がする……)
周りの視線が気になって仕方ない。
特に女性陣からの熱い眼差しを感じるような気がする。
だがそれも無理のない話だろう。
隣に立つ尊さんは、男から見ても魅力的だ。
その整った顔立ち、スマートな立ち姿
そして私服姿から漂う大人の色気。
そんな人が隣にいたら、誰だって見てしまうに決まっている。
正直、尊さんのことは誰にも見て欲しくない。
かっこいいと言われるのもモヤモヤするし、俺だけの尊さんでいて欲しい……
なんて思ってしまうほどだったが
そんなことを口に出せるわけもなく、ただじっと耐えるしかなかった。
しかし、その時だった。
「ちょっと!そのフォーク捕まえてー!!無差別にケーキを襲ってるわ!!」
「早く!誰でもいいからとっとと捕まえてちょうだいっ!!」
隣の車両から、女性の悲鳴が聞こえてきた。
その声に、車内の乗客が一斉にざわめき立つ。
俺も慌ててそっちに視線を向ける。
視線の先には、頭から目深にフードをかぶり、顔の大半を黒いマスクで隠した男がいた。
しかもその男の手にはバタフライナイフが握られており
それを振り回しながらこちらに向かって来ている。
男は明らかに周りが見えていないようで、目を血走らせて必死に走っている。
その狂気に満ちた眼差しに、俺の背筋に冷たいものが走った。
男の行く先を見ると、そこには母親と小学生くらいの娘と捉えられる親子がいた。
男は、女の子に近づくと
「ケーキだ、ケーキだな!」と言いながら刃物を向けた。
女の子はなにがなんだか分からないのか、恐怖に顔を歪めて泣き出してしまい
女の子の母親も恐怖に震えて立ちすくんでいた。
(こ、このままじゃあの子が危ない…!)
急いで助けなくては、という思いが俺の体を突き動かした。
考えるよりも早く、体が勝手に動いていた。
気づくと俺は、女の子を庇うように
自分の背中で隠すように抱きしめていた。
顔だけで男に振り向き
「小さい子になにしようとしてるんですか…!」
と叫ぶ。
俺の声に、男は一瞬動きを止めたものの
すぐに血走った目を俺に向けた。
「…なんだお前もケーキかよ、うぜぇ、あぁうぜえ!!退かねえならお前らまとめてぶっ殺してやるよ……っ!!」
男は叫びながら、ナイフを振りかざしてきた。
その刃が、ギラリと冷たい光を放つ。
咄嗟に女の子を庇うようにぎゅっと抱きしめて、俺は固く目をつぶった。
迫りくる死の恐怖に、全身が震える。
(……っ?)
しかし、いつまで経っても衝撃が来ないことに不思議に思い
俺はゆっくりと目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、目の前に広がる尊さんの広い背中だった。
尊さんは、振り下ろされた男の腕を掴みあげていたのだ。
男は驚いたのかじたばたと暴れ
その拍子に尊さんの手に持っていたナイフが触れ
尊さんの左手のひらから鮮血が流れ落ちるのが見えた。
赤い血が尊さんの白い肌に鮮やかなコントラストを描き、俺の心臓を締め付けた。
「た、尊さん……!」
俺は思わず声を漏らした。
しかし尊さんは、痛みを感じさせない平然とした顔で男を見据え
「これ以上罪を重ねるな」と静かに言い放つと、男の手を捻り上げた。
「痛い……いたい、いたいいぃ!」
男は悲鳴を上げながら暴れるが、尊さんはびくともしない。
むしろどんどん力を強めていくようで、男が苦しそうに呻いている。
するとそのとき
騒ぎを聞き付けた警備員の男性と女性が、素早く男を取り押さえた。
取り押さえられた男は、抵抗虚しく連行されていったのだった。
俺が女の子から離れると、母親は俺たちに向かって何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、本当になんとお礼を言ったらいいか……っ!」
母親は泣きながら言うものだから、俺も釣られて泣きそうになってしまった。
「いえいえ、俺はなにも…っ」
しかし俺はそれよりも尊さんが心配で、すぐに尊さんに振り向く。
「尊さんっ、大丈夫ですか!?」
俺の問いに、尊さんは平気な顔をして答えた。
「こんぐらい大丈夫だ、それよりお前は大丈夫なのか」
俺は、尊さんの言葉に胸が締め付けられる思いだった。
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