女性の名は内野綾子(うちのあやこ)、32歳。
綾子はこの食品工場で働き出して半年が過ぎていた。
綾子は東京出身で半年前までは東京で暮らしていた。
実は綾子には暗い過去がある。
綾子は26歳の時に脚本家の松崎隼人(まつざきはやと)と結婚。その翌年長男理人(りひと)を出産した。
理人は2年前、3歳の時に交通事故で死亡。その後すぐに綾子は隼人と離婚をした。
理人が亡くなった日、綾子は近県のホテルで行われていた結婚式に出席していた。
夫の隼人が珍しく子守りを引き受けてくれたので、綾子は理人を夫に頼んで出掛けた。
二人は家で留守番をするものだと思っていた綾子は、式場へ向かう列車の中で夫が軽井沢へ向かっている事を知り驚く。
隼人からのメッセージには、日帰りで理人と軽井沢に行ってくると書いてあった。
その頃隼人はスポーツカータイプの外車に買い替えたばかりだった。
きっと隼人はその試し乗りがしたかったのだろう。
夫は車好きだったので、それまでも突然深夜に首都高を走って来ると言って出かける事も多かった。
普段子供の世話をほとんどしない夫が、一日中マンションで息子の世話をするのは無理があったのかもしれない。
理人は乗り物好きなので車に乗っている間はいつもおとなしい。
だから隼人は理人をドライブに連れ出そうと思ったのだ。
夫は軽井沢に別荘を持っていたので通い慣れていた。隼人は時折仕事関係者を別荘へ招く事があった。
特に新しいドラマや映画製作の前には、プロデューサーや監督、出演者やスタッフを招いて親睦を深める事も多い。
だから綾子は特に心配する事もなく【車の運転気をつけて下さい】とだけ返信した。
夫にメッセージを送った綾子は、その後結婚式へ出席した。
その日結婚式を終え帰りの電車に乗った綾子の元へ、知らない番号からの着信があった。
座席にいるので電話に出られなかった綾子は、すぐに留守電の録音を聞いた。
電話は長野県警からだった。
綾子は当時を思い出してフーッと息を吐く。食べ終えた弁当箱を片付けると缶コーヒーをプシュッと開けて飲み始める。
そして澄んだ空をじっと見つめた。
いつも思い出すのは同じ場面だ。
あの時、もし息子を実家の両親に預けていたら_____綾子は何度も悔やむ。
しかし悔やんでも理人は帰って来ない。
綾子はもう一度フーッとため息をつくと、スマホの小説に集中しようとした。
その時誰かの足音が近づいて来た。
綾子が顔を上げると、同じラインで働いている60代の寺崎光江(てらさきみつえ)がこちらへ歩いて来るのが見えた。
寺崎は恰幅のいい白髪交じりの女性で、顔はいつも怒っているような怖い顔だ。
顔は怖くて態度はぶっきらぼうだが、パート仲間からは慕われている。
肝っ玉母さんタイプで面倒見がいいからだろう。パートの中では古株なので上司たちからも頼りにされている。
その光江はこうして綾子が弁当を食べていると時折屋上へ姿を見せるようになった。
もちろん綾子は誰とも関わりたくないので、挨拶以外の会話はほとんどしない。
綾子は慌てて顔を逸らすとなるべく関わらないようにと気配を消す。
しかしそんな綾子にはお構いなしに光江は綾子の隣に腰を下ろした。そしてポケットから煙草を出して火をつける。
「内野さんさぁ、茄子いる?」
「?」
「だから茄子いる?」
「…………」
「食べきれないんだよねー。さっき職場の人に配ったんだけれどまだあるんだ。良かったら持ってかない?」
「…………」
「焼き茄子とか麻婆茄子とかさぁ、煮びたしとか天ぷらとか? 美味しいよ」
綾子は戸惑う。新鮮な野菜は好きだがここで関わると後が面倒だ。
人との関りを極力避けたかった綾子は黙ったままどうしたものかと考えあぐねる。
しかし光江は返事を急かすでもなくのんびりと煙草をふかしていた。
もしかしたらこのまま黙っていればなかった事になるかもしれない。そう思った綾子は、缶コーヒーを一口飲むと小説の続きを読み始めた。
するとそれに気付いた光江が綾子に聞いた。
「漫画? 小説?」
「…………」
「取って食ったりしないから、一言くらい返しなよ」
「……小説です……」
「なんて小説家?」
「神楽坂仁」
「あ、神楽坂私も好きだわ。何読んでるの?」
「『黒百合街道』」
「それ新作だね、まだ読んでないわ。私はあれが好き。『スノードロップ~あなたの死を望みます~』。読んだ?」
綾子は頷く。
「あの人、最近テレビドラマの原作もやってるの知ってる?」
それは初耳だったので綾子は首を横に振った。
「それがさぁ、ミステリーやサスペンスじゃなくて恋愛モノだよ。結構いいんだよねぇ。今も毎週やってるから見てごらんよ」
光江は顔を上に向けるとフーッと煙を吐いた。
そこで綾子はスマホの時刻を見てハッとする。そろそろ休憩の終わりだ。
綾子は荷物をまとめて立ち上がると、光江に軽く会釈をしてその場を後にした。
そんな綾子に向かって光江が叫んだ。
「茄子、ロッカーに掛けておくから持って帰んなよ」
その声に綾子は一度立ち止まって振り返る。そしてもう一度光江に会釈をすると屋上を後にした。
コメント
5件
綾子さんの凍りついた心が光江さんとの関わりで少しずつ溶けていってほしい…
元旦那は脚本家だったのね。光江さんとの関わり合いで少しずつでも鍵を閉めてた心が開いて行けると良いよね。
そりゃあ こんな辛い過去があったら 人間不信になるし、誰とも話したく無くなるよね😰 光江さんは、きっと何となく察していて 気遣ってくれてるんだろうなぁ....🤔 ミステリー小説がきっかけで、少しずつでも会話ができるようになると良いけれど🍀