声はすれども姿は見えず。
しかし、ゼゲルの総身を震わす神気は紛れもなく真実。
パンドラのピトスと言えば、聖堂騎士団が信仰する女神そのものだ。
『ゼゲル、ようやく私の声が届いたようですね』
おお、神様。
そうゼゲルは平服しようとして、ぴたりと止まった。
「あの、助けに来るのが遅すぎませんか?」
「事情はあったかと思うんですが。もう少しで俺、殺されるとこでしたよ?」
自分が助かることは当然であるかのように、ゼゲルは抗議する。
これには流石の女神も閉口した。
女神はずっと呼びかけていた。
気づかなかったのはゼゲルの方なのだ。
しかし、いつまでも黙ってはいられない。
気を取り直して、女神が続ける。
『……不安なお気持ち、お察しします。間に合ってよかった』
「いや、ちょっと待て。お前本当に神か?」
女神の配慮もゼゲルには届かないらしい。
女神はゼゲルを助けたくなくなってきた。
「というか、なぜ俺を助ける? お前に何の得があるのだ?」
失礼千万。
本来ならば、ここで見捨てるところだが今回は女神にも事情がある。
『助ける代わりに、あなたにはしてもらいたいことがあります』
ひとつ、アーカードを討つこと。
ふたつ、この世に人権を広めること。
これを果たしていただけるなら、力をお貸ししましょう。
女神の言葉にゼゲルが猜疑(さいぎ)を向ける。
「約束しないと助けてくれないのか?」
『はい、そういうことになります。でも、これはあなたにとっても本望のはず』
いや、これは卑怯だ。
最初から俺に選択肢などない。
お前に従わなければ死ぬわけだから、こんなのは取引ではない。
強要だ。
自信満々に言い放つゼゲルに女神は呆れた。
助かるだけでも儲けものだというのに、とんでもない言い草だ。
女神はゼゲルを憎んだが、ゼゲルは気にも留めない。
「それに、人権など。今更だ」
「人権など存在しない、そんなものはまやかしなのだ。そうでなくてはならない」
奴隷は物なのだ。
そうでないなら、なぜ俺の妻子はあんなに惨く殺されたのか。
自分に刷り込むように、かつての無力を呪うゼゲル。
ひねくれ、ねじ曲がっているけれど。その姿は哀れだった。
かつて奴隷を解放する為に反旗を翻したにもかかわらず。
今では誰からも必要とされず、存在を否定されている。
そう思えば憎しみも少しは和らぐ。
『ゼゲル。その人権と呼ばれる概念は確かに存在します』
ばかばかしい、どこに在ると言うのだ。
言ってみるがいい。そんなものはどこにもないぞ。
『その概念はアーカードの前世に存在したものです。それを、アーカードがこの世界に持ち込んだ』
「何?」
ゼゲルの声が、ぞっとするほど低くなった。
「おい、それはどういうことだ?」
女神は説明する。
アーカードの前世はこの世界の人間ではないこと。
その世界に存在した人権と呼ばれる概念のこと。
転生時に与えた奴隷魔法によって、この世界は非常に危険な状態に陥っていること。
アーカードはその悪辣な手腕で地位を築き、富と権力をほしいままにしていることを。
ゼゲルの反応がない。
女神が何度か声をかけてみるが、小刻みに震えるばかりだった。
「ふざけるな。ふざけるなよ」
あいつだ。
全部あいつのせいだ。
その震えの正体は憎悪だった。
「つまり、ルナはアーカードから人権を教えられ。それを鵜呑みにして、反逆したのか」
そして、反乱を起こしたルナはアーカードによって討たれた。
ルナの声が聞える。
旗を振り、その澄んだ声で奴隷達を導いた。聖女の声が。
人間には生まれながらに「人であるが故に持つ権利」があり!
人は人権を持つが故にその尊厳を犯しても、犯されてもならない!!
行くぞ、今こそ新天地へ!!
ルナはあまりにも理想主義が過ぎたが、それでもいいやつだった。
途中で袂(たもと)を分かち、行き先こそ変わったが。
人の尊厳を守る為に命をかけたことに変わりはない。
それを、なぜアーカードが討つ?
人権は、お前が言い出したことだろう?
お前の言葉に踊らされて、ルナは死んだんだぞ!
お前が奴隷兵を差し向けて殺したんだ!!
そもそも、人の尊厳を犯すことが禁忌であった世界に生きていながら、なぜこの世界で奴隷商人をやっている?
言っていることとやっていることがメチャクチャだ!
アーカード。
俺はハガネの裁判を新聞で読んだぞ。
お前だって奴隷を物として扱っているだろうが!!
なぜ、なぜだ?
なぜそんなことができる?
怒りに震えるゼゲルに、女神が囁く。
『ゼゲル、あなたは正しい』
『人の尊厳は守られるべきものなのです』
そうだ。
その通りだ。
『カシアとお子さんの事は本当に残念でした』
カシア、おお。
我が妻カシア……。
名も無き、我が子よ。
人の口からカシアの名を聞くのは何年ぶりだろう。
『しかし、もういいのです。大切な妻子を物のように扱う必要は、もうないのです』
きょとんとするゼゲルに、女神が告げる。
『あなたは、あの時。怒ってよかったのです』
『我が妻子は物ではないと。人の尊厳は断じて踏みにじってはならないと』
「うぐぅ、うごおお」
ゼゲルは号泣した。
自分が何を誤魔化し、忘れようとしていたかを、ようやく理解したのだ。
「そう、だ」
「そうだ。俺は、俺は正しかった」
思えばゼゲルが児童を虐待し続けたのも、自分の子が踏みにじられた経験が生んだ歪みだったのかもしれない。
『そうです。ゼゲル、あなたは正しい。でなければ私はここにいません』
『世界中のすべてがあなたの敵に回っても、私はあなたを見捨てません』
聖堂教会の地下。
檻にて跪くゼゲルに祝福を。
『さあ、あなたに【チート能力】を与えましょう』
――ヴンッ!!
青年の周囲に緋色が瞬き。
透明色の赤い画面が広がっていく。
火炎魔法、氷結魔法、雷撃魔法、神性魔法……。
数多ある魔法の中から、ゼゲルが選んだのは。
『……また、【奴隷魔法】ですか』
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