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「俺は大丈夫です、けど…すみません、俺が、俺のせいで…っ、せめて、これだけでもさせてください」
そう言って俺はカバンからハンカチを取り出した。
尊さんの右手の甲に出来てしまった傷口にハンカチを巻き、きゅっと絞る。
尊さんは一瞬驚いた顔をしたが
すぐに優しく微笑んで、俺の頭を撫でてくれた。
「ありがとうな」
その温かい手のひらが、俺の髪を優しく撫でる。
しかし俺はそれにすら喜べなかった。
自分勝手に動いて、大切な人を傷つけてしまった。
その罪悪感で、胸が押し潰されそうだった。
俺は申し訳なさでいっぱいだった。
俺がもっとしっかりしていればこんなことにはならなかったかもしれないのに、と……
そんなことを考えているうちに、電車が駅に着いた。
ドアが開くと
尊さんが「ほら、行くぞ」と俺の手を引き、電車から降りた。
俺は黙ってそれについていくしかなかった。
駅を出るとすぐに目的の映画館に向かい
チケットを購入してポップコーンと飲み物を買ってシアターへと向かった。
平日の昼間ということもあってか、人もまばらで席は選び放題だった。
尊さんは俺の手を引いて一番後ろの席に座った。
俺はどうしていいか分からず、ただされるがままになっていた。
心の中は、まだ先ほどの出来事の衝撃と
尊さんを傷つけてしまった罪悪感でいっぱいだった。
「大丈夫か?」
突然、尊さんに聞かれて、俺は「え?」と答えにならない返事を返すしかなかった。
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
そんな俺を見て、尊さんは少し困ったような顔をしてから、優しく微笑んだ。
「さっきのこと、気にすんなよ。お前のせいじゃないんだからな」
その言葉に、俺の心が少しだけ軽くなった気がした。
張り詰めていた緊張が、わずかに緩む。
すると尊さんは、俺の手を握りしめた。
その手のひらから伝わる温かさが、俺の心をじんわりと溶かしていく。
「ただ、もう自分を顧みずに危ないことすんのはやめろ」
その言葉だけで、俺は救われたような気分になって涙が出そうになった。
尊さんの真剣な眼差しが、俺の心を深く見つめているように感じられた。
俺は黙って頷き、尊さんの手を握り返した。
それが今の俺にできる精一杯のことだったからだ。
そうしているうちに、上映時間になった。
場内がゆっくりと暗転し、それまで賑やかだった話し声が
まるで潮が引くようにすっと静まっていく。
スクリーンに映し出された配給会社のロゴマークが漆黒の闇の中に白く輝きながら浮かび上がった。
俺は座席の背もたれに深く体を預け、隣に座る尊さんの気配をそっと感じた。
ひんやりとした空調の風が肌を撫でるが
隣の尊さんからはじんわりとした温もりが伝わってくる。
その温かさが、俺の不安を少しずつ和らげていくようだった。
数本の予告編が淡々と流れ
その度に客席からは期待のざわめきが漏れる。
そして、ついに本編のタイトル
『焦がれるカカオ』がスクリーンいっぱいに映し出された瞬間、俺の胸は高鳴った。
オープニングの美しい映像と、心を掴むような主題歌が流れ出すと
俺は瞬く間に映画の世界に引き込まれていった。
この瞬間はまさに至福だ。
物語は、主人公である大学生の宏樹が
行きつけのショコラトリーの店主である年上の幼馴染・太齋敦に突然告白されるところから始まる。
その告白に戸惑い
そして後日「忘れてほしい」と言われて心をかき乱される宏樹の心情が繊細な筆致で描かれていく。
スクリーンの登場人物たちが織りなす
言葉にならない感情の機微
すれ違う視線、そして触れそうで触れない指先。
一つ一つの描写が、俺の胸を甘く締め付け
時には切ない痛みを伴った。
時折、隣から微かに聞こえる尊さんの規則正しい息遣いや
わずかな衣擦れの音に、俺は現実と映画の境界を行き来した。
映画館特有の、暗闇に包まれた密室感。
隣にいるのが、まさか職場の主任であり
そして恋人になった尊さんだなんて、まだ少し信じられない気持ちもあった。
映画の中の主人公たちが、互いへの想いを募らせながらも
なかなか素直になれずにすれ違っていく姿は
俺と尊さんのこれまでの道のりと重なる部分があるような気がして
俺は思わず目頭が熱くなった。
特に、主人公が攻めへの恋心に気付くまでの葛藤や
二人がようやく正式に付き合うことになった場面には心が動かされ
ストーリー展開に、俺はさらに没入していく。
ショコラトリーの描写は非常にリアルで
画面に映る美しいチョコレートの数々に、思わず唾を飲み込んだ。
カカオの香りが漂ってくるような錯覚さえ覚える。
映画の中の登場人物が迷いながらも勇気を出して一歩を踏み出すシーンでは
隣から尊さんの指先が、そっと俺の手に触れた。
その瞬間、俺の心臓が大きく跳ねる。
驚いて振り返ると、暗闇の中で尊さんの横顔が少しだけ見えた。
その視線はあくまでスクリーンに向けられているが、指先から伝わる温かさに
俺の心臓は静かに、しかし確かに高鳴った。
尊さんの手が、俺の指と絡み合うようにそっと握られたとき
映画の感動とはまた違う、温かい幸福感が全身を包み込んだ。
それは、まるで尊さんの温もりそのものが俺の心を包み込むような感覚だった。
映画はクライマックスへと向かい
スクリーンの中の恋人たちがようやく心を通わせ
抱きしめ合う場面では、場内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。
俺もまた感動で胸がいっぱいになり、じんわりと涙が滲んだ。
隣の尊さんは、何も言わずにただ俺の手に触れたままだった。
その温かさが、映画の感動をさらに深く
甘いものに変えていくようだった。
エンドロールが流れ始め、場内にゆっくりと明かりが戻り始める中
俺は尊さんの手を握り返し、その温かさを確かめるようにぎゅっと握りしめた。
映画の余韻と、尊さんの存在が、俺の心を甘く満たしていた。
「すごかったですね」
俺が隣を見ると、尊さんはこちらに視線を向けて
「あぁ、思ったより抵抗無く見れたな」と言った。
その表情に、俺の気持ちは少しだけ軽くなるのを感じた。
映画館を出ると時刻は12時20分で、お昼には少し早い時間だった。
柔らかな日差しが街路樹の葉の間から降り注ぎ
心地よい風が頬を撫でる。
「腹減ってるか?」
尊さんに聞かれ、素直に頷いた俺に、尊さんは
「んじゃどっか入るか」と歩き出した。
そうして着いたのは、映画館のすぐ近くにあるカフェ『コメダ珈琲店』だった。
見慣れた赤い看板と、温かみのある木目調の外観が、どこか懐かしい雰囲気を感じさせる。
中に入ると平日の昼間ということもあってか人はまばらで、すぐに席に通された。
ふかふかのソファ席に座ると、心がじんわりと癒されるようだった。
俺は「シロノワール」を
尊さんは「たっぷりたまごサンド」をそれぞれ注文して、ドリンクを受け取り席に着いた。
しばらく他愛もない話をして過ごす。
映画の感想、最近の仕事のこと、休日の過ごし方。
尊さんの穏やかな声を聞いていると
先ほどの電車の出来事がまるで遠い昔のことのように思えた。
コーヒーの香りが漂う店内で、二人の時間はゆっくりと流れていく。
カフェを後にして、どっか寄るかという話になり、近くの100均に寄ることにした。
店内には様々な商品が所狭しと並べられており
見ているだけでも楽しい。
そこで俺は絆創膏が目につき、尊さんの手に貼ってあげようと思いそれをカゴに入れた。
「絆創膏?」
尊さんが尋ねてくる。
「尊さんのです、ずっとハンカチ巻いてても目立ちますし」
俺はそう答えながらレジに向かう。
尊さんは少し驚いた顔をしていたが、俺が会計を済ませている間に
他にも買ったお互いの商品を袋に詰めて分けて渡してくれた。
そのまま店を出て、近くのベンチに並んで座る。
夏の午後の日差しがベンチに座る二人の体を優しく包み込む。
俺はごそごそと袋の中から絆創膏を1つ取り出すと、尊さんの手に巻いたハンカチを外した。
傷口はまだ生々しく
尊さんの白い肌に痛々しく赤く染まっていた。
俺は、その傷跡の上に絆創膏をペタっと貼る。
しかし、尊さんの大切な手にこんな傷をつけてしまったのだと思うと
また胸が苦しくなった。
せっかくの初デートなのに、俺はなんてことをしてしまったんだろう。
「…尊さん、本当に、こんな傷つけちゃって、すみません。本当は俺が刺されてたはずなのに、俺が勝手な行動したばっかりに…」
自己嫌悪に陥り、俺は俯いたまま声が震えるのを抑えきれずにいた。
その時、尊さんが「雪白」と俺の名を呼んだので
顔を上げる。
すると、尊さんは俺の頭をくしゃりと撫でた。
その手のひらは、優しく俺の髪を撫でる。
「お前が謝ることじゃない、それに、お前が動いてなかったらあの女の子が最悪死んでたかもしれないんだ。咄嗟に動けたお前は偉い」
そう言って優しく微笑む彼に、俺は思わず泣きそうになった。
尊さんの言葉が、俺の心にじんわりと染み渡る。
「……でも、やっぱり俺…今日、尊さんとの初めてのデート、だから…っ、ちゃんとしたかったのに、尊さんに…迷惑、かけちゃうし…っ、尊さんに呆れられてたらどうしようって……」
嗚咽を漏らしたところで、突然尊さんに抱きしめられた。
尊さんの腕が、俺の体を優しくしっかりと抱きしめる。
その温かさと、尊さんの匂いが俺の全身を包み込む。
驚いて言葉を失う俺に「あのな、雪白」と彼は少し強い口調で言った。
その声は、俺の耳元で響く。
「俺はお前に呆れたりなんかしてない、お前が怪我してなくて良かったって思ってるし、それに……」
そこで一度言葉を区切ると、尊さんは俺の目を見て言った。
その瞳は、俺の心を真っ直ぐに見つめている。
「俺はお前が無事ならそれで十分だ」
その言葉に、俺はまた泣きそうになった。
尊さんの言葉の重みが、俺の心に深く響く。
この人を好きになって本当に良かった、と改めて思った。
「……っ、ありがとう、ございます……っ」
涙声でそう答えるのが精一杯で、それ以上は何も言えなかった。
尊さんは俺の涙を指で拭って
「だから、もう泣くなよ」と優しく微笑んだ。