「唯、起きてくれないか?」
身体を揺すられ、まだ朦朧とする意識の中に聞き覚えの無い声が聞えてきた。
薄っすらと目を開けると、これまた見覚えのない無機質な背景と、知らない男の人の顔が目の前に。
いや違う、何となく見た事があるかも。
(どこでだっけ?思い出せない…… )
覚えてる最後の記憶は、こっちへ向かって飛んできたビール瓶と、香坂君と店長の心配そうな顔——
(思い出した!この人、運ばれた先の病院で会った男の人!)
カッと目をいっぱいに開き、勢いよく飛び起きると、すぐ傍に居た男の人が「うわ!」と驚いたような声をあげ、後ろへと下がった。
「あ、ごめんなさい!」と、慌てて謝る。
「急に起きない方がいいぞ?今俺が避けていなかったら、おもいっきり頭をぶつけていた所だったんだからな」
彼が冷や汗でも流れ落ちそうな顔をする。
「そうですよね、すみません」
「いいよ、気にするな。でも、頭を怪我しているんだからもうちょっと慎重に動いた方がいいよ」
目の前の彼はそう言い、包帯を気にしながら頭部にそっと触れて、優しく頭を撫でてくれた。
この人の名前…… 何て言っていたっけ?
——日向…… 司さん?だったかな
ちょっと自信はなかったが、彼の顔を見上げながら「日向…… さん、でしたっけ?」と、顔色も探りつつ訊いた。
「名前、一回で覚えてくれたんだね。嬉しいよ」
優しく微笑みながらそう言うと、そっと日向さんが私の頭から手を離した。
「日向司、昨日話した通り職業は公務員で年齢は三十五歳だ。記憶にない相手で不安だろうが、君が嫌でなければ出来る限り看病をするつもりでいる。でもどうしても嫌なら、君の実家の方へ頼んではみようと思うが…… どうしたい?君に任せるよ。言葉遣いもこのままが嫌なら敬語で話すが、どうしたらいい?」
膝の上に手を置き、すごく真面目な顔で訊かれた。
確かに、記憶に無い人に『看病する』と急に言われて不安ではあるが、うろ覚えの記憶では、確かこの人は私の『夫』なのだと、昨日店長が言っていた気がする。
そして今の私は、アルバイトをしないと家賃も払えないような苦学生ではなく、この人の——『奥さん』だ。
——ん?
待って、私が『奥さん』!?
家事も掃除もろくに出来ないっていうのに、いったい私はどんな主婦生活をしていたんだろうか?…… ぜ、全然想像がつかない。食事付だという理由でバイト先を選び、掃除する手間が減るという理由で物のない部屋に住んでいたというのに。
でも…… でも、この、私の好みドストライクなお兄さん私の『夫』である今の状況は手放しがたいお話で、知らない人だからという理由で看病をしてくれるなんて美味し過ぎるシチュエーションを蹴る何て——
「いえ、日向さんさえよければ、このままで色々と是非お願いします!」
当然、私には出来なかった。
相手は私の記憶にはない人だとはいえ『夫婦』だったそうだし、変な人ではないはずだ。欠落している部分ではあるが、自分の視る目を信じ、私はこの現状を甘んじて受け入れる事にしてみた。
「よかった、正直それが一番楽だからね。君のご両親は知っての通り仕事で忙しいし、俺の両親に頼むのもオカシイから。かといってずっと入院しててもらう程にはウチも余裕はないからね、ありがとう」
日向さんのほっとした表情に、下心たっぷりで現状を受け入れた事に少し心が痛んだ。
この人、とてもいい人みたいだ…… 。
きっと奥さんの事もすごく大事にしていたんだろうなぁ。
自分がその『奥さん』であるというのに、他人事みたいに思える。そして、少し感じる嫉妬にも似た気持ち悪さも。
「検査がまだ少しあるらしいんだ、だから退院出来るのは夕方になるらしい。早期退院出来るのはきっと、外傷は少ないおかげだな」
「わかりました、じゃあ退院の用意をしておかないといけませんね」
コクッと頷いてそう言ったが、よく考えたら荷物何て殆ど無い。バイト先に持っていった手荷物が一つある程度なのに、私ったら何言ってるんだか。
「そうだね。俺は一度職場に戻って休暇願いを出したり、退院の手続きをしたりする為に判子とかを取りに一度家に戻るけど、昼間は一人でも大丈夫かい?」
「ええ、平気ですよ。心配してくれてありがとうございます」
少しでも安心してもらいたくて、笑顔でそう答えた。
「そうか…… よかった。欲しい物だとかはない?」
「いいえ、特には」
「じゃあ食べたくないものだとかは?俺は、『今の君』の好みをよく知らないから、教えてもらえるとありがたいんだが…… 」
——チクッと、心の端にまた妙な痛みを感じた。
「…… 貧乏性なので、何でも平気ですよ」
「料理は得意ではないんだ、あまり期待はしないで」
「あの…… 私は、きちんと料理だとかはやっていたんですか?」
「ああ、とても上手だったよ。家事全般は得意なのか、何でも一人でこなしていたね」
「…… そう、なんですか」
たった数年先の自分の事なのに、自分の話だとはとてもじゃないけど聞えない。
いったい、私の中で何があったというんだろうか?一人暮らしをしていても、趣味の紅茶以外はさっぱりまともに出来ない人間だったというのに。
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