日が昇ったのが、病室の分厚い遮光カーテンのほんの少しある隙間から見える明かりでわかった。瞼を閉じ、仕事や気疲れでヘトヘトだった身体を休ませようと思っていたのだが、結局は全然寝る事は出来なかった。
簡易ベッドから身体を起こし、カーテンを開ける。腕時計に目をやると時間は朝の五時五十分だ。もう少しで、唯がいつも目を覚ます時間になる。
味気のない病院のベッドの上で、布団に包まり穏やかな寝息をたてている唯の傍に戻り、側にある椅子の上に置いた物を避けてそこへ座った。
頭に巻かれた包帯以外はいつも通りの妻の姿を見ていると、少し複雑な気分になってきた。『俺の事を忘れてしまっているというのは、ただ悪い夢でも見ただけなんじゃないか』って都合よく考えてしまう。目を開けたら、いつものように『おはよう、司さん』って微笑みながら言ってくれるんじゃないかって、そう思えてならない。
可愛い子供みたいな寝顔を色々考えながら見ていると無性に唯の肌に触れたくなってきた俺は、そっと彼女を起こさない様に手を伸ばした。
白い頬を、壊れ物でも扱うような手付きで優しく触る。すべすべとした肌をそっと撫でると、唯の瞼が少しぴくっと動いた。そんな様子が可愛くて、くすっと少し笑いがもれる。ぷにっと頬を指で押すと、眉間にシワを寄せながらも「ぅ…… ん…… 」とちょっと言うだけで起きる気配がない。
(ここまでしても起きないなら、少しくらいはいいだろうか?)
音を立てないよう椅子から立ち上がり、唯の頬に触れたまま彼女にそっと口を近づける。寝ているんだ、口は流石にマズイかとは思うが、頬にキスくらいはいいだろう。
そう思い、あと少しで頬に俺の唇が触れようとした瞬間——
「そろそろ起きてくれないか、看護師が来るぞ」と言いながら、宮川が病室のドアをガラッと開けて中に入ってきた。
大慌てで唯から手を離し、急いで彼女から離れ、椅子に座る。
「…… あれ?一緒に寝てるだろうと思っていたんだが、先に起きていたのか?」
そう言う宮川の少し眠そうな顔。
「いや、一睡もしてないよ」
首を少し傾け、苦笑しながらそう言うと、宮川は「そうか…… 」と小さな声で答えた。
「てっきり同じベッドで寝ているものと思っていたんだがハズレたな、残念だ」
「残念って…… おいおい。唯は今、俺を覚えていないんだぞ?一緒になんて寝れる訳がないだろうが」
一度は誘われ…… たのかよくわからない流れではあったが、同じベッドに入りはしたものの、唯が完全に寝入ったタイミングでベッドを抜け出し、結局は簡易ベッドの方で横になった事を、俺は宮川には黙っておく事にした。
「戸籍上は夫婦だとはいえ、一緒のベッドで寝ていたら看護師が驚くだろうと思って先に起こしに来たんだが、そんな必要なかったか」
「そこまで気を回さなくてもよかったのに…… 。でもまぁ、わざわざ悪いな」
「気にするなよ、お前らしくない。——ところでだ、担当医の奴の話だと、退院は夕方までちょっと待って欲しいそうだ。怪我をしたのが頭なんで、二、三念のために検査しておきたいそうなんだ。お前も上に連絡だとかあるだろうし、丁度いいよな?」
「そうだな、じゃあ検査の間一度職場に戻るか。事情を話して、溜め込んでた代休と休暇を一気に使わせてもらうよ」
「それがいい。さてと…… それじゃ、悪いが俺はもう戻るよ。これから仕事なんでな」
「これからか?昨夜は夜勤じゃなかったのか?」
「違う。昨日は、お前の友人だって理由で呼び出されただけだ」
「…… なんで俺らが友達だって、その医者が知っていたんだ?」
「気心の知れている奴だったからな、警官の友人がいるってちょっと前に話した事があったんだよ。警察に行くか行かないかで悩んでいた件があったらしくてな、警視庁の番号とお前の名前を教えた事があったんだ」
「そうなのか。でも俺には何も連絡はきてないが、何事も無く終わったのか?」
「ああ、無事解決したようだよ。でも、勝手に教えて悪かったな」
「いや、問題ない。何事もなく済んで良かったな」
ホッとしたのも束の間。
「日向さーん、起きて体温を…… え?宮川先生!?お、おはようございます!」
病室の扉を開けて入って来た看護師が、宮川の顔を見てひどく驚いた顔をした。外科病棟に内科の医師が朝一で居た事に驚いたのか、宮川の存在そのものに驚いたのか。
いずれにせよ、看護師の表情が少し強張っている事から、どうやら彼女は奴の事が苦手そうだ。俺の前では最近殆ど見せなくなった無機質な表情に、宮川の顔が一瞬で変わる。
「ああ、おはよう。友人の家族の容態が気になってね、邪魔をしてすまなかった」
「い、いえ。こちらこそお話中に急に入ってしまい失礼致しました。また後で来ます」
「いや、もう仕事に戻らないといけないから君の仕事を優先してくれ。日向、忙しくなければ退院前にもう一度顔を出せたら出すよ」
そう言い、病室を出て行く宮川に「わかりました、すみません。お、お疲れ様でした」と看護師が頭を下げる。
「色々悪いな、ありがとう」
『気にするな』と返事するように軽く手を上げてみせて、宮川は仕事へ戻って行った。
看護師がほっと息をつく。短時間なのに、相当緊張していたみたいだ。
「えっとそれじゃ、奥様の体温を測ってもらってもいいですか?」
嵐が去った後の様な安堵した表情でそう訊く。…… これは、宮川の奴はかなり苦手意識を持たれているな。いったい、どんな言葉を彼女に投げつけたんだか。